昨日はサトルの両親のところへ、今日は私の両親のところへ、互いの両親宅にお盆の挨拶に出かけた。そして今年はいつもの年とは違って、我が祖母の新盆だった。
この春、祖母が91歳の誕生日を迎えるちょうど半年前の日に亡くなった。他の方が亡くなったことについてはブログになんとか書けたのに、なんだか祖母のことは今日までなかなか書けなかった。いい加減に書きたくなかったというのもあるけれど、なんだかやっぱり書くのが難しかった。一緒に暮らしていたこともあったから、当然良いことばかりでなく、祖母のことで嫌だなと思うことだっていろいろあった。ほんわか優しいおばあちゃんじゃなかった。ばりばり仕事をしていた。
でも葬式のときに祖母のしていた和裁の仕事は私の数年後くらいの歳になってから始めた仕事だということを知った。ばりばりムキになってしていたのも無理は無い。
今日、祖母の仏壇に手を合わせに祖母の和裁学校の生徒さんだった80代の方がいらした。挨拶にでると「ああシホちゃん、お元気?」とすぐに名前がでてきた。「徐福のこと、おばあちゃんから聞かせてもらいました」そして、「シホちゃんのこともサホちゃんのことも自慢の孫だ曾孫だとよく話していましたよ」といわれた。「そうそうワタル君は野球をね」・・・おばあちゃんは親しい生徒さんたちにいろんな話をしていたんだなあと知った。
祖母のことで何よりも忘れがたいのは私が大学4年生、卒論を書いていた時期のことだ。
まだ手書きの時代、ようやく下書きが終わった頃、私は一度高熱を出してダウンした。そのころ、父の転勤で母がついていかなくてはならなくなり、一時期、祖母と弟と私で暮らしていた時期があった。高校生の弟が「休んであげようか」というので、学校を休ませてはいけないと思って「いい、学校行きな」といったものの、ベットでぐったりしていた。
祖母はその時和裁学校をやっていたけれど、心配して見に来てくれた。祖母はその時「もう、卒論なんてやめたら?」って残酷なことをいった。「書かなきゃ卒業できないの!」と怒りながら、ぐったりしながら、こんなことしてると間にあわないと焦りに焦っていた。
その日の夕方だったろうか、祖母は自分が車を運転できないから生徒さんの一人に頼んでくれて、病院まで連れていってくれた。「やめときな、やめときな」って言いながら、祖母は応援してくれていたのだ。
なんとか直して清書にかかり、やっと書き上げた卒論が『徐福伝説考』だ。いま思うと恥ずかしいけれど、22歳の精一杯だった。
あれから倍の年が経った。あのとき支えてくれた祖母が亡くなり、44歳、まだまだがんばろうという気持ちでいられる自分にその環境に感謝。その背景に祖母を始めたくさんの応援があったこと、そしていまもあることを改めて感じた祖母の新盆だった。
この春、祖母が91歳の誕生日を迎えるちょうど半年前の日に亡くなった。他の方が亡くなったことについてはブログになんとか書けたのに、なんだか祖母のことは今日までなかなか書けなかった。いい加減に書きたくなかったというのもあるけれど、なんだかやっぱり書くのが難しかった。一緒に暮らしていたこともあったから、当然良いことばかりでなく、祖母のことで嫌だなと思うことだっていろいろあった。ほんわか優しいおばあちゃんじゃなかった。ばりばり仕事をしていた。
でも葬式のときに祖母のしていた和裁の仕事は私の数年後くらいの歳になってから始めた仕事だということを知った。ばりばりムキになってしていたのも無理は無い。
今日、祖母の仏壇に手を合わせに祖母の和裁学校の生徒さんだった80代の方がいらした。挨拶にでると「ああシホちゃん、お元気?」とすぐに名前がでてきた。「徐福のこと、おばあちゃんから聞かせてもらいました」そして、「シホちゃんのこともサホちゃんのことも自慢の孫だ曾孫だとよく話していましたよ」といわれた。「そうそうワタル君は野球をね」・・・おばあちゃんは親しい生徒さんたちにいろんな話をしていたんだなあと知った。
祖母のことで何よりも忘れがたいのは私が大学4年生、卒論を書いていた時期のことだ。
まだ手書きの時代、ようやく下書きが終わった頃、私は一度高熱を出してダウンした。そのころ、父の転勤で母がついていかなくてはならなくなり、一時期、祖母と弟と私で暮らしていた時期があった。高校生の弟が「休んであげようか」というので、学校を休ませてはいけないと思って「いい、学校行きな」といったものの、ベットでぐったりしていた。
祖母はその時和裁学校をやっていたけれど、心配して見に来てくれた。祖母はその時「もう、卒論なんてやめたら?」って残酷なことをいった。「書かなきゃ卒業できないの!」と怒りながら、ぐったりしながら、こんなことしてると間にあわないと焦りに焦っていた。
その日の夕方だったろうか、祖母は自分が車を運転できないから生徒さんの一人に頼んでくれて、病院まで連れていってくれた。「やめときな、やめときな」って言いながら、祖母は応援してくれていたのだ。
なんとか直して清書にかかり、やっと書き上げた卒論が『徐福伝説考』だ。いま思うと恥ずかしいけれど、22歳の精一杯だった。
あれから倍の年が経った。あのとき支えてくれた祖母が亡くなり、44歳、まだまだがんばろうという気持ちでいられる自分にその環境に感謝。その背景に祖母を始めたくさんの応援があったこと、そしていまもあることを改めて感じた祖母の新盆だった。