すべてを「0」か「1」かに区別して処理するのがデジタルだ。
「ある」が「1」で、「ない」は「0」。
これはよく分かる。
「きみはこの人、好きかい?」
「うん、好きだよ」 そう答えれば「1」で、「嫌いだねえ」となると「0」。
「どちらとも言えないなあ。概して言えばー」 なんて答えは許されない。
かつて臓器移植に関し、「生と死」の「判定基準」で揉めたことがあった。
どこまでが「生」でどこからが「死」か?
つまり、どこまでが「1」でどこからが「0」の論議だった。
医学的なことは知らないが、「人の尊厳」にかかわる議論だったように思う。
識者の議論はブレていた。「1」でもない「0」でもない状態があるとでも言うのか。
今はどんな結論になっているのだろうか。
0と1の間ひを彷徨ふ朧かな 鵯 一平
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1と0。結論を出せといわれても、難しい場合もありますね。
中間にボカシテいたほうが無難とか。
結論付けたほうがヤヤコシイとも。
アナログ、直感、素直な気持ちを聞きたいときもありますが。
これにはスーパーコンピューターも敵わないと思います。
世の中は曖昧なことばかりです。
人間の認識のあいまいな部分をコンピューターで処理する技術を
ファジー(fuzzy)と言いますが、それを処理するコンピューターは
0と1で計算するのですから面白いですね。
純技術論で言えば、デジタルは進歩でしょうね。
カメラもデジタルは面白いですよ。
しかし食わず嫌いの人も多いとは思います。
かく言う私も、デジタル家電派ではありません。
デジタル的とアナログ的は、一長一短ではないでしょうか。
もちろん私はチャキチャキのアナログ人間なので、引き分けが好きです。
長く蓄えたデータ(カセット、ビデオ、LP)をデジタルに変換する手間隙が容易じゃない、処分するか否か彷徨ってます。
センスの無いコメントでご免なさい。
0と1で区分けするのは機械に任せる時代ですが、最近は人間もディジタルで判断する人が多くなり、寂しいですね。
アナログは0と1の中間があり、私はアナログが大好きです。
生命を救う、死にたくない、そんなニーズに応えて生まれてきた臓器移植には、いくつもの論点がありますね。
どちら側の当事者にもなっていないので、深く考えたことがありません。
最後は「心」とか「宗教」も問題になってしまいます。
臓器移植は他者の死を待つというなんとも悲しい現実があるのですね。その境目が難しい。待つ患者に対して提供数が少ないのも分かるような気がします。
大きな心の動きはアナログでしょうが、その心の微細な襞まで分析して「0」と「1」にわけようとすれば、ある程度は可能でしょうが、真実を表現出来るでしょうか。
アナログとデジタルは使い分けが続くと思います。
一かOか、そうスパッとわけられない
いつも、1?、0?と間で揺れる
ましてや大事な人の命となればなおのこと
一縷の望みが捨てがたい
臓器移植もわかります
でも、遺族の心情は複雑と思います
たとえ0であってもどこかで奇跡を探したい
それでは、臓器移植にはまにあわない
0と1の間を彷徨うふ朧かな
本当にそうですね