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紀行&散策を画像を交えた紹介です

新伊予松山紀行 伊豫13佛霊場めぐり 結願 金比羅寺

2013年02月24日 | 伊予松山歴史散策
第7番香積寺の参拝を終え、結願寺、金比羅寺に向かった。車で18分程東方向、隻手薬師から約11kmにあり、松山平野の山間部入り口にある。
隣接して、惣河内神社があり、最近話題になった心無いものが神木の一つに薬剤を注入され枯死し被害のあった神社がある。また珍しい百日桜がある。
さて
松尾山 金比羅寺は、東温市(旧川内)河之内4874番地にあり、ご本尊は金比羅大権現である。

寺伝によると長寛年間の1163年頃の開山と伝わり、当初は称明寺とも馨明寺とも称されていた。
慶長14年(1609)当寺で夫人の安産祈願を行った伊予松山初代藩主・加藤嘉明の帰依を受け堂宇の改修、整備が行われ、合わせて寺名も「金比羅寺」と改称された。

「伊予温故録」によれば、慶長6年(1601)年3月28日鞍瀬新左衛門なる人物が河之内村名越に創営。慶長14年、加藤嘉明によって改修が行われ、明治2年(1869)に現地に移転したと伝わる。本堂は明治21年(1888)の再建である。

「松尾山宝持院金比羅寺、川之内、金比羅立給ふ近所に腰懸石と云あり、是は建長の比鎌倉の最明寺入道諸国修行の時、最明寺此所に来り暫く腰を懸け休給ふ也、向山の峠を根引峠と云也、最明寺への饗餉したる時、松を引てままとしたるより今に根引峠と云ふ」・・と記述あり。

当院本尊の金比羅大権現は、衆生全ての願いを極楽舟に乗せて仏様の下へ送り届けると伝えられている。金比羅とは、本来インドのガンジス川に棲む鰐を神格化した水神の名で梵語「クンビーラ」の漢訳語である。

最後に住職からの言葉、「杉木立の静寂の中、八百数十年の歴史を刻む寺」。 

私が中学校時代夏休みの宿題で、この地の奥にある白猪の滝に従兄弟と「植物採集」に行き、帰りこの寺の前で休んだ。隣の家から夏の高校野球甲子園大会決勝戦の実況放送が聞こえて来た。決勝戦は愛媛県の松山商業高対高知県の土佐高校、この時代は現在のように都道府県代表でなく、地区代表で、四国は、北四国代表、南四国代表として出場していた。

北四国代表松山商業は、四国大会では南四国代表の土佐高校には勝った事が無く、強豪で決勝戦でも9回まで負けており、追いつき延長戦で松山商業が勝ち優勝したと記憶がある。

こんな記憶を辿りながら隣接の惣河内神社の「百日桜」と「一畳庵」を見て、最後の伊予13仏めぐり第4番円福寺に向かった。・・13仏めぐりで一番長い移動距離であった。


結願寺「金比羅寺」付近の風景。


金比羅寺入口階段。


石段の上にある山門。


歴史ある山門が目に入る。


山門に掲示してある「伊予13佛結願の寺金比羅寺」の札がある。


金比羅寺は二つの石段があり、その奥に本殿がある。


最後の石段を上がると本堂が見えてくる。


本殿には、絵馬があった。・・なんの絵馬なんだろうか?


一つ目の石段と、二つ目の石段との間に大師堂がある。


勾配のある参道の左右には年輪のある大きな木々がある。


隣接する、惣河内神社にある「百日桜」冬桜の一種が花を咲かせていた。この桜は年に2回開花する珍しい冬桜の一種。秋より翌春まで咲き続き、12月中旬頃が一番の見頃と言われている。
この百日桜は、松根東洋城の名句「春秋冬 冬を百日 桜かな」から百日桜と命名したそうだ。


惣河内神社には県指定の「ウラジロガシ」の大木がある。


漱石門下松根東洋城の結庵「一畳庵」で昭和25年夏から同27年春まで再三来山し延べ15ヶ月間滞在した。松根東洋城はこの地の渋柿俳人達を指導し自らも百数の句を残している。


一畳庵前に句碑がある。「一畳庵 ひたきくるかと 便りかな」・・巨星塔
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