平成25年2月16日(土)~3月24日(日)の期間、伊佐庭如矢顕彰企画展が開催される。それを記念して昨日(16日)子規記念博物館で講演会が開催された。
伊佐庭如矢さんとは、道も号した。初め伊予松山藩の老職菅良弼の家令となり道後の医家、成川國雄の子として一家を創立し名は如矢、通称は斧右衛門、碧梧桐とも号した。初め伊予松山藩の老職菅良弼の家令となり、明治維新後は愛媛県庁、内務省の官僚、山田香川郡長、高松中学校長、琴平神社禰宣などを務め、晩年は、道後町長に挙げられ道後温泉の改造などを行った。現在の道後温泉本館は、伊佐庭如矢が建築したものである。
伊佐庭如矢の4代功績は、
1、松山城の公園化実現。
明治6年政府は全国の城の廃城令を公布した。松山城廃城方針に対して愛媛県は松山城の公園化を訴え、城の楼閣全ての無 償払い下げを実現し天守の存続に尽力した。
※公園永久維持之儀 申上候書を愛媛県参事江木康直名で申上候書を起案したのが伊佐庭如矢で、それに対して、内務卿木 戸孝允の指令が「書面の松山城は、再建後まだ日が浅く、人民の愛慕強く・・中略・・格別の配慮を持って楼閣・櫓の全て を無償で公園に指し下すと松山城の公園化を指令した。
2、道後温泉の興隆化。
明治20年代道後温泉を象徴する建物、100年後を見越した3階建ての本館建設に尽力し道後地区の発展に尽くした。
3、道後鉄道建設。
道後温泉の入浴客増加を目的に道後鉄道を明治28年実現した。
4、道後公園の整備。
入浴客や観光客が憩いの場として道後公園改修に尽力し、今日に繋がる公園整備を行った。
※もう一つの功績「湯ざらし団子の考案」
「坊ちゃん団子」は道後の名物として有名だが、これは夏目漱石の小説にちなんで生まれたとされている。これは道後温泉東 方に「振鷺園」と称する休憩所「風詠館」を造り伊佐庭の発案「湯ざらし団子」を売り出した。これが「坊ちゃん団子」とな り今日に至っている。
参考事項
明治6年2月政府は、廃城令を出して旧権力の象徴である城郭を取り壊すと共に、売却による維持経費の削減を図ろうとした。
伊予松山藩は、親藩がゆえに幕末朝敵とされ松山城の売却取り壊しは免れぬ状態であった。幕末伊予松山藩は長州に二度進攻した朝敵、長州の出身、木戸孝允はよく聞き入れてくれたものだ。
伊佐庭如矢は、今日の松山市の観光資源である、松山城天守と道後温泉を残した功績は多大である。・・この事は松山市民あまり知らない事である。
今回の顕彰企画展示の資料を見て偉人の功績を是非振り返って見てこれからの松山の街作りに理解をする必要がある。
松山市立子規記念博物館の正面。
松山市立子規記念博物館玄関、子規に関する資料は全国一番多く所蔵している、短詩系博物館としては全国一。
伊佐庭如矢顕彰企画展示のポスター。
伊佐庭如矢顕彰企画展開始式で挨拶をする野志松山市長。その後内覧会が行われ、子規博学芸員による説明があった。
晩年伊佐庭如矢が愛用した物。
内覧会のあと、会場を移し講演会が開催され、初めに伊佐庭如矢の功績を讃えた紙芝居が行われた。簡単明瞭に
よくまとめてあった。
講演、基調講演の懸垂幕。
第1部講演「伊佐庭如矢の功績について」の講師、松山市長・野志 克仁氏、伊予史談会・二神 将氏の講演があった。
特に二神 将氏は、伊佐庭如矢についての研究第一人者。
熱心に講師の話を聞く公聴者。
講演第2部、「新しい時代の新しいまちづくり」と題して基調講演を、東京大学名誉教授 内藤 廣氏の講和があり、
現在は伊佐庭如矢のような長期的な視野をもって街づくりに取り組む人が居ない、これからは官民一体となり一致
団結して魅力と個性のある街を作る必要がある。と語った。
伊佐庭如矢の功績を讃えて、自身が整備した道後公園に顕彰碑が建立されている。揮毫は、昭和21年1月13日、
幣原内閣・第62代文部大臣・第18代昭和21年~同41年、学習院院長、安部能成である。
道後公園に咲く白梅、この奥に伊佐庭如矢の石碑がある。
道後公園に咲く紅梅、5部咲き。
道後公園に咲く紅梅、8部咲き。
伊佐庭如矢が町長時代、議会や町民の大反対を押し切り100後の道後発展の拠点として造り上げた道後温泉本館、
明治27年完成した。同28年松山中学に赴任した夏目漱石は、一番町から坊ちゃん列車にのり道後温泉入浴に毎日通った。
3階一番右端の部屋を「漱石の部屋」として保存展示しており入館者は見学出来る。
明治6年内務卿、木戸孝允に松山城を住民のための公園として維持存続を願いでて許可され存続に至った伊予松山城天守。・・現存12天守。
明伊佐庭如矢が考案した「湯ざらし団子」で今日の坊ちゃん団子である。
愛媛県を退職した伊佐庭如矢は、高松中学校長、琴平神社禰宣などを務め、晩年は、道後町長として手腕を振るった。功績の一つ、道後鉄道建設。一番町(現三越松山店から道後まで敷設した)道後温泉入浴客増加を目指しての事業であった。・・当時を偲ぶ軽便蒸気機関車と客車。・・現在伊予鉄道が市内を営業運航している。
伊佐庭如矢さんとは、道も号した。初め伊予松山藩の老職菅良弼の家令となり道後の医家、成川國雄の子として一家を創立し名は如矢、通称は斧右衛門、碧梧桐とも号した。初め伊予松山藩の老職菅良弼の家令となり、明治維新後は愛媛県庁、内務省の官僚、山田香川郡長、高松中学校長、琴平神社禰宣などを務め、晩年は、道後町長に挙げられ道後温泉の改造などを行った。現在の道後温泉本館は、伊佐庭如矢が建築したものである。
伊佐庭如矢の4代功績は、
1、松山城の公園化実現。
明治6年政府は全国の城の廃城令を公布した。松山城廃城方針に対して愛媛県は松山城の公園化を訴え、城の楼閣全ての無 償払い下げを実現し天守の存続に尽力した。
※公園永久維持之儀 申上候書を愛媛県参事江木康直名で申上候書を起案したのが伊佐庭如矢で、それに対して、内務卿木 戸孝允の指令が「書面の松山城は、再建後まだ日が浅く、人民の愛慕強く・・中略・・格別の配慮を持って楼閣・櫓の全て を無償で公園に指し下すと松山城の公園化を指令した。
2、道後温泉の興隆化。
明治20年代道後温泉を象徴する建物、100年後を見越した3階建ての本館建設に尽力し道後地区の発展に尽くした。
3、道後鉄道建設。
道後温泉の入浴客増加を目的に道後鉄道を明治28年実現した。
4、道後公園の整備。
入浴客や観光客が憩いの場として道後公園改修に尽力し、今日に繋がる公園整備を行った。
※もう一つの功績「湯ざらし団子の考案」
「坊ちゃん団子」は道後の名物として有名だが、これは夏目漱石の小説にちなんで生まれたとされている。これは道後温泉東 方に「振鷺園」と称する休憩所「風詠館」を造り伊佐庭の発案「湯ざらし団子」を売り出した。これが「坊ちゃん団子」とな り今日に至っている。
参考事項
明治6年2月政府は、廃城令を出して旧権力の象徴である城郭を取り壊すと共に、売却による維持経費の削減を図ろうとした。
伊予松山藩は、親藩がゆえに幕末朝敵とされ松山城の売却取り壊しは免れぬ状態であった。幕末伊予松山藩は長州に二度進攻した朝敵、長州の出身、木戸孝允はよく聞き入れてくれたものだ。
伊佐庭如矢は、今日の松山市の観光資源である、松山城天守と道後温泉を残した功績は多大である。・・この事は松山市民あまり知らない事である。
今回の顕彰企画展示の資料を見て偉人の功績を是非振り返って見てこれからの松山の街作りに理解をする必要がある。
松山市立子規記念博物館の正面。
松山市立子規記念博物館玄関、子規に関する資料は全国一番多く所蔵している、短詩系博物館としては全国一。
伊佐庭如矢顕彰企画展示のポスター。
伊佐庭如矢顕彰企画展開始式で挨拶をする野志松山市長。その後内覧会が行われ、子規博学芸員による説明があった。
晩年伊佐庭如矢が愛用した物。
内覧会のあと、会場を移し講演会が開催され、初めに伊佐庭如矢の功績を讃えた紙芝居が行われた。簡単明瞭に
よくまとめてあった。
講演、基調講演の懸垂幕。
第1部講演「伊佐庭如矢の功績について」の講師、松山市長・野志 克仁氏、伊予史談会・二神 将氏の講演があった。
特に二神 将氏は、伊佐庭如矢についての研究第一人者。
熱心に講師の話を聞く公聴者。
講演第2部、「新しい時代の新しいまちづくり」と題して基調講演を、東京大学名誉教授 内藤 廣氏の講和があり、
現在は伊佐庭如矢のような長期的な視野をもって街づくりに取り組む人が居ない、これからは官民一体となり一致
団結して魅力と個性のある街を作る必要がある。と語った。
伊佐庭如矢の功績を讃えて、自身が整備した道後公園に顕彰碑が建立されている。揮毫は、昭和21年1月13日、
幣原内閣・第62代文部大臣・第18代昭和21年~同41年、学習院院長、安部能成である。
道後公園に咲く白梅、この奥に伊佐庭如矢の石碑がある。
道後公園に咲く紅梅、5部咲き。
道後公園に咲く紅梅、8部咲き。
伊佐庭如矢が町長時代、議会や町民の大反対を押し切り100後の道後発展の拠点として造り上げた道後温泉本館、
明治27年完成した。同28年松山中学に赴任した夏目漱石は、一番町から坊ちゃん列車にのり道後温泉入浴に毎日通った。
3階一番右端の部屋を「漱石の部屋」として保存展示しており入館者は見学出来る。
明治6年内務卿、木戸孝允に松山城を住民のための公園として維持存続を願いでて許可され存続に至った伊予松山城天守。・・現存12天守。
明伊佐庭如矢が考案した「湯ざらし団子」で今日の坊ちゃん団子である。
愛媛県を退職した伊佐庭如矢は、高松中学校長、琴平神社禰宣などを務め、晩年は、道後町長として手腕を振るった。功績の一つ、道後鉄道建設。一番町(現三越松山店から道後まで敷設した)道後温泉入浴客増加を目指しての事業であった。・・当時を偲ぶ軽便蒸気機関車と客車。・・現在伊予鉄道が市内を営業運航している。