私が9歳の時のこと。夏休みになると熊本県水俣市袋の祖父母宅へ何回も行って泊まった。蒸気機関車で鹿児島県の米之津駅から隣の袋駅まで行った。冷水が飲める駅前の井戸端を通り、桜並木を歩くとすぐに祖父母の家に着いた。クマゼミが激しく鳴いていたものだ。
掘っ立て小屋のような家の土間に立つと、すぐ前にいろりを切った板間があった。一段高い右手には仏壇があり、壁には戦死した息子2人の軍服姿の写真があった。半裸の祖父の右肩には日露戦争で受けた銃弾の傷跡が見えた。明治天皇からいただいたという勲章も見たことがある。
祖父母は戦死した息子の年金とわずかな借地の農業で生計を立てていた。夏期にスイカを作り、水俣の市場まで担いで出荷した。商品にならないスイカをもらって帰るのが、小学生の私の任務だった。
風呂敷に4個も包むと重いものだった。米之津駅から家までの3㌔を、割らないように歩かねばならない。が、苦にはならなかった。私は家族の喜びを運んでいたからだ。
祖父母の家に泊まると、翌朝、夜明け前に祖父はスイカ畑へ私を連れて行った。朝露にぬれたスイカを左利きの祖父は巧みな鎌さばきで割った。冷えたスイカは腹の底の底まで染みわたったものだ。
今年もまたクマゼミの声を聞く。そしてスーパーで赤い半月のようなスイカを見る。たまらなく切なくなる。
出水市 中島征士 2011/7/30 毎日新聞
男の気持欄掲載