10月1日、横浜線の踏切で倒れていた高齢の男性を助けようとして、40歳の女性が電車にはねられて死亡した。
その女性は、父親の自動車の助手席で踏み切り待ちしていたのだが、父親の制止を聞かず、高齢男性の救助に向かったらしい。男性は怪我で済んだが、女性は電車にはねられて死亡。なんともいたましい事故であった。
人の生命に軽重はない。だから、高齢者の生命を助けるため若い生命が犠牲になったという言い方が相応しいとは思ってはいない。
しかし、高齢男性がレールの上に首を載せようとしていたらしいと聞くと、同じ高齢者の私としては、なんとも言うに言えない気分になるのだ。
まして、レールの上に首を載せようとしていたなどと聞くと、とても複雑な気分になる。
私は間もなく80歳になる。過日、駅のホームの階段を下りるとき、若い知人から、「真ん中を降りないで、手摺りのある端を歩いたほうがいいですよ」と言われた。
そのときは、「なーに大丈夫。まだまだ足腰はしっかりしているさ!」と言い返した。
今にして思えば、まことに不遜な言葉であった。間が悪ければ、若い人の犠牲によって、私の生命が助けられることだってあるのだ。
今後階段の昇降にあたっては、手摺りのある端のほうを歩こうと思う。生かされて生きている私として、それは最低の義務かもしれない。