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伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 15 松平勝成(第13代藩主)

2010年11月05日 | 往年の名車 メグロ
伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 15 松平勝成(第13代藩主)

第12代藩主定穀(勝善)にも子宝に恵まれず、讃岐国高松藩主第9代松平頼恕(よりひろ)の6男を養子とした(松平定成・勝成)
松平定成・勝成(以下勝成と呼ぶ)勝成は、第15代将軍、徳川慶喜の従兄にあたる。

勝成の時代は、大変な時代で幕府の命令で長州征伐に、勝成は四国軍の先陣をきって徳山に上陸、松山藩では、家老水野佶左衛門と藤野正啓とが大阪に赴き征長総督徳川慶喜と作戦打ち合わせを行った。長州では恭順派が主戦派を抑えて藩主は責任者を処分して謝罪の誠意を示したので幕府は征伐の中止を命じた。

翌慶応元年主戦派の高杉晋作らは恭順派を抑えで軍備を増強し幕府側に抵抗第2回長州征伐が始まり、以後と鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争、維新となっていく。
勝成は、明治45年(1912)81歳の長寿で逝去するが、勝成も子宝に恵まれず、伊勢国藩主藤堂高猷(たかゆき)の5男を養子に迎えは第14代松平定昭として継がれ維新を迎える。

松平勝成、明治45年(1912)81歳の長寿で逝去
従四位上 左近衛権少将  隠岐守

画像は、松山城天守で、慶長7年(1602)加藤嘉明が築城した天守は5層の偉容を誇っていたが、寛永19年(1642)久松松平定行はこれを3層に改装したが、天明の落雷で焼失、現在の天守は、その後嘉永5年(1852)に復元されたものでわが国城郭建築史上における最後の天守として注目されている連立城郭である。

天守は、地盤面から4m高く石垣を築き天守台に天守を築き石垣の中は米蔵となっている。(古来これを地下1階と呼ぶ)内側の石垣は湿度調整の配慮から安山岩を積み、土間はやはり湿度調整にため素焼きの瓦を敷き詰め、部材は防虫効果を配慮して楠木を使用し万全な配慮がなされている。

天守台の上には、3層3階の後期層塔型天守が築かれている。
建造時期は、嘉永5年(1852)12月20日の再建完成で、あるが落成式は安政元年(1854)2月8日に盛大に行われたので、公には安政元年とされている。

第12代藩主松平勝善の建造である。


昭和10年5月13日国宝に指定されたが、昭和25年5月、文化財保護法の制定により重要文化財に指定された。

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