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大森町界隈あれこれ 梅ちゃん先生時代の大森学園 終戦翌年に旧制中学の入学を迎えた混乱期の学び舎時代(1)

2012年07月16日 | 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
kan-haru blog 2012 0727一部変更      

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大森学園同窓会
平成24年度大森学園同窓会(大田区大森西3-2-12)もりこう会の総会が6月30日午後4時から、教室棟3階会議室で開催され、同5時半から懇親会が教室棟8階パノラマラウンジで開催されましたので、出席しました。
総会では、大谷会長挨拶、畑澤学校長挨拶の後、平成25年度からの会報発行の改正、会則の改正、役員改選などが行われ、会員の承認で成立しました。

 もりこう会総会(写真拡大)

懇親会
総会終了後、パノラマラウンジにて懇親会が行われ、勝島広報委員長の開会の辞、安達教頭先生の挨拶に続き、乾杯後近況報告や懐かしい懇談の輪ができ盛り上がりました。

 懇親会風景(左上・中上右上左下中下右下写真拡大)

今年は、もりこう会会報VOL.42の卒業生便りに、「NHK連続テレビ小説『梅ちゃん先生』時代のもりこう」をタイトルとした記事の投稿がありました。それらをきっかけに本年度の同窓会では、梅ちゃん先生コーナーを作ることになり、興味をお持ちの同窓会員の方多数がパンフレットをお持ち帰りになりました。

 梅ちゃん先生関連パンフレット(:NHKステラ[梅ちゃん先生]、:梅ちゃん先生蒲田マップ大田観光協会、:梅ちゃん先生イベント情報大田観光協会)

会報「もりこう」投稿記事
もりこうへの投稿記事の「NHK連続テレビ小説『梅ちゃん先生』時代のもりこう」は、4月2日から放映開始の2012年度上半期に、NHKが総合テレビジョンとBSで放送する連続テレビ小説・第86シリーズの作品が、第二次世界大戦末期の空襲(京浜空襲昭和20年4月15日)により焦土となった東京都蒲田区を物語の出発点とし、下村梅子が(学制改革前の)旧制医学専門学校に入学し、地域の人たちの支えによって町医者となって、戦後占領期から高度経済成長期を生きていくという物語です。梅ちゃん先生が通っていた女子医専のモデルは、昔は大森第三尋常小学校に隣接していました。
投稿記事は、昭和20年8月15日世界大戦が終戦の年の秋に学童疎開から、東京に引き揚げて東京ガス大森工場裏の寄合所帯の住宅に仮住いして、爆撃で灰燼の母校大森第1国民学校が大森第5国民学校に居候した中で通学し、翌年3月に卒業証書も成績書の授与も無く卒業しました。そして、同年4月に焼失のため大森9丁目の元山中電機工場跡の5年生旧制中学の大森工業学校の電気科に入学して、東京ガス大森工場裏からガス会社に沿って運河沿いに、旧呑み川を渡り5~6人の学友と通学しました。

 (左:もりこう会報表紙、右:投稿記事の一部[投稿記事PDF])

では、終戦の秋に東京に引き揚げ、ガス会社裏の仮住居に生活を構えた頃の、梅ちゃん先生の時代の背景の大森町の様子がどんな状況であったかを説明地図にて再現すると、入新井の一部に住宅が残存する他は見渡す限りの焼け跡で、蒲田付近まで見渡せました。工場は、東京ガス会社大森工場と日本特殊鋼は爆撃が避けられて無事でした。学校関係では、大森第5国民学校が唯一焼け残りました。京急の駅は、沢田通り(現環7通りの一部)の南側にあった学校裏(現平和島)駅、大森山谷(現大森町)駅とも焼失しましたが、学校裏駅は現在の平和島駅の場所にバラック駅で営業再開しました。なお、戦前の住居地は、戦中に建物強制疎開により取り壊されました。
捕虜収容所は、戦中には連合軍の捕虜を収容していましたが、戦後は日本の戦争犯罪者が収容されていました。

 昭和20年4月の爆撃で焼け野原の大森町北部周辺説明図

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