EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

新伊予松山紀行 宮本武之輔 顕彰銅像出来る

2013年02月01日 | 伊予松山歴史散策
平成25年1月5日、松山市由良町(松山市役所興居島支所の隣接)に宮本武之輔の顕彰銅像が建立された。1月5日が宮本さんの誕生日、宮本の妹の孫、後藤さんも式典に参加した。
地元愛媛県、松山市では無名だが、新潟県では恩人として愛されている。平成25年1月1日、愛媛新聞が「民衆を愛した土木技師」として大々的に3日間続けて記事が掲載された。その記事を、新潟市江南区にある「北方文化博物館」に送った。知人の北方文化博物館佐藤統括室長さんは、新潟の人は知らない人は居ませんよ、・・とメールが届いた。来月6日北方文化博物館の神田評議員さんが是非宮本武之輔さんの顕彰碑と銅像を見聞したいと連絡があり案内する事にした。

先日私は、ご案内する為に下調べに現地に行って来た。私は今までこんな偉人が松山から出たのか驚いた。
宮本武之輔氏とは・・(明治25年~昭和16年)49歳の若さで亡くなった。
松山市興居島出身の土木技師で、15歳の時宮田兵吉の援助で上京し、勉学に励み東京帝国大学工学部を主席で卒業。土木技師として内務省に就職。新潟県信濃川大河津分水可動堰修復工事でその才能を発揮の銅像が顕彰碑の隣に建立された。銅像建立には、新潟からも多くの寄附が寄せられ、大河津分水を愛する資料館友の会からメッセージが寄せられたとある。・・「民衆のために生きた宮本の功績を新潟と愛媛で何時までも伝えて行きましょう」とあった。

明治29年7月22日「横田切れ」と呼んだ洪水が新潟を襲い、現燕市横田の信濃川堤防が300mに渡り決壊。洪水は一ヶ月も水が引かず稲は腐り、感染症も発生した。・・中略・・大河津分水可動堰工事終盤、昭和5年8月2日豪雨により信濃川上流の危険が迫り、一報を聞いた宮本技官は、「信濃川と工事現場仕切っていた仮締め切り堤防を独断で破壊し分水路に川水を放流。堤防を切れば工事に大きな支障を来たし宮本にとっては重大な責任問題。宮本は堤防を切らねば人々を困窮のどん底に突き落とすばかりか人命に関係する、これを優先し住民を救った。そして工事も遅れることなく予定通り完成したとある。・・一部を紹介したが多くの事項が紹介された。

私も新聞記事を読んで初めて知った。平成25年1月1日・3日・4日と上・中・下と3回に記事が載った。大見出しは「民衆を愛した土木技師」小見出しで、松山市出身・宮本武之輔の見出しであった。

画像は、宮本武之輔の顕彰記念碑と銅像


平成25年1月5日建立されて「宮本武之輔」胸像。場所は、興居島、由良港から徒歩2分、松山市役所興居島支所隣。


宮本武之輔の顕彰碑で、碑は随分前に建立されていたようで、碑左に建立年が刻印あるが、刻印が浅く風化して判読困難、支所吏員に建立年月日と建立関係者を調べて下さいとお願いしている。
碑の正面の揮毫は、新たに白い塗りをいれ判読しやすく細工してあった。


顕彰碑を挟んで、左に記念胸像、右にステンレス製の説明板が新たに設置してあった。


宮本武之輔の説明板(ステンレス製・・錆びなくて長持ちする)


興居島えは、松山市高浜港から海路15分、片道大人230円、自転車130円だった。
沖に見える島が「興居島」で元読売巨人軍の投手、西本投手の出身でもある。


四十島で、夏目漱石の小説『坊っちゃん』に出てくる「ターナー島」といい、同小説では「青嶋」で登場する。


四十島、ターナー島も角度を変えればかんな形の島。一時期島の松の木が枯れ、地元高浜小学校の先生が新しい
松を植え陸から水を持参し育てていたが立派の木になっていた。
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