この度、秋山好古揮毫の石碑写真集第3版が秋山好古生誕166年記念に令和7年4月29日付けで刊行された。
平成23年12月1日に2版が発行されてから新たに石碑が5基発見され今回3版に追加掲載された。
その石碑は次の通りである。
神奈川県平塚市・長野県安曇野市・京都市右京区・愛媛県大洲市・愛媛県上浮穴郡久万高原町に発見され掲載されている。特に京都市右京区の石碑は、関西地区で初めての石碑で大変貴重な石碑であります。
秋山好古・眞之生誕地生家再建事業は、平成17年1月18日完成し、その日にNHKおはよう日本の大型ニュース番組で現地から生放送され全国に紹介されました。
またNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」が放映され今まで2度に渡り再放送があり全国から秋山兄弟愛好者の方々が大勢お越し頂いています。
平成17年5月5日生誕地に大阪から来られた好古支援者の方から重信町(現東温市)にある神社に好古が揮毫したものがあるそこ行きたいので紹介して欲しい質問がありました。秋山邸ではその情報の持ち合わせがなくご案内出来ず大変な罵倒でお叱りを受けました。
後日神社に伺い宮司にお聞きすると「築島神社」と揮毫した神社の社号額でありました。
私はこれが切っ掛けとなり好古揮毫の石碑調査を始めました。
今年で20年になります。その集大成がこの写真集第3版です。
秋山好古揮毫石碑写真集第3版は国立国会図書館・愛媛県立図書館・松山市立中央図書館に納本しておりますのでご覧になって下さい。秋山兄弟生誕地にて頒布いたしております。
なお、新たに発見された5基の石碑を掲載します。
先ずは、京都市右京区の石碑からご案内します。
1.碑 文: 山國御陵
2.所 在 地: 京都府京都市右京区京北井戸町(常照皇寺参道口)
3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者: 山國村(旧 京都府北桑田郡山國村)
5.建立年月日: 不 明
6.墓石大きさ : 高さ182cm 横幅 96cm 厚さ 22cm
7.石碑の由来: 石碑裏面には「昭和戊辰御大典記念陸軍大将従二位 勲二級 秋山好古 山國村建と書かれている。
石碑建立の場所は、常照皇寺の参道入口、(寺の背後には光厳天皇の山国陵、後花園天皇の後山国陵、後土御門天皇の分骨所がある。)に建立されている。
京都市右京区に関西で始めてとなる貴重な石碑です。
石碑裏面には「昭和戊辰御大典記念陸軍大将従二位 勲二級 秋山好古 山國村建と書かれている。
この石碑の所在情報を頂いたのは、京都市右京区在住の、左賀 秀機氏からであった。初期コロナが発生し旅の移動が制限されていた。そのため石碑の写真撮影、寸法計測等全て左賀氏からの提供である。
撮影をするため、石碑の清掃をいたしたくその許可を受けるため、文化庁京都庁舎、常照皇寺に伺うも両者とも関係がなく、地元自治会の了承を得て、その事務作業全て左賀氏が行って頂いた。心よりお礼申し上げる。
石碑は、関西地区ではじめて発見された大変貴重な碑である。しかし揮毫の経緯は不明である。
私の憶測であるが、好古は毎年開催されていた全国中学校校長会に出席し、会場は、何時も東京日比谷の府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)で行われていた。
この時、京都の中学校校長から揮毫を依頼されたのではないかと想像する。
伊予松山15万石の藩校、明教館で基礎教育を身に付け、大阪高等師範学校で、陸軍士官学校で、陸軍大学校第1期生として多彩な知識を身に着け、その後元帥に推薦されるもこれを辞退した好古に大元帥(大正天皇)は大変驚かれ、特旨として官位従二位を授与された超有名な教育者であった。
校長会でも他の校長たちは、好古を敬慕し、その人格に非常な尊敬を感じていた。東京の新聞に次の事が報じられた。「元帥を辞退し、錦をステテ故郷の中学校長となった秋山大将、三日にして第一中学生と化す。」「若い学生のあの純眞さが尊い。あれはそのまま成長させねばならぬ。私の学校には千人ほどの学生がいますよ」・・とさも心地よく語ったと新聞は報じた。・・そのような人物だからこそ揮毫依頼があったと思うのである。
石碑建立の場所は、常照皇寺の参道入口、(寺の背後には光厳天皇の山国陵、後花園天皇の後山国陵、後土御門天皇の分骨所がある。)に建立されている。
次に、長野県安曇野市である。
53基の内唯一墓石である。
1.題 標: 正八位 内田與作墓(墓 石)
2.所 在 地: 長野県安曇野市豊科高家388番地5
3.揮 毫 者: 陸軍騎兵大佐 秋山好古(題標を揮毫)
4.撰 並 書: 陸軍騎兵大尉 稲垣三郎
5.建 立 者: 内田與作の実父(内田 茂市・もいち)
6.建立年月日: 明治35年1月11日
7.墓石大きさ : 高さ98cm 横幅39,5cm 厚さ38,5cm
8.石碑の由来 :
内田與作騎兵隊員は、長野県南安曇野郡高家村(現 安曇野市豊科)で内田 茂市の長男として生まれた。明治25年12月1日第一師団騎兵第一大隊に入隊し、その後騎兵一等卒に進み馬術・銃鎗の技を修め本体に属し戦地に赴く。斥候の任務に服し蓋平の戦いに於いて勇ましく戦い、二道溝栄口に敵を迎え撃つも激戦の末名誉な戦死をした。内田與作騎兵隊員の実父、茂市は息子の名誉な戦死を内田家の後世に伝えたく秋山好古に揮毫を依頼し墓を建立した。現在、好古揮毫の石碑は全国に53基発見されているが、名誉な戦死をした優秀な騎
兵隊員について墓石(石塔)に揮毫したのは初めてである。
情報提供者は、神奈川県平塚市の添田敬子氏で、東京世田谷区に秋山好古自身が建立した「日清戦争で名誉な戦死をした優秀な騎兵隊員の哀悼碑」の裏面に騎兵隊員15名の氏名を好古は自筆で揮毫している。敬子氏は、これをもとに国立国会図書館で、ご遺族の所在を調査されその結果、内田與作騎兵隊員の出身地が判明した。
平成27年10月、この事を私に連絡して頂き、同28年5月31日現地、長野県安曇野市豊科に伺い写真取材をした。
追記:このたび石塔が発見され、好古が哀悼の意を篭めて東京世田谷に哀悼碑を建立した思いが120年経過したいま点が線として繋がったその証である。・・「高が石碑、然れども石碑」今回の取材で特に痛感した。
特記事項:秋山好古の妻、多美は昭和25年2月12日、長野県安曇野市豊科に居住していた好古の次男、次郎宅で他界した。内田與作の墓所から僅か4kmの近くであった。(今回の取材で判明した)
内田與作の石塔に刻印されている。秋山好古は、予備役後愛媛県松山市の北豫中学校校長(現・愛媛県立松山北高等学校)として昭和5年まで努め、稲垣三郎は、予備役後日本体育会体操学校(現・日本体育大学)校長を努めた人物である。
次の石碑は、神奈川県平塚市の石碑です。
1.篆 額: 義 烈 (篆額:石碑などの上部に篆書体で書かれた題字)
2.碑 文: 鐡馬奮闘 蹴雪衝風 斃而後止 惟義惟忠
3.所 在 地: 神奈川県平塚市広川・広川八幡神社
4.揮 毫 者: 陸軍騎兵大佐 秋山好古
5.建 立 者: 添田保吉(賢次郎・実父)
6.建立年月日:明治31年10月吉日
7.碑石大きさ:高さ 1m 70cm 横幅 1m 23cm 厚さ 24cm
8.石碑の由来:
添田賢次郎は、神奈川県大住郡金目村字広川(現 平塚市広川)で保吉氏の長男として生まれた。明治26年12月第一師団騎兵第一大隊第二中隊に入隊し、その後騎兵一等卒に進み馬術・銃鎗の技を修め本体に属し戦地に赴く。斥候の任務に服し蓋平の戦いに於いて勇ましく戦い、二道溝栄口に敵を迎え撃つも激戦の末名誉な戦死をした。実父添田保吉は、息子の名誉な戦死を添田家の後世に伝えたく秋山好古に揮毫を依頼し石碑を建立した。現在、好古揮毫の石碑は全国に53基発見されているが、名誉な戦死をした優秀な騎兵隊員について漢詩で撰文した石碑は2基のみで二番目に古い石碑。情報提供者は、添田保吉氏から4代目に当たる、吉則氏の妻、添田敬子氏が遠路はるばる神奈川県平塚市から平成24年4月18日、松山市の秋山兄弟生誕地に石碑に関する資料を持参して判明した。同年5月23日現地平塚市に伺い写真取材をした。
註:添田敬子氏は、放送大学卒業論文に「日清戦争における戦没兵士の遺族の行動と心情」
副題に「秋山好古揮毫の添田賢次郎招魂碑建立の軌跡」と題して卒論を書いた。
秋山好古は、名誉な戦死をした優秀な騎兵隊員について漢詩で撰文した石碑は2基のみで二番目に古い石碑。情報提供者は、添田保吉氏である。
秋山好古が名誉な戦死をした優秀な騎兵隊員について漢詩で撰文した原稿。
提供者は、添田保吉氏。
顕彰碑文の読み。
次は、愛媛県大洲市長浜町の石碑です。
1.碑 文 :三嶋神社
2.所 在 地:大洲市長浜町戒川甲245番地1 三島嶋神社
3.揮 毫 者:陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者:記載無し
5.建立年月日:昭和3年御大典紀念建之
6.碑石大きさ:高さ 2m39㎝ 横幅 64㎝ 厚さ 43㎝
7.石碑の由来:昭和3年11月6日、昭和天皇の即位の礼が行われたその記念。
現地に到着すると、二人の若い女性が社号碑を観賞していた。伺うと揮毫した好古さんの事を知っており驚いた。女性は、秋山兄弟生誕地にも既に来館し、秋山好古・眞之についてかなり勉強しており再び驚き、恐れ入り候であった・・・暫し秋山兄弟談義に耽った。
昭和3年11月6日、昭和天皇の即位の礼が行われたその記念。
即位の礼は、天皇が天子の位を受け継ぎ、皇位を継承したことを内外に示す儀典であり、即位の礼・大嘗祭と一連の儀式を合わせ大礼または大典と称される。
好古が揮毫した石碑は、現在全国に53基発見されているが御大典記念に合わせて建立された石碑が10基ある。
三嶋神社社号碑には、石碑左側に揮毫者、陸軍大将 秋山好古書と刻印されていて、裏面には、昭和3年御大典紀年建之と記載されている。
この石碑も何時、誰が、何処で好古に揮毫を依頼したかは不明で、宮司さんに伺うも不明との事であった。
三嶋神社には、JR八多喜駅から登るが道路は狭隘なうえ隘路で辿り着くのに大変苦労した。今までで一番の難所の取材であった。
註:御大典記念の「記」が「紀」であった。今回初めてである。
社号碑左に、「陸軍大将 秋山好古」と揮毫してあった。
次は、愛媛県上浮穴郡久万高原町の石碑であります。
1、碑 文 : 御大典記念(昭和天皇の即位記念)
2、所 在 地: 上浮穴郡久万高原町中組 三社神社 「注連石」
3、揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古
4、建 立 者: 記載無し
5、建立年月日: 昭和3年11月
6、石碑大きさ: 高さ3m70cm 表幅42cm 横幅36cm
7、石碑の由来: 不明
8、石碑の材質: コンリート
三社神社 注連石(しめいし)
向かって左に、「昭和3年11月建之・陸軍大将秋山好古謹書」 右に、「御大典記念」と揮毫されている。
揮毫原稿について:秋山好古が揮毫した石碑は現在、全国に53基が発見されているが、その直筆の原稿は1も残っていない。
このたび、上浮穴郡久万高原町中組の三社神社で、全国初となる直筆原稿が発見された。
好古に揮毫を依頼した同神社先々代の小野義直宮司が、直筆原稿を軸物にして保管していたのを現宮司の小野哲也さんが発見された。平成27年7月16日発見の知らせを受けて、小野宮司さんの許可を得て複写し、平成28年1月11日開催の「秋山好古生誕157年祭」で披露し、公開された。小野哲也宮司さんには大変なご配慮頂き感謝いたしております。
原稿をよく見ると、石工が作業に使う原稿を複写する時、鉛筆でなぞった個所がある。原稿は、秋山兄弟生誕地に展示してあるのでご来館の節は是非御覧ください。
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