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秋山好古揮毫石碑紀行 33 伊予市中山町の碑

2016年01月09日 | 伊予松山歴史散策


1.碑   文 :  忠魂碑
2.所 在 地:  伊予市佐礼谷甲1456番地1  三島神社
3.揮 毫 者:  陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者:  記載無し
5.建立年月日:  昭和3年11月 3日
6.碑石大きさ:  高さ:4m61㎝ 横幅:80㎝ 厚み:80㎝
参    考: 三島神社は、松山自動車道伊予ICから車で約28分


秋山好古揮毫の石碑の中で2番目に高い石碑である。
造りも立派で、まさにお国の為に戦い亡くなられた英霊を村挙げての建立であったのではないでしょうか?


建立年月日が、昭和3年11月と記載してあるので、昭和天皇の即位の大礼を記念しての忠魂碑だろう。
好古が揮毫した石碑は52基発見されているが、忠魂碑が一番多く12基ある。


伊予市佐礼谷甲1456番地1にある三島神社の拝殿で境内も広々としている。
現在は伊予市となっているが、旧伊予郡中山町である。
全国に52基の石碑の揮毫をしているが、是非秋山好古にお願いしたいと依頼する背景には、幼少時に、福沢諭吉の学問のすすめを拝読し、学校の教師を志、大坂師範学校に進学し、名古屋師範学校付属小学校の教師を務め、先輩の強い勧めで、陸軍士官校入学、その後陸軍大学一期生として進み、旧松山藩主の久松定謨のお供役としてフランスに行き、途中から陸軍の出張扱いとなりフランス騎兵の用兵を身に着け帰国、日本の騎兵隊を育てあげた。
その後教育総監に抜擢され、元帥に推薦されるも此れを辞退、大元帥から特旨として官位従二位を拝命し、地元の要請で北豫中学校校長に就任、教育者として社会人になり、終わりも教育者として大往生した。
その生き方に感銘した人達が揮毫は秋山好古にと思い依頼したと思う。
北豫中学校長時代欠勤の教員がいると、好古自身が代講を務め、休講になってしまうのを極力避けた。
たとえば、西洋史の教員が欠勤の時、好古は、英語で書かれた歴史書を教室に直接持って行って、その場で翻訳しながら生徒に語って聞かせたという。
漢文は伊予松山藩校(明教館)仕込み、英語・フランス語にも堪能で、獣医学をはじめ自然科学にも明るかったので、たいていの科目の代講を務めることができたようである。
校長がこのようであるから、学校全体が自ずと引き締まり、生徒の欠席や教職員の欠勤もずいぶんと減ったと言われ、不良少年養成所とまで言われた学校は、校風が一変し是非北豫中学に入学したいと言う優秀な生徒が入学して来た。
当時、「不良少年養成所」とまでいわれていた北豫中学(現松山北高)の校長(従二位勲一等功二級の陸軍大将が田舎の中学校の校長になることなど当時として考えられなかった出来事であったことから、このニュースは全国に流れ驚かした。


コメント
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