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日本最大の登り石垣が現存する!伊予松山城

2020年10月20日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

新型コロナ禍の中、各地の観光地は観光者が激変し閑散としていたが、10月から「GoToトラベルキャンペーン」が、そして地域共通クーポンもスタートし、松山城・道後温泉にも観光客が戻って来た。

前項で記しました通り、

ウエーブサイト「トリップ・アドバイザー」が発表した旅好きが選ぶ!日本人に人気の日本の城ランキング・ 2020版で伊予松山城が第3位に選ばれましたので、これから全国のお城好きの皆さんが改めて鑑賞に来られると思います。

一昨日松山城に行ってみましたが多くのお城好きの皆さんが来られていました。
東京都福生市からお越しになったご夫婦をご案内いたしました。一昨日18日(日)は絶好の好天気で青空をバックに松山城天守が映えました。

松山城にお越しの皆さん。

その時は、是非日本最大の登り石垣をご覧になって下さい。この項では全国一を誇る登り石垣を中心にご案内いたします。
その前に、伊予松山城には5つの日本一がありまして、それは下記のとおりです。

 第1番目:近世(安土桃山時代から江戸時代)に創建された天守のうち最後に建築された天守です。
                 今から   1 66年前(安政元年・1854年)に建てられた。現存する12天守の内・・一番新しい

第2番目:築城に要した年月日が27年を要した・・一番長い期間

第3番目:本丸と二之丸の落差が90m・・一番距離が長い

第4番目:石垣が美しい・・本丸と本段の石垣「屏風折れの石垣」が綺麗

第5番目:藩政時代の城郭の中で3ヶ所しかない登り石垣が現存する、それも・・一番規模が大きい

      登り石垣を有する城は、洲本城・彦根城・伊予松山城である。洲本城には今は、現存しない。

加藤嘉明は、築城を開始した際、国内最大級の登り石垣を南面と北面に築きました。
朝鮮出兵で倭城(安骨浦城)を築城した嘉明はこの時の技を松山城築城に生かしています。

日本最大の登り石垣について画像を交えてご紹介いたします。

画像は、加藤嘉明が築いた5層天守時代の鳥瞰復元図です。

ご案内する日本最大の登り石垣は、南登り石垣です。残念ながら北登リ石垣は崩壊しておりまして二之丸の取次と本丸の取次(接続)部分は現存しております。

註:二之丸御殿は海抜39mにあります。

登リ石垣は、二之丸を防御するためのものです。

文久4年(1864)第13代藩主、松平勝成時代の伊予松山城、城郭図です。

三之丸から見た現在の様子です。

南面の登り石垣は完全な状態で保存されていて規模は、長さ233m、高さ5mあります。

二之丸に接続する南の登リ石垣で高さも一番高い部分で高さ10m位あります。

画像中程に見える広場は、三之丸です。

二之丸に接続する南の登リ石垣で高さも一番高い部分です。

平成13年3月24日、15時28分頃におきました芸予地震、松山市で震度5強の揺れで石垣が少し孕み修復をしております。

南面の登り石垣は完全な状態で保存されていて規模は、長さ233m、高さ5mあります。しかし近年石垣に隣接している樹木の根の侵食で石垣が外側に押し出され孕んできていました。

これを防ぐ為に樹木を伐採して石垣の保護をしました。(松山城の樹木は昭和63年に愛媛県が天然記念物に指定し勝手に伐採出来ない。)松山市は、愛媛県と伐採の理由を説明し、国、県から現状変更の許可を得伐採作業を行いました。

その結果、南面の登り石垣から2m以内の樹木を伐採、石垣の上に生えた直径70cm樹齢100年のアベマキもありました。根は約50年掛けて腐食し、その間に石が元の位置に戻ると考えています。

画像は、平成19年3月4日に登り石垣現地説明会が開催され、参加した松山市民その時の画像です。
講師は愛媛大学の内田教授で、前日、韓国の倭城の説明会が開催され、講師は、大韓民国の釜山東三洞貝塚展示館館長・釜山博物館学芸研究士の、羅東旭 氏を迎えて行われ、現地説明会にも参加して盛大に行われました。

説明会には現地で、愛媛大学生が登り石垣の実測も行いました。
指示を出す方が愛媛大学内田教授です。・・このあたりに刻印が見られ、説明会の為特別に見やすくする為に白墨を入れました。

南面登リ石垣の内側上部で二之丸の一部、往時にはこの部分に外側からの侵入者を防ぐための渡塀と所々に小さな櫓がありました。

石垣から2m以内の樹木は石垣保全のため県の許可を得て伐採しました。
画像は、石垣上部「内側」で、石垣の上に生えた直径70cm樹齢100年のアベマキもありました。根は約50年掛けて腐食しその間に石が元の位置に戻ると考えています。

松山城にも本丸・二之丸の石垣に刻印がありますが、登リ石垣にも刻印があります。

本丸の石垣に接続する部分で、普段は行けない場所ですが松山城フォーラムでは特別開場されました。

画像上部の石垣は、本丸の石垣で待合番所跡の部分に接続します。

この画像は、北登リ石垣で本丸の石垣と接続する部分です。上に見える櫓は乾櫓で、接続部分の上が、故・坂東三津五郎さんおすすめの松山城の風景を眺められる場所です。

画像は、本丸に積まれた屏風折れの石垣の一部で普段は行けない場所です。場所は馬具櫓の下です。

石垣は、城の防御や建物の土台の役目を果たし、より高く積み、急勾配であるほど防御能力は強大になります。

近世の城(安土桃山時代以降)は近代的な石垣が構築され、本格的に普及を始めたのは、織田信長の安土城です。

このとき信長に招集された石工集団・穴太衆は、豊臣秀吉の時代から江戸初期にかけて多くの城の石垣造りに携わってきた。野面積み・切込み接ぎ・打込み接ぎ・算木済みと言った積み方がある。

滋賀県大津市坂本に、穴太積み(野面積み)を継承する石垣積み専門の石工建設会社がある。

鳥瞰復元図に赤色の矢印のところの石垣に刻印が多くあるところです。

松山城は平山城です。呼び方は平山(ひらやま)城(じろ)と平(ひら)山城(さんじょう)と言う呼び方をします。

平山(ひらやま)城(じろ)と平(ひら)山城(さんじょう)のちがいは。

平山城(ひらやまじろ)とは、
戦闘を目的としてけわしい山地を利用した山城と、権勢の象徴として要衝の平地に建つ平城との、その中間にあって、両者の性格を併せ持つ城をいう。主として建築学的分類に用いられる。

平山城(ひらさんじょう)とは、小高い岡の頂きをならして造られた城をいう。

主として地形学的呼称に用いられる。・・と記述があります。

この刻印は、ロープウェー山頂駅舎から登城すると最初に見えてくる高石垣上部に書かれた刻印です。

幾多の地震にも耐えて来たが、昭和21年12月21日午前4時19分に発生した昭和の南海地震で石垣が孕み、昭和22年修復時の関係者の氏名が刻印されている石垣です。・・「算木積石垣」上部にあります。

昭和22年石垣修復工事:刻印は下記の事項が書かれています。

工事関係者

市  長  安井 雅一

監  督  田内 亀太郎

施 工 者  栗林 朝美

石   工  管能 寅吉

人 夫 頭  石丸 長次

参考事項:

宝永4年10月4日・宝永の南海地震・道後温泉、温泉止まる(11月23日富士山大噴火)
安 政 元年11月 5日、安政の南海地震で道後温泉、温泉止まる。
昭和21年12月21日、午前4時20分・昭和の南海地震・道後温泉、温泉止まる。
平成13年 3月24日、午後3時27分・芸予地震・道後温泉、温泉濁る。

五芒星の刻印

本丸隠門続櫓の下にある五芒星(桔梗紋・清明桔梗)の刻印で、魔除けとして使われ、特に明治33年、陸軍大将から兵卒まで陸軍の軍帽子上部に五芒星が刺繍され、敵の弾除けの意味をかついで採用されていました。

松山城も敵の攻撃から護る・・魔除けの意味をもって刻印されました。ここに一つしかない刻印です。全国でも珍しい刻印です。

昭和22年石垣修復工事がされました高石垣で、刻印のある石垣上部が積替えされました。

五芒星(桔梗紋・清明桔梗)魔除けの意味をもって刻印もこの一面左側にあります。ここに一つしかない刻印の場所です。

櫓は、隠門続櫓です。

萬字紋(鉤十字)で、説明会に特別見やすくするため白墨を入れました。

場所は二之丸御殿跡の四足門前にあります。全国でも珍しい刻印です。

愛媛県庁舎裏側あたりの登り石垣の一部です。

本丸の屏風折れの石垣で、普段は入れない場所です。

櫓は、本壇にある南隅櫓で、続塀は乾門東続櫓東折曲塀です。

本丸の屏風折れの石垣で、下部の石垣の積み方は野面積みで松山城の石垣では少ない野面積みです。殆どの石垣は打込み接の積み方です。

画像の櫓は、馬具櫓です。

平成19年3月4日、開催された「登り石垣のルーツをめぐって」の案内パンフです。

平成18年1月9日、愛媛新聞記事「登り石垣保存に苦慮」です。

伊予松山藩主第2代、蒲生忠知24万石時代の伊予松山城鳥瞰図です。

二之丸と二之丸にある城主の御殿、二之丸を防御する南北の登り石垣、そして本丸の屏風折れの石垣がよく描写されています。

本丸広場は標高132mあり、二之丸御殿は標高39mにあります。

画像は、鈴木 陸夫氏提供。

伊予松山城二之丸御殿跡です。現在松山城二之丸史跡庭園と呼んでおります。

画像右下の門は「四足門」です。

海抜39mにある二之丸御殿を防御するため南北に日本最大の登り石垣を構築しました。

 

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