EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

現存12天守紀行 「国宝 松本城天守」

2010年06月04日 | 往年の名車 メグロ
現存12天守紀行「国宝 松本城天守」

藩政時代最後の(140年間)城主戸田氏(譜代)6万石の居城松本城は、五重六階の天守で、姫路城とともに桃山文化を代表する現存天守として2基しかない貴重なものである。
創建は、1597年頃で現存する大・小天守が完成し1636年に辰巳付櫓と月見櫓が増築され今のバランスがとれた天守の姿となりこれを複合連結式天守と呼ぶ。

姫路城は白亜総塗込めの純白美に対し、松本城は黒漆を外壁に塗った黒く輝く天守である。
別名、「烏城」「鵞(が)湖(こ)城(じょう)」とも言う。鵞湖とは諏訪湖の雅称である。
明治4年松本城の天守は競売になり個人が235両で落札、民権家の市川量造が資金を集め天守を買戻したが荒廃が著しく、修理は急務であった。

これに尽力したのが旧制松本中学(現・深志高校)校長であった小林有也(こばやしうなり)である。松本城はこの二人によって破壊から守られ昭和の大解体修理によって偉容が再び甦った。松本城の黒門脇に二人を顕彰するリレーフが飾られている。
城郭の形式は、平城で天守の形態は、層塔型の複合連結式である。

昭和27年3月29日国宝に指定されている。
平成19年11月20日訪れました。快晴で写真撮影には絶好でした。

参考事項
松本城が黒いのは、秀吉の大坂城が黒で統一されていたので石川氏の秀吉への忠誠のしるしと言われている。関ヶ原の戦い以降は、姫路城など白亜の天守が築造された。
平成18年4月6日、日本100名城(29番目)に選定され平成19年6月から全国規模の日本100名城のスタンプラリーが開始された。
また、織豊時代(安土桃山時代)は天主・徳川時代(江戸時代)は天守と標記された。

画像は、松本城天守 国宝指定書
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現存12天守紀行「弘前城天守」4

2010年06月04日 | 往年の名車 メグロ
現存12天守紀行「弘前城天守」4

画像は、天守(御三階)に使われている瓦は、防寒対策として、銅瓦が使われており雪が多く特に寒い地域では、通常の土瓦では冬凍って割れることが多いのでこの瓦が葺かれた。
越前丸岡城の石瓦も同様の理由であろう。
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現存12天守紀行「弘前城天守」3

2010年06月04日 | 往年の名車 メグロ
現存12天守紀行「弘前城天守」3

画像は、天守(御三階)最上階で、ここに残念な行為が目に付く。
それは落書きである。修学旅行、観光に来た心ない者が、特に修学旅行を実施前に引率する先生が厳しく注意を指導をしておく必要がある。弘前城天守は国指定の重要文化財である。
担当職員も警備をしているがこんなに落書きをされました。弘前市の恥ですと嘆いていた。 
日本人は、社会的モラルが低下した。・・家庭、学校、社会が一丸となって社会道徳の高揚運動を図っていかないと、このような事を平気でやる。
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現存12天守紀行「弘前城天守」2

2010年06月04日 | 往年の名車 メグロ
現存12天守紀行「弘前城天守」2

画像は、東側内堀の石垣に孕みが生じて天守(御三階)が東側に傾いてい居る。 
明治時代にも傾き天守を本丸に曳いて石垣を修復して天守を元の位置に戻す作業が出来なく、陸軍工兵隊に依頼して作業を完了したとガイドさんから伺った。
今回も明治時代と同じ修復工事を6年掛けて行うそうだ。

画像でもよく分かると思うが真ん中あたりの石垣の孕みが見える。
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現存12天守紀行「弘前城天守」1

2010年06月04日 | 往年の名車 メグロ
現存12天守紀行「弘前城天守」1

弘前城を建造したのは、津軽家二代目藩主信枚で、江戸時代弘前藩津軽氏10万石の居城として1611年に河岸段丘(か がん だんきゅう)17mに築城され津軽地方の政治経済の中心地となった。

天守は、本丸西に五層で創建されたが1627年に落雷で焼失1810年に本丸東の辰巳櫓を取り壊して同じ場所に新築したのが現存する天守である。
城は、はじめ「高岡城」「高岳城」「鷹ヶ城」「鷹揚城」などと呼ばれていたが、1628年に弘前城に改称された。

現存12天守のうち最も北に位置し関東・東北地方においては、唯一の現存天守として貴重である。
防寒対策として、屋根には銅瓦が使われており雪が多く特に寒い地域では、通常の土瓦では冬凍って割れることが多いのでこの瓦が葺かれた。

金沢城の鉛瓦、越前丸岡城の石瓦も同様の理由であろう。
また、時代劇ロケ地として有名なワープステーション江戸「江戸城大手門」は、弘前城の門を参考にして作られた。
弘前城の追手門は、日本三代大手門(追手門)「丸亀城・高知城・弘前城」 の一つである。

現在は、弘前公園として観光名所となり、弘前市により管理されている。
天守と桜のコントラストが美しく日本屈指の桜の名所として日本桜名所100選に選ばれている。

弘前城の桜は、正徳5年(1715年)に藩士が京都嵐山から持ち帰ったカスミザクラ等25本の苗木を城内に植えたのが始まりで、現在は、染井吉野・枝垂桜・八重桜・普賢桜・等50種類2600本の桜があると言われ、開花すると壮大なものだそうです。

また日本最古の染井吉野は明治15年(1882年)に植栽したが現在も元気に開花しているそうで、城内には樹齢100年以上の染井吉野が300本以上健在と言われ日頃から気配りの行き届いた管理があっての事だと思いながら城内を見学しました。

また、弘前天守を管理する皆さんは心優しい方ばかりで、お城と、桜と、心温かい皆さんにお逢い出来、現存12天守紀行の最後に訪れた弘前は、いい思い出の残る旅となりました。

画像は、本丸から見た弘前天守入口方面城郭の形式は、平山城である。
平成20年5月9日訪れた。
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