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秋山好古揮毫石碑紀行 37 伊予郡松前町中川原の碑

2016年01月21日 | 伊予松山歴史散策


1.碑  文 :  耕地整理記念之碑
2.所 在 地: 伊予郡松前町中川原木下507番地 素鵞神社 (旧村社)
3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者: 地主
5.建立年月日: 大正 14年 10月  
6.碑石大きさ: 高さ・2m70㎝ 幅・80㎝ 厚さ・42㎝  
参考資料 :耕地整理とは
農業上の土地の利用増進を目的とし、交換・分合・区画変更・灌漑(かんがい)などによって耕地の整理を行うこと。・・と定義してある。
伊予国の文化の発祥の地が、伊予郡松前町神崎と言われており、耕地整理事業も愛媛県ではこの地区から始まったのではないか?
明治32年に耕地整理法が制定され、農地の一枚一枚の区画化が行われ作物の栽培に便利な土地改良が行われた。
伊予郡松前町地区はこの耕地整理が行き届いており当時行った土地改良整備事業が現在の機械科には適している。
耕地整理を行うには、農地の交換文合が必置で、交換文合を行う地権者の理解がないと出来ない事柄で、我が家の近くでは未だに耕地整理は出来ていない。
耕地整理は事業を進める指導者と地主の理解がないと出来ない。
伊予郡松前町中川原地区ではいち早く耕地整理が完成したのでしょう。
立派な大きな記念碑が建立されている。


伊予郡松前町中川原木下507番地、素鵞神社入口に立派な大きな記念碑が建立されている。


記念碑はの建立は、大正14年10月である。
大正14年は、新田長次郎さんの招きで清浦奎吾元総理大臣が来松され、滞在は僅か2日間であった。この間視察、歓迎会、昼夜を問わず多忙の中殆ど筆をとる時間が無かった。
出発の朝、早朝4時に起きて60枚ほどの書を書き上げていた。
そこに好古さんが宿舎の道後ふなや旅館を訪ねて来た。黙々と揮毫をする清浦奎吾元総理大臣姿をみて、新田長次郎さんに、「長さん余り年寄りを責めるなよ」と言うと、長さんは、「清浦伯は今や一個人の清浦伯で無く、日本の清浦伯である。だから揮毫を要請する者があれば今朝など4時から起きて厭な顔もせず揮毫されております。信さんも今は、日本の秋山大将です。人は一代、名は末代と言いますから家宝とする揮毫を依頼する人には揮毫してもらいたいものですな・・」清浦さんの揮毫姿を見ていた好古は、なるほど熱心さがなかれば書けない。これから俺も書くよと言ったので、長次郎さん大坂に帰ると早速に、画仙紙一反、大きな硯と墨、筆を好古さんに送り、翌年の春好古に会うと、長さん今年は、正月からもう数百枚か書いて方々え送ったよといわれてそうです。之以来諸方面からの以来には極力これに応じしかも約束の期日を決して遅らさなかった。
この記念碑の揮毫は、上記の記載の通り揮毫を初めて直ぐの筆である。
大正14年以前の揮毫は、余程の依頼者でないと揮毫は指定なし。
現在全国に52基の石碑が発見されているが、大正14年以前に揮毫し石碑として建立されているのは9基だけである。

註:新田長次郎の人物は、ニッタ株式会社の創設社で、幼少時代秋山好古と福沢諭吉の学問のすすめを読み、好古は学校の先生に、長次郎さんは会社を興し成功したら学校を創る事を志、大坂に有隣小学校(現、大阪市立栄小学校)を設立、松山に松山高等商業学校(現、松山大学)を設立した。二人とも座右の銘は「独立自尊」である。


伊予郡松前町中川原木下507番地、素鵞神社の鳥居の右側に立派な大きな記念碑が建立されている。当時耕地整理を行った苦労が伺われる。
建立者は、地主と石碑に記載されている。
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