昨日(2月7日)所用で今治市町谷に行ってきた。三島神社にある社のお参りであった。
その帰りに、以前から一度視てみたい史蹟があった。それは今治藩主の墓所である。
墓所は、県道38号線沿いにあり、駐車場がなく行くのを諦めていたが、昨日は墓所入口の民家さんにお願いして車を置かせて頂き見聞してきた。
場所は、今治市古国分の寺山、海抜約30mの山頂にあり、墓所には、今治藩主であった初代松平(久松)定房、3代定陳、4代定基の3つの立派なお墓が67基の燈籠に守られて安置されていた。正面中央の定房は松山藩主松平定行の弟で、松山・今治は共に徳川幕府の親藩であった。墓碑はいずれも巨大な宝篋印塔(県指定史跡)で高さは3.6mもあります。
初代松平(久松)定房は、伊予松山藩主松平(久松)定行の実弟で、父は、久松定勝、その母は、伝通院夫人で、初め徳川広忠に嫁して家康を生んだが、事情により徳川氏を去り、久松俊勝に再婚して定勝が誕生。定勝は家康の異父同母であって、その2男が伊予松山藩初代松平定行、実際は、伊予松山第3代藩主である。(初代加藤、2代蒲生、3代松平(久松)で維新を迎える)、松平(久松)定房は5男である。・・・中略
寛永12年(1635)徳川家光の命により長島から3万石を拝領し伊予今治藩主として藤堂高吉のあとを次いで入府、同時に兄定行は伊勢国桑名藩から15万石で伊予松山藩主として異封し、以後親藩として維新を迎える。
徳川家光は、松平定房に今治から、兄の伊予松山藩主定行を支援するように命があった。
墓所は、荒廃していたが最近整備されたと聞いた。その通り綺麗に整備されていたが階段の石が自然石で造られていてかなり急勾配で高齢者には大変だと思う。
それと、松平(久松)今治藩主は10代継承するのだが、この墓所は、初代定房、第3代定陳、第4代定基で後の藩主のお墓は何処にあるのか知りたくなった。
今治市町谷の三島神社。
三島神社の境内にある拝殿と社。
県道38号線沿いにある今治藩主の墓所の標示板。・・今治市古国分。
今治藩主の墓所入口にある石碑。
入口の全景で、奥の民家にお願いして車を置き。
急な石段を上った。・・自然石なので非常に歩きぬくい。
上ってビックリ!!立派な墓所、中央に初代藩主・松平(久松)定房、左に第3代定陳、右に4代定基・・沢山の灯籠に守られて眠っている。
初代藩主・松平(久松)定房のお墓。徳川家康は伯父、73歳で他界。
その帰りに、以前から一度視てみたい史蹟があった。それは今治藩主の墓所である。
墓所は、県道38号線沿いにあり、駐車場がなく行くのを諦めていたが、昨日は墓所入口の民家さんにお願いして車を置かせて頂き見聞してきた。
場所は、今治市古国分の寺山、海抜約30mの山頂にあり、墓所には、今治藩主であった初代松平(久松)定房、3代定陳、4代定基の3つの立派なお墓が67基の燈籠に守られて安置されていた。正面中央の定房は松山藩主松平定行の弟で、松山・今治は共に徳川幕府の親藩であった。墓碑はいずれも巨大な宝篋印塔(県指定史跡)で高さは3.6mもあります。
初代松平(久松)定房は、伊予松山藩主松平(久松)定行の実弟で、父は、久松定勝、その母は、伝通院夫人で、初め徳川広忠に嫁して家康を生んだが、事情により徳川氏を去り、久松俊勝に再婚して定勝が誕生。定勝は家康の異父同母であって、その2男が伊予松山藩初代松平定行、実際は、伊予松山第3代藩主である。(初代加藤、2代蒲生、3代松平(久松)で維新を迎える)、松平(久松)定房は5男である。・・・中略
寛永12年(1635)徳川家光の命により長島から3万石を拝領し伊予今治藩主として藤堂高吉のあとを次いで入府、同時に兄定行は伊勢国桑名藩から15万石で伊予松山藩主として異封し、以後親藩として維新を迎える。
徳川家光は、松平定房に今治から、兄の伊予松山藩主定行を支援するように命があった。
墓所は、荒廃していたが最近整備されたと聞いた。その通り綺麗に整備されていたが階段の石が自然石で造られていてかなり急勾配で高齢者には大変だと思う。
それと、松平(久松)今治藩主は10代継承するのだが、この墓所は、初代定房、第3代定陳、第4代定基で後の藩主のお墓は何処にあるのか知りたくなった。
今治市町谷の三島神社。
三島神社の境内にある拝殿と社。
県道38号線沿いにある今治藩主の墓所の標示板。・・今治市古国分。
今治藩主の墓所入口にある石碑。
入口の全景で、奥の民家にお願いして車を置き。
急な石段を上った。・・自然石なので非常に歩きぬくい。
上ってビックリ!!立派な墓所、中央に初代藩主・松平(久松)定房、左に第3代定陳、右に4代定基・・沢山の灯籠に守られて眠っている。
初代藩主・松平(久松)定房のお墓。徳川家康は伯父、73歳で他界。