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秋山好古揮毫石碑紀行 30 伊予市宮下の碑

2016年01月06日 | 伊予松山歴史散策


1.碑  文 :  伊曾能神社
2.所 在 地:  伊予市宮下 伊曾能神社参道口
3.揮 毫 者:  陸軍大将 秋山好古 (謹書に花押あり)
4.願   主:  平井 宗太郎(松山市 戌年男)
5.建立年月日:  昭和二・三?年?十日
6.碑石大きさ:  高さ:2m55cm  幅:1m44cm 
参考資料 :建立年月日は碑石が風化欠落して不明

伊予市宮下の伊曾能神社参道口にある「伊曾能神社」の社号碑で52基中、30番目の石碑として紹介しますが、この石碑には揮毫者、陸軍大将 秋山好古の花押が刻印されていて珍しい石碑です。
秋山好古は、本来揮毫嫌いであったが、ある人物との出会いが切っ掛けであった。
揮毫の切掛け:それは・・・。
大正14年に新田長次郎(現、松山大学創設者)の招きで清浦奎吾元総理大臣が来松され、滞在は僅か2日間であった。この間視察、歓迎会、昼夜を問わず多忙の中殆ど筆をとる時間が無かった。
出発の朝、早朝4時に起きて60枚ほどの揮毫を書き上げていた。
そこに好古さんが旅館を訪ねてきて、揮毫している清浦さんを見て、「長さん余り年寄りを責めるなよ」と言うと、長さんは、「清浦伯は今や一個人の清浦伯で無く、日本の清浦伯である。だから揮毫を要請する者があれば今朝など4時から起きて厭な顔もせず揮毫されてます。信さんも今や、日本の秋山大将です。人は一代、名は末代と言いますから家宝とする揮毫を依頼する人には揮毫してもらいたいものですな・・」清浦さんの揮毫姿を見ていた好古さんは、なるほど熱心さがなかれば書けない。これから俺も書くよと言ったので、長次郎さん大坂に帰ると早速に、画仙紙一反、大きな硯と墨、筆を好古さんに送り、翌年の春好古さんに会うと、長さん今年は、正月からもう数百枚書いて方々え送ったよといわれてそうです。それ以来諸方面からの以来には極力これに応じしかも約束の期日を決して遅らさなかったのである。そして揮毫は、学校では一切せず、全て自宅(現在の秋山兄弟生誕地)で揮毫した。
好古最後の揮毫が、習志野市にある陸上自衛隊内にある「軍馬慰霊之碑」の碑文が最後の揮毫となり絶筆であります。
昭和11年に刊行されました「秋山好古」の背文字は、この時書かれた署名を写したものです。


伊曾能神社は由緒ある神社で、参道口には立派な注連石があり、その後ろに大きな社号碑がある。


社号碑の右が伊曾能神社参道で、社号碑の後ろに「御大典記念」道路拡張記念と書かれた石碑が建立されている。石碑裏面の文字は風化が激しく判読困難ですが、この石碑は、昭和3年の御大典記念に建立されたものと推察される。


社号碑の左が県道23号線(伊予川内線)で道路拡張記念とは県道拡張の事か?


伊曾能神社の立派な赤の大鳥居


伊曾能神社、大鳥居の側に神社の由来が書かれた石碑が建立されている。
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