三代目が身上つぶす

2011-03-05 10:44:24 | 塾あれこれ
私の祖父は戦前、商売である程度の成功を収めていたらしい。
その息子=私の父は体を壊したセイもあり、
戦後、祖父がつまづいた経済を立て直せず
逆に何もなくしてしまいました。

そのまた息子(私)はもっとやる気がなく
サラリーマンから塾勤め、自宅で塾と
年収減少の一本道です。

三代目の私が祖父幸兵衛の思いを完璧に絶ってしまう
役目を果たしてしまったようです。

とはいえ引き継ぐべき何かが残っていたわけではありません。
精神的にも物質生活でもごく普通のオジイサンでしたから。


今思うと、うっすらと、景気が良かった時代の名残があった
ような気もします。

大きな鯛を一尾持って帰って、嫁いだばかりの母が困った
なんていう話を聞いたこともあります。


そんなことを思い出していて気付いたことがあります。

ゼイタクというより、昔の尾道はみなこうだったのでしょう。

海老、蟹、蝦蛄、こういうたぐいは生きているものを買います。
生きていなければ見向きもしない。
もちろん、蟹など生きていても草臥れているものもいますから
それは見抜かねばなりません。

広島でも朝、魚屋さんを覘くと生きたエビがいることがあります。
たまにお金があると買うこともありますね。

もちろん、朝に外出すること自体が少ない生活です。
病院帰りとか、たまたま魚屋に立ち寄る話。

でもよく考えると、生きていなければ買わないというのは
ゼイタクな嗜好ですね。

「お、生きている」と思うとお金の余裕を計算します。

「そのエビ、すみませんが200」
・・たった?ですが300、400は買えない。

まあお魚屋さんも独身のオッサンに見えて
「少量でも仕方ないか」


急いで帰宅して調理しますが、帰宅の道が結構楽しい。

『ねぶか買うて枯れ木の中を帰りけり』蕪村

これは寂しさの句ではないぞと分かる所以です。


あるとき、活きは良く、旨そうに見えるけれど
さっきまで生きていたのか?
買うかなあ、止めるかなあ。。

大いに悩んで(たった200gほどを)
「たまには生きていなくてもこれならよいか」と
お兄ちゃんに「それ200下さい」

魚屋さんが海老に手を伸ばすと実は生きていて跳ねます。
氷の上で大人しくしていただけなのですね。

『海老買うて帰宅を急ぐ年金者』