ほるほる

矢作川のほとりで枝下(しだれ)用水を、
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逵(つじ)志保のページです

高倉健さんの訃報をうけて

2014-11-18 19:33:53 | シホのホ(雑記帳)
今日は朝から枝下用水の聞き取りをしていて、
ようやく終わって、車を走らせているときに、突然、高倉健さんの訃報をうけました。

高倉健さん、
もちろん個人的に知っているわけではないけれど、
高倉健さんのこと、思い出す出来事があります。

それは張芸謀監督の「単騎、千里を走る」(2006年作品)の撮影のときのことなので
2005年、もう10年も前の話です。
ある日、私の中国人の親友レイアンが電話をかけてきました。
彼女が電話をくれるときというのは、余程急ぎの用くらいで
電話で話すことは滅多にありません。

「しほー、私、いま雲南の湖に建つホテルにいるの」
なんだかいつもと違う声。
「私、いま、高倉健さんに会ったの」
なんでー?というまでもなく、
「今度映画の通訳やることになって、高倉健さんがでるの。
それでいま到着したから挨拶したんだけど、
健さん、笑ったの。
私、『笑うんですね』って言っちゃった。
そしたら『あなたと会えたから笑ったんですよ』っていうのよ。
私『冗談も言うんですね』って言っちゃった。」

もうレイアンのドキドキがこっちに伝わってくるようでした。
よく日本語でそんな会話できたなあと思うんですが
とにかく中国人にとって高倉健は特別の人ですから
彼女がどれほど嬉しいか、手に取るようでした。
そして
「いまから健さんがマッサージするから、行ってくる」
といって電話は切れました。
通訳はいいですね、その人のプライベートまでつきあうことができるのです。

それから彼女は私が「サインもらっておいてよ」と言いたくなるような人を
何人も通訳していますが
後にも先にも、あんな高ぶった声で電話してきたことは高倉健さんのときだけでした。

「単騎、千里を走る」の映画をご覧になった方だったら、
あのときの通訳役?と思うかもしれませんが、
いえいえ、でてくるのはたどたどしい通訳で、彼女は監督からの指示を伝える通訳でした。

撮影が終わったあと、
高倉健さんがいかに気遣いの人だったかをさんざん聞かされました。

なかでも、旧正月で撮影が中断したとき、一度帰国して、
休み明けに自分の洋服や小物を山と抱えてきて
スタッフ全員に1つ1つプレゼントしたんだそうです。

そのとき、誰よりも張芸謀監督が興奮して、
みんながもらったものを全部自分が身につけて写真を撮ったそうで、
ものすごい笑顔の監督の写真が送られてきました。
監督は高倉さんと仕事できるのが嬉しくて、
母親をわざわざ呼んで一緒に食事までしたんだと話していました。

今夜、中国外交部が異例のコメントを出していましたね。
我が家にも、訃報を聞いてたまらないと中国から何通もメールが来ています。

中国人が日本人がではなく、
一人の人としてあたたかく接したこと、それがどれだけ中国の友人たちの心を打ったことかと思います。

高倉健さん、私の回りの中国の友人たちが本当に寂しがっています。合掌
コメント (4)
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