私の若いころ、カミュ・サルトル論争というものがありました。
実存主義におけるコップの嵐でしょうか。
より政治的でラディカルなサルトルの圧勝。
けれども、勝ったサルトルが現在どう読まれているか?
勝手な推量ですが「サルトルが引き続き圧倒的に読まれ
カミュはその優柔不断・論理の不一致ゆえに沈んだ・・」
とは言えないのではないでしょうか。
むしろカミュが今また読まれている?・・贔屓すぎるかな。
○
政治がかった論争では、たいがいラディカルが勝ちます。
理論というものの限界でもありますね。
(最近は宗教でもイスラム原理主義などに勢いがあります)
人間ってもっと複雑なモノなのに。
時には矛盾もする人間という存在を丸ごと引き受けようとした
カミュがサルトルに論争で負けるのは(当然)です。
論争相手から「で、あなたはどうするの?」と訊かれつづけ
筋道の通らない返答しかできない処へ追い込まれます。
○
混沌とした自分を中心に据えるか、理論を先行させるか。
好き嫌いでいうと私はサルトルよりカミュが好きです。
しかし、アルジェリア戦争に関して言えばカミュは
分裂しまくっているように見えますね。
当時アルジェリアに沢山いたフランスからの移民は
それなりにアルジェリアを愛し社会へ溶け込んでいます。
もちろん外からやってきた仏人が現地で何の問題もない筈が
ありません。
無条件で出て行けと思われていたかもしれません。
日本から満州に行った人の立場に似ている処があるかな。
いくら満州を愛し、自分は満州人だと言おうと
現地に役立ち、中国人と共に平和に暮らしていようと
しょせん占領した側の人間でしかなかった面があります。
同じく「私達はアルジェリア人として生きる」と言っても
右翼からも左翼からも叩かれます。
カミュの言う
「暴力はいけないが、愛する母は暴力を使ってでも守る」
気持ちは分かりますが(盛り上がっている人間たち)からは
優柔不断と言われます。
本来そういう発信はしてはいけないのです。
黙って心にしまっておくに限ります。
しかしそこを苦闘するのが文学者たる所以でしょう。
○
カミュは猫好きだったようです。
犬派じゃないよね。
実存主義におけるコップの嵐でしょうか。
より政治的でラディカルなサルトルの圧勝。
けれども、勝ったサルトルが現在どう読まれているか?
勝手な推量ですが「サルトルが引き続き圧倒的に読まれ
カミュはその優柔不断・論理の不一致ゆえに沈んだ・・」
とは言えないのではないでしょうか。
むしろカミュが今また読まれている?・・贔屓すぎるかな。
○
政治がかった論争では、たいがいラディカルが勝ちます。
理論というものの限界でもありますね。
(最近は宗教でもイスラム原理主義などに勢いがあります)
人間ってもっと複雑なモノなのに。
時には矛盾もする人間という存在を丸ごと引き受けようとした
カミュがサルトルに論争で負けるのは(当然)です。
論争相手から「で、あなたはどうするの?」と訊かれつづけ
筋道の通らない返答しかできない処へ追い込まれます。
○
混沌とした自分を中心に据えるか、理論を先行させるか。
好き嫌いでいうと私はサルトルよりカミュが好きです。
しかし、アルジェリア戦争に関して言えばカミュは
分裂しまくっているように見えますね。
当時アルジェリアに沢山いたフランスからの移民は
それなりにアルジェリアを愛し社会へ溶け込んでいます。
もちろん外からやってきた仏人が現地で何の問題もない筈が
ありません。
無条件で出て行けと思われていたかもしれません。
日本から満州に行った人の立場に似ている処があるかな。
いくら満州を愛し、自分は満州人だと言おうと
現地に役立ち、中国人と共に平和に暮らしていようと
しょせん占領した側の人間でしかなかった面があります。
同じく「私達はアルジェリア人として生きる」と言っても
右翼からも左翼からも叩かれます。
カミュの言う
「暴力はいけないが、愛する母は暴力を使ってでも守る」
気持ちは分かりますが(盛り上がっている人間たち)からは
優柔不断と言われます。
本来そういう発信はしてはいけないのです。
黙って心にしまっておくに限ります。
しかしそこを苦闘するのが文学者たる所以でしょう。
○
カミュは猫好きだったようです。
犬派じゃないよね。
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