![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/a3/7623cfe65917a677c506f83aad172fe0.jpg)
高橋源一郎さんは著名な文学者です。
マスメディアのご登場も多い。
私は作品を読んだことはありません。
たしか尾道の出身ということをうっすらと
聞いたような、ま、関心がありませんから。
○
先日、彼が尾道を歩くというTV番組がありました。
すると「通っていた小学校」として懐かしい土堂が
出てき、そのまま見続けてしまいました。
最近では百マスで名を売った怪しげな教育者Kを
校長にしたことで学校が有名になりましたね。
名前を売るのがお上手とお見受けします。
映画監督の大林宣彦も土堂小を出たようです。
○
土堂小の正門から階段を降り、鉄路をまたぐ橋の階段を
更に降りるとすぐ、林芙美子の住んでいた跡に出ます。
その横の(うずしお小路)とやらを海の方面に向かい
海岸通りに出た辺りに私が住んでいた家がありました。
著名な「しみず食堂」の斜め向かい。
ただし海岸通りの「整備」のため、昔の面影は
まったく残っていません。
「しみず」も西側に移りました。
多くの方に愛された「しみず」ですが写真家で岩波新書も
著された石川文洋さんもその一人です。
ただし旧の食堂でしょう。
なんともいえない空気がありましたね。
建物を強制破壊され清水のみっちゃんも悔しかったでしょう。
(昔、みっちゃんのお母さんが鉄板でキンツバを焼いておられ
そのすぐ向こうに雁木があって、海が見えましたね)
わずか数十年前まであった風情をぶちこわし
「こぎれいな」場所にしてしまったのです。
税金を使ってね。
もちろん多くの日本人が「こ綺麗な」風景を好むのでしょうが
つまらない人が多いね。
経済には勝てないのですけれど。
今の場所に移転してからは「しみず」に行ってません。
その、元の我が家(当然借家です)から歩いて数分の処に
高橋源一郎さんの家があったようです。
(新藤兼人が若いころ店員で働いていた)
○
話を元へ戻しましょう。
高橋さんが土堂小学校の正門に行き、真正面の4F校舎を
「覚えている」と仰いました。
土堂小学校は、戦前に建てられていた「東校舎」
戦前には珍しい鉄筋コンクリ-ト3階建ですが
戦後もそれに続く校舎の増改築ラッシュだったようです。
東校舎の南に増築(昭和32年)
この三階の教室は見晴らしが良いのでよくロケに使われます。
朝ドラ「てっぱん」にも。
小5の私の教室でもありました。
部屋は最高でしたが、先生が超怖いミトウ先生
・・学年途中で私が転校となり、ほっとしましたね。
高橋さんが言われた正面の校舎は私が小2迄は
木造二階建ての古いものでした。
ギシギシ言う階段が広くて、如何にも「学校」。
そこを取り壊し、後に出来あがったのが鉄筋四階建
一階は雨天体操場でした。
画期的だったから高橋さんも記憶に残るのでしょう。
でも、調べたら彼は私より一学年だけ下だから
木造校舎を覚えていてしかるべきだけれどなあ。
○
カミサンが「じゃ、小さいころの高橋さんと
学校や町で会っていたかもしれないね」
「うん、桂馬の蒲鉾の路地を走って職人さんに
叱られていたかもしれない」
◎
写真は、再び防府。
山頭火の生家跡です。
下手な写真で我々が写りこんでいます。
マスメディアのご登場も多い。
私は作品を読んだことはありません。
たしか尾道の出身ということをうっすらと
聞いたような、ま、関心がありませんから。
○
先日、彼が尾道を歩くというTV番組がありました。
すると「通っていた小学校」として懐かしい土堂が
出てき、そのまま見続けてしまいました。
最近では百マスで名を売った怪しげな教育者Kを
校長にしたことで学校が有名になりましたね。
名前を売るのがお上手とお見受けします。
映画監督の大林宣彦も土堂小を出たようです。
○
土堂小の正門から階段を降り、鉄路をまたぐ橋の階段を
更に降りるとすぐ、林芙美子の住んでいた跡に出ます。
その横の(うずしお小路)とやらを海の方面に向かい
海岸通りに出た辺りに私が住んでいた家がありました。
著名な「しみず食堂」の斜め向かい。
ただし海岸通りの「整備」のため、昔の面影は
まったく残っていません。
「しみず」も西側に移りました。
多くの方に愛された「しみず」ですが写真家で岩波新書も
著された石川文洋さんもその一人です。
ただし旧の食堂でしょう。
なんともいえない空気がありましたね。
建物を強制破壊され清水のみっちゃんも悔しかったでしょう。
(昔、みっちゃんのお母さんが鉄板でキンツバを焼いておられ
そのすぐ向こうに雁木があって、海が見えましたね)
わずか数十年前まであった風情をぶちこわし
「こぎれいな」場所にしてしまったのです。
税金を使ってね。
もちろん多くの日本人が「こ綺麗な」風景を好むのでしょうが
つまらない人が多いね。
経済には勝てないのですけれど。
今の場所に移転してからは「しみず」に行ってません。
その、元の我が家(当然借家です)から歩いて数分の処に
高橋源一郎さんの家があったようです。
(新藤兼人が若いころ店員で働いていた)
○
話を元へ戻しましょう。
高橋さんが土堂小学校の正門に行き、真正面の4F校舎を
「覚えている」と仰いました。
土堂小学校は、戦前に建てられていた「東校舎」
戦前には珍しい鉄筋コンクリ-ト3階建ですが
戦後もそれに続く校舎の増改築ラッシュだったようです。
東校舎の南に増築(昭和32年)
この三階の教室は見晴らしが良いのでよくロケに使われます。
朝ドラ「てっぱん」にも。
小5の私の教室でもありました。
部屋は最高でしたが、先生が超怖いミトウ先生
・・学年途中で私が転校となり、ほっとしましたね。
高橋さんが言われた正面の校舎は私が小2迄は
木造二階建ての古いものでした。
ギシギシ言う階段が広くて、如何にも「学校」。
そこを取り壊し、後に出来あがったのが鉄筋四階建
一階は雨天体操場でした。
画期的だったから高橋さんも記憶に残るのでしょう。
でも、調べたら彼は私より一学年だけ下だから
木造校舎を覚えていてしかるべきだけれどなあ。
○
カミサンが「じゃ、小さいころの高橋さんと
学校や町で会っていたかもしれないね」
「うん、桂馬の蒲鉾の路地を走って職人さんに
叱られていたかもしれない」
◎
写真は、再び防府。
山頭火の生家跡です。
下手な写真で我々が写りこんでいます。
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