現存12天守紀行「国宝 松本城天守」
藩政時代最後の(140年間)城主戸田氏(譜代)6万石の居城松本城は、五重六階の天守で、姫路城とともに桃山文化を代表する現存天守として2基しかない貴重なものである。
創建は、1597年頃で現存する大・小天守が完成し1636年に辰巳付櫓と月見櫓が増築され今のバランスがとれた天守の姿となりこれを複合連結式天守と呼ぶ。
姫路城は白亜総塗込めの純白美に対し、松本城は黒漆を外壁に塗った黒く輝く天守である。
別名、「烏城」「鵞(が)湖(こ)城(じょう)」とも言う。鵞湖とは諏訪湖の雅称である。
明治4年松本城の天守は競売になり個人が235両で落札、民権家の市川量造が資金を集め天守を買戻したが荒廃が著しく、修理は急務であった。
これに尽力したのが旧制松本中学(現・深志高校)校長であった小林有也(こばやしうなり)である。松本城はこの二人によって破壊から守られ昭和の大解体修理によって偉容が再び甦った。松本城の黒門脇に二人を顕彰するリレーフが飾られている。
城郭の形式は、平城で天守の形態は、層塔型の複合連結式である。
昭和27年3月29日国宝に指定されている。
平成19年11月20日訪れました。快晴で写真撮影には絶好でした。
参考事項
松本城が黒いのは、秀吉の大坂城が黒で統一されていたので石川氏の秀吉への忠誠のしるしと言われている。関ヶ原の戦い以降は、姫路城など白亜の天守が築造された。
平成18年4月6日、日本100名城(29番目)に選定され平成19年6月から全国規模の日本100名城のスタンプラリーが開始された。
また、織豊時代(安土桃山時代)は天主・徳川時代(江戸時代)は天守と標記された。
画像は、松本城天守 国宝指定書
藩政時代最後の(140年間)城主戸田氏(譜代)6万石の居城松本城は、五重六階の天守で、姫路城とともに桃山文化を代表する現存天守として2基しかない貴重なものである。
創建は、1597年頃で現存する大・小天守が完成し1636年に辰巳付櫓と月見櫓が増築され今のバランスがとれた天守の姿となりこれを複合連結式天守と呼ぶ。
姫路城は白亜総塗込めの純白美に対し、松本城は黒漆を外壁に塗った黒く輝く天守である。
別名、「烏城」「鵞(が)湖(こ)城(じょう)」とも言う。鵞湖とは諏訪湖の雅称である。
明治4年松本城の天守は競売になり個人が235両で落札、民権家の市川量造が資金を集め天守を買戻したが荒廃が著しく、修理は急務であった。
これに尽力したのが旧制松本中学(現・深志高校)校長であった小林有也(こばやしうなり)である。松本城はこの二人によって破壊から守られ昭和の大解体修理によって偉容が再び甦った。松本城の黒門脇に二人を顕彰するリレーフが飾られている。
城郭の形式は、平城で天守の形態は、層塔型の複合連結式である。
昭和27年3月29日国宝に指定されている。
平成19年11月20日訪れました。快晴で写真撮影には絶好でした。
参考事項
松本城が黒いのは、秀吉の大坂城が黒で統一されていたので石川氏の秀吉への忠誠のしるしと言われている。関ヶ原の戦い以降は、姫路城など白亜の天守が築造された。
平成18年4月6日、日本100名城(29番目)に選定され平成19年6月から全国規模の日本100名城のスタンプラリーが開始された。
また、織豊時代(安土桃山時代)は天主・徳川時代(江戸時代)は天守と標記された。
画像は、松本城天守 国宝指定書