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松山市城北地区歴史散策

2010年06月23日 | 往年の名車 メグロ
松山市城北地区歴史散策

伊予松山初代藩主、加藤嘉明は1603年10月に松前城(正木城)から家臣および住民とともに居を新城下に移しこの地を松山という名称が公にされた。
此れが松山市の誕生である。

嘉明は、勝山の麓に三ノ丸をはじめとして武家屋敷を設け、城西ならびに城南・城東の三方面に商家町を置き、さらに寺院を、城北に建立して松山城の防備を固めた。

城北には、現在も寺院が多くあり、その中の来迎寺がある。
伊予松山城築城担当の築城奉行足立重信(普請奉行・伊予川「現・重信川」湯山川「現・石手川」の改修をした)の墓所がある。(県指定史跡)

重信は、築城未完に心を残しつつ西堀端の邸で病没した。遺言に城の見える所に埋めてくれ、この言葉に従いここに葬った。ここからは松山城天守が良く見えた。
また、藩医、青地林宗の墓所(県指定史跡)、その奥にはロシア人墓地もある。

画像は、伊予松山天守最上階からみた城北地区の現在の光景である。
画像にみえる山は、御幸山で加藤嘉明が松山城築城の事情を具申して、徳川家康に三カ所の候補地を上請した3番目の候補地である。
家康は2番目の候補地である勝山に築城の許可を与えた。一番目の候補地は現
の天山町にある、天山であった。

明治22年から昭和20年までは、陸軍歩兵22連隊の城北練兵場があった。
明治22年軍の演習用地として当時温泉郡一万村の耕地23万平方を政府が買い上げ「道後練兵場」と名付られた。ここは市民の出入り自由で「城北練兵場」としての愛称で親しまれた。

またこの地で野球が行われ、松山の野球の発祥地でもある。
松山中学や愛媛師範の生徒がたびたび野球の試合がされたとある。
正岡子規や秋山眞之もここで野球を楽しんだ。
現在は、文教地区とし大学、小中高等学校、病院が設立されている。

城北は、松山で一番の歴史のある地区である。

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