平成17年7月今治市石材振興会会長さんが秋山兄弟生誕地にお越しになり、秋山好古が揮毫した石碑が今治市宮窪町余所国甲248番地 両社明神社にあるから取材に行かれて下さいと情報を頂き取材しました。
1.碑 文 : 忠魂碑
2.所 在 地: 今治市宮窪町余所国甲248番地 両社(りょうしゃ)明(みよう)神社
3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者: 村上 幸造
5.建立年月日: 大正15年 吉祥日
6.碑石大きさ: 高さ・2m97㎝ 横幅・2m14㎝ 厚み・24cm
参考資料:古来、河野、村上両家の崇敬が篤い神社である。
今治市宮窪町余所国甲248番地 両社明神社で、この地は村上水軍の本拠地の地で、古来から、河野、村上両家の崇敬が篤い神社である。
村上水軍は、能島村上水軍・因島村上水軍・来島村上水軍とあり、因島村上水軍は小早川氏に属し、来島村上水軍は河野氏に属しており、能島村上水軍は単独で行動していた村上水軍の本家である。秋山家も村上水軍の一族を祖とするとある。
慶長5年(1600)9月15日、伊予の関ヶ原と言われる戦いがあった。
伊予奪回に興居島に上陸し、古三津を中心にした戦いがあった。その中に秋山良久(秋山内膳正良久)が居た。
久米の如来院の戦いでの秋山良久(秋山内膳正良久)が戦死するが、もしかすると秋山家と何らかの関係がある家系ではないか?秋山家初代、秋山信久は、今治城主藤堂高吉に仕えていたがその後、伊予松山城主松平定行の時にその家臣として召し抱えられ、代々徒目付の家格を持って相次いで来た。第6代平五郎久敬の5男、淳五郎眞之は、明治32年頃(当時は海軍大尉)胃腸を病み入院、その時小笠原長生(後の海軍中将子爵、佐賀県出身、海兵14期、眞之は海兵17期)によると眞之が退屈なので面白い本があれば貸してくれと頼まれたので家(江戸幕府老中の家柄)にあった「野島流海賊古法」と言う写本を貸した。
眞之は入院中、古代水軍研究の機会を得てそれが秋山流軍学の基礎となり日本海海戦の略に、伊予村上水軍の戦法も参考にして作戦を練り上げた。丁字戦法もその一つである。」・・秋山良久と秋山兄弟の家系関係を調べてみたい。
両社明神社の正面で、鳥居を潜ると右側に好古が揮毫した忠魂碑が、左に立派な「両社明神社」の社号碑が建立されている。
秋山兄弟生誕地の研究員は毎年県外研修を実施し知識の研鑚に努めているがこの年は、村上水軍博物館で研修を行い、両社明神社を訪れ忠魂碑を見聞した。
忠魂碑の裏面で、大正15年吉祥日、村上幸造と書かれていた。
村上村上幸造氏も村上水軍の末裔の方。
秋山好古が北豫中学校校長に就任して2年面である。
古来、河野、村上両家の崇敬が篤い神社でその社殿である。
社殿の左横に画像の石碑が建立されていた。
拝殿には、大元帥(昭和天皇)の御影入りの駆逐艦「追風」で、昭和9年大演習が有った時の記念の献納写真があった。
取材の帰りに村上水軍博物館を見学して帰った。
慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原の戦いがあったが、伊予でも戦いがあった。
村上水軍、村上武吉・元吉親子が、元伊予守護であった河野氏の領地奪回に攻めて来た。
その時の様子の文書が発見されその事を愛媛新聞が掲載した記事。・・東京新聞にも掲載された。