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新伊予松山紀行 伊豫13佛霊場めぐり 第5番 地蔵院

2013年02月14日 | 伊予松山歴史散策
伊予十三佛めぐり二日目の1月28日、八坂寺を巡拝し次の霊場、道後石手寺境内にある第5番地蔵院に移動した。
八坂寺からはかなりの距離で松山平野を横断する如くである。
地蔵院は、四国88ヶ所第51番札所石手寺境内にあり、国宝仁王門の前にある。
本尊は、延命地蔵菩薩で、横谷山 東河寺 地蔵院と称す。

寺伝によると、1400年の昔、推古天皇4年、聖徳太子が道後温泉に行啓した際、供の葛城氏ならびに僧・恵聡法師とともに太子に同行した恵明法師が、太子の命を受けて横谷の山中に建立した寺が起源とある。

南北朝時代南朝方の拠点として戦火に遭い一山ごと焼失、合戦の2年後伊予守護河野一族によって地蔵院及び毘沙門堂が石手庄北山山麓の現在の地に移転、再建され現在に至るとある。毘沙門堂は、その後勝山(松山城)山麓に移り、更に現在は松山市市坪・玉善寺の本堂となっている。

境内には沢山の石碑があり、中には、野球拳発祥の石碑もある。


石手寺入口にある「寺号碑」。


長い回廊があり回廊を潜ると国宝「仁王門」がある。伊予13佛第5番地蔵院は、回廊中ほど右手にある。


石手寺国宝仁王門。松山市に国宝指定の建造物は3ヶ所ある、一つは、大宝寺本堂、もう一つは、四国88ヶ所霊場第52番太山寺本堂である。


伊予13佛霊場第5番札所、地蔵院の山門。


伊予13佛霊場第5番札所、地蔵院の本堂。


石手寺三重の塔「国指定・重文」。


参拝したのは1月18日、節分の準備をしていた。


回廊横にある、正岡子規の句碑「南無大師 石手の寺よ 稲の花」
明治28年9月20日日清戦争従軍記者として清に渡り帰国船で喀血、故郷松山で
療養中、友人の柳原極堂「俳句雑誌ホトトギス創刊者」とともに石手寺を訪れて詠んだ。
揮毫は子規の直筆である。


子規の句碑横にある、「野球拳おどり」の石碑。
野球拳おどりの由来は、大正13年10月、伊予鉄道の野球部が高松市で高商クラブとの野球の試合を行なったが敗れた。
この試合後、旅館で行われた対戦相手との夜の懇親会における宴会芸で、昼の敵を取るべく披露した演技が野球拳の始
まりである。当時伊予鉄野球部のマネージャーをしていた川柳作家の前田伍健が、『元禄花見踊』の曲をアレンジし即
興で作詞・振付けをしたものであった。なおこの時は、じゃんけんではなく宴会芸由来であったことから狐拳であった
と言われている。昭和22年伊予鉄忘年会でじゃんけんに改められた。
昼の負けはともかく夜の勝負に勝った一行は、揚々とこの踊りを松山に持ち帰り、松山の料亭での「残念会」
(あくまでも、野球の試合では負けていた)の場で披露した。以後、宴会芸の定番となる。また、伊予鉄野球部が遠征
するたびに野球拳が披露されており、普及の一助となったとある。現在松山市の夏祭り「野球拳おどり」はこれを引き
継ぎ開催されている。


石手寺裏手の山に大きな弘法大師石像が建立されている。
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