伊予十三佛めぐり4日目は1月29日、第11番霊場高音寺を後にして、次の霊場は第3番札所太山寺に向かった。庶民的なお寺高音寺から、四国88ヶ所霊場第52番の札所、松山市内にある霊場8ヶ所のなか本堂が国宝なのは、ここ太山寺だけである。格式が高すぎて参拝するのに構えてしまう感じである。こんな事を言うと不謹慎かも?88ヶ所札と札所でないお寺とは構えが違う、それは収入の差があるからだろうか??住職にしても高音寺の住職のように気軽に話が出来ない。
さて、太山寺は、松山市太山寺町1730番地にあり、龍雲山 太山寺と称し、本尊は、文殊菩薩ある。
寺伝によると、天平11年(739)聖武天皇の勅願により行基開基と言う。帝御自ら金光明最勝経の写経を山の頂に埋められと言う伝えがあり今も、経が森と呼んでいる。豊後の真野長者が、海難に遭い、山頂の光を見てその難を逃れたので本堂を再建したとある。創建以来二度ほど災害を受けた事が昭和27年より3年間の解体修理の際確認された。現在の本堂は、解体にあたり、内陣正面の蟇股の墨書、嘉元3年(1305)が発見され確認されたもの。本堂の建物は、県下最大の豪壮な建造物である。
註:豊後の真野長者と大分県臼杵市の石仏建立と関係がある。
鐘楼の鐘には永徳3年(1383)の銘があり吉野時代の名作、県指定の文化財である。
仁王門から、本堂がある長い参道には正岡子規、種田山頭火、松根東洋城の句碑があった。長い参道入口にある仁王門は、国指定の重文である。
この日は、快晴無風であったので、急遽行動を変更して宮本武之輔の銅像、記念碑の見聞に船に乗り興居島に渡る事にした。
太山寺は何処にも「伊予13佛霊場第3番札所」の標示板が無かった。不思議な寺である。
一ノ門を潜ると重文である仁王門が見えてくる石段口に大きな第52番霊場太山寺の寺号碑がある。・・この日も快晴であった。・・これから長い参道が続く。
参道の中腹に庫裏と納経所がある・・立派な庫裏である。
途中急な坂道があり、普通の自転車では乗って上れないが、私の自転車は電動アシスト自転車なので何とか乗って上れた。石段前の広場には、大日如来の坐像石像がある。
それでは本堂に行こう、自転車を山門前の石段口に置きいざ参拝。
山門を潜ると眼前に大きな屋根を持つ本堂が見えてくる・・一礼して境内に入る。
本堂は、昭和31年6月28日国宝に指定、創建以来二度ほど災害を受けた事が昭和27年より3年間の解体修理の際確認された。現在の本堂は、解体にあたり、内陣正面の蟇股の墨書、嘉元3年(1305)が発見され確認されたもの。県下最大の豪壮な建造物である。
快晴であったためバックの青い空を背景に綺麗に撮れた。
境内東方から、右手が本堂、中奥程に太子堂、左が鐘楼。
石段を上ると太子堂がある。
鐘楼で、鐘には永徳3年(1383)の銘があり吉野時代の名作、県指定の文化財。
市内でも珍しい「聖徳太子堂」で、ここで入学合格祈願祭が行われる。
庫裏と納経所、立派である・・市内の札所で一番規模が大きい。
参道にある正岡子規の句碑「菎蒻に つつじの名おれ 太山寺」
昭和25年頃まで太山寺名物「こんにゃく田楽」を茶屋で売られていた。
美しいつつじがあってもいいではないかと戯れた気持ちの句。明治25年の句で、自筆の文字を拡大して昭和48年に建立。
刻印があさく判読困難。
参道にある種田山頭火の句碑「もりもり もりあがる雲へ あゆむ」句は、愚を守るハスの中、太山寺で詠んだ。
没後60周年記念として平成12年8月17日建立。
松根東洋城の句碑もある。「春雨や 王朝の詩タ 今昔」
東洋城は本名豊次郎、東京に生まれ、宮内省に勤務、父は宇和島藩城代家老であった。漱石、子規に俳句を学び、
大正4年「渋柿」を主宰刊行する。太山寺本堂にて句会の時、境内にみつけた石碑に近詠を刻んだ。「詩」を「うた」
と読ませるため「詩タ」と書いてある。
さて、太山寺は、松山市太山寺町1730番地にあり、龍雲山 太山寺と称し、本尊は、文殊菩薩ある。
寺伝によると、天平11年(739)聖武天皇の勅願により行基開基と言う。帝御自ら金光明最勝経の写経を山の頂に埋められと言う伝えがあり今も、経が森と呼んでいる。豊後の真野長者が、海難に遭い、山頂の光を見てその難を逃れたので本堂を再建したとある。創建以来二度ほど災害を受けた事が昭和27年より3年間の解体修理の際確認された。現在の本堂は、解体にあたり、内陣正面の蟇股の墨書、嘉元3年(1305)が発見され確認されたもの。本堂の建物は、県下最大の豪壮な建造物である。
註:豊後の真野長者と大分県臼杵市の石仏建立と関係がある。
鐘楼の鐘には永徳3年(1383)の銘があり吉野時代の名作、県指定の文化財である。
仁王門から、本堂がある長い参道には正岡子規、種田山頭火、松根東洋城の句碑があった。長い参道入口にある仁王門は、国指定の重文である。
この日は、快晴無風であったので、急遽行動を変更して宮本武之輔の銅像、記念碑の見聞に船に乗り興居島に渡る事にした。
太山寺は何処にも「伊予13佛霊場第3番札所」の標示板が無かった。不思議な寺である。
一ノ門を潜ると重文である仁王門が見えてくる石段口に大きな第52番霊場太山寺の寺号碑がある。・・この日も快晴であった。・・これから長い参道が続く。
参道の中腹に庫裏と納経所がある・・立派な庫裏である。
途中急な坂道があり、普通の自転車では乗って上れないが、私の自転車は電動アシスト自転車なので何とか乗って上れた。石段前の広場には、大日如来の坐像石像がある。
それでは本堂に行こう、自転車を山門前の石段口に置きいざ参拝。
山門を潜ると眼前に大きな屋根を持つ本堂が見えてくる・・一礼して境内に入る。
本堂は、昭和31年6月28日国宝に指定、創建以来二度ほど災害を受けた事が昭和27年より3年間の解体修理の際確認された。現在の本堂は、解体にあたり、内陣正面の蟇股の墨書、嘉元3年(1305)が発見され確認されたもの。県下最大の豪壮な建造物である。
快晴であったためバックの青い空を背景に綺麗に撮れた。
境内東方から、右手が本堂、中奥程に太子堂、左が鐘楼。
石段を上ると太子堂がある。
鐘楼で、鐘には永徳3年(1383)の銘があり吉野時代の名作、県指定の文化財。
市内でも珍しい「聖徳太子堂」で、ここで入学合格祈願祭が行われる。
庫裏と納経所、立派である・・市内の札所で一番規模が大きい。
参道にある正岡子規の句碑「菎蒻に つつじの名おれ 太山寺」
昭和25年頃まで太山寺名物「こんにゃく田楽」を茶屋で売られていた。
美しいつつじがあってもいいではないかと戯れた気持ちの句。明治25年の句で、自筆の文字を拡大して昭和48年に建立。
刻印があさく判読困難。
参道にある種田山頭火の句碑「もりもり もりあがる雲へ あゆむ」句は、愚を守るハスの中、太山寺で詠んだ。
没後60周年記念として平成12年8月17日建立。
松根東洋城の句碑もある。「春雨や 王朝の詩タ 今昔」
東洋城は本名豊次郎、東京に生まれ、宮内省に勤務、父は宇和島藩城代家老であった。漱石、子規に俳句を学び、
大正4年「渋柿」を主宰刊行する。太山寺本堂にて句会の時、境内にみつけた石碑に近詠を刻んだ。「詩」を「うた」
と読ませるため「詩タ」と書いてある。