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伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 16 松平定昭(第14代藩主)

2010年11月05日 | 往年の名車 メグロ
伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 16 松平定昭(第14代藩主)

第13代藩主勝成も子宝に恵まれず、伊勢国津藩主第11代藤堂高猷(たかゆき)の4男を養子として、松平定昭が継承する。

藤堂高猷の祖先は、今治藩初代藩主の藤堂高虎で、伊予松山初代藩主加藤嘉明とは豊臣秀吉時代共に活躍した武将である。関ヶ原の戦いで東軍に組し徳川家康から伊予国半分20万石を加藤嘉明に、半分の20万石を藤堂高虎に領分された仲で、幕末その藤堂高虎の血を引く藤堂家から養子を向え伊予松山藩14代藩主を継ぐ事になる。

定昭は、藤堂家の血統を持ち剛遇で名が知られていたから、幕府側の期待が大きく、この難局を打開しようと会津藩主の松平容保と桑名藩主の松平定敬らが協議した結果、慶応3年9月23日に老中職に任じた。
松山藩では、この多事多難な時期に当たり、定昭の老中職就任を喜ばないものが多く重臣たちは大政奉還の後その職を離れるよう進め、定昭が決意し老中職を辞したのは同年10月19日の事で、老中在任僅か1ヶ月にも足らなかった。

その結果、松山藩は親藩でありながら、徳川氏をはじめ会津・桑名等の佐幕派の諸藩から疎んぜられる結果となった。
朝廷では12月9日に王政復古の大号令を発し革新政治の第一歩として明治維新がくる事になる。
松山藩は摂津国梅田村警備の任に当たっていたが、合・桑の両藩は定昭の老中辞任を不愉快として疎外され、したがって鳥羽伏見の戦いにも参加せず、定昭は藩士を率いて帰国した。

藩では親藩であるがゆえに朝廷から松山追討問題が起こり、藩内では恭順派と主戦論者とに分かれ、薩摩・長州に徹底的に抵抗すべし論者がいたが、恭順派に従い15万石を朝廷に返納し、定昭は城を出て常信寺に退去しひたすら謹慎の意を表した。
その後松山藩は土佐藩預かりとなり、松山城を土佐藩は受領した。
2月長州藩隊長杉孫七郎は常信寺に来て、勝成・定昭父子の謹慎状態を調査確認し報告によって当局の認める事となった。長州藩隊長杉孫七郎は松山藩の蒸気汽船を没収して持ち帰ったとある。

その後松山藩主は、第13代藩主を務めた松平勝成が第15代藩主として再任される。
以上「伊予松山藩歴代藩主の家系を見る」を記載してきたが、文献は、昭和46年松山市発行の「松山城」から引用と私の主観がある。

画像は、松山城本丸と本壇を上空から撮影した。
本壇の連立式城郭がよく判ってもらえると思う。
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