EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

電動自転車サイクリング 5

2010年06月01日 | 往年の名車 メグロ
電動自転車サイクリング 5
 
眞之の銅像(昭和38年5月12日に復元され四国88ヶ所第51番札所石手寺の駐車場に建立されたのを昭和43年9月この地に移転設置したものである。)
だけでは寂しいだろうと篤志家一同が昭和45年1月に建立した。

好古は生前、家族や親しい人々に、持ち家はいらない、私が無くなったらお墓は造らないように、銅像等造らないように、と言っていたので、特にお墓は造ってない。
墓所は、東京の青山霊園にあるが、秋山家と書かれた墓石を造り、母貞子、好古の兄則久、その他家族と一緒に青山霊園に眠っている。大げさな、陸軍大将従二位勲一等功二級といった墓石は造ってない・・・好古が言い残した言葉を守って。

銅像も弟眞之は昭和6年に建造されているが、好古については、関係者がもうそろそろ銅像を建造しても好古さん許してくれるだろうとの事で昭和11年に造った。(道後公園に騎馬像として)
地元松山の一部の者は、好古さんは晩年落ちぶれて・・といわれる人がいるが、あえて落ちぶれた生活をしたのである。

大正12年元帥に推薦されるもこれを辞退した。現在自分があるのは、日清・日露戦線で共に戦い私は生きている。此れは優秀な部下と、優秀な軍馬のお陰である。優秀な戦死した部下や残された家族の皆さんの事を考えると華美な生活など出来ない。ましてや元帥など頂けない・・と言った。

これを聞いた明治天皇は特旨として同年に官位従二位を与えたのである。
好古は、陸軍の最高幹部にまでなった人物であるがあ努めて生活は質素に徹した。(最高幹部は、陸軍大臣・参謀総長・教育総監で好古は、大正9年教育総監を拝命している)

軍人は、ややもすると贅沢をしすぎる恩給等で生活するのはダメ、人間元気な内は仕事をしないといけない・・との考えをつねに持っていた。そこに大正13年に郷里の松山から北予中学(現在 愛媛県立松山北高等学校)の校長の依頼があり、小学校の経験はあるが中学校はない、私でよければいいよと受け単身赴任で松山に帰った。

校長は、昭和5年3月まで勤めた。この姿を見た人たちが、晩年落ちぶれてといったのである。(辞任の理由は体調を崩したため)同年11月4日東京の陸軍病院で亡くなった。享年72歳
以上のような事柄で銅像の建造が遅れたのである。

画像は、昭和45年1月に建立し、立像で日露戦線の激戦地であった満州を見つめて立っている。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 電動自転車サイクリング 4 | トップ | 電動自転車サイクリング 6 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

往年の名車 メグロ」カテゴリの最新記事