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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 大森学園創立70周年 徒弟学校から戦後焼跡工場仮校舎の歴史を追う(第2回その2)

2009年11月22日 | 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
kan-haru blog 2009 大森機械工業徒弟学校の誕生  

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今回は、大森機械工業徒弟委員会がスタートして徒弟学校の創立へと向けて進む姿を追ってみます。

・徒弟委員会による徒弟の共同募集
徒弟委員会は創立後間もなく、徒弟の共同募集の準備にとりかかり、幸い職業紹介所当局からの勧奨も得られたので,これに力を得て結束して画期的な募集方法をとることになりました。
共同募集に当っては,雇用,教育,福利等に関する条件を一定にすることが根本問題なので業者間で討議し,募集人員は各工場別の調査によって概数を調べ、職業紹介所との折衝で諒解をえられて,総計750人の徒弟の共同募集を開始しました。

 生徒応募者数

共同募集について、「大森機械工業徒弟委員会とその事業 大内経雄 財団法人協調会 社会政策時報第230号」には次のように書いてあります。
「共同募集人員の750名に対し、1100名の応募者があり好候件づくしの大工場のそれを凌駕するような成績を示し、応募者の資質は体格や学業においては優秀者揃いであり、募集費の予算は1人当たり15円が10円以内と、従来の業者各個の募集費用に比し非常に少ない費用で済み、東北関東の全域に亘り募集ができた。
また、さらに身体検査では、各地の医療組合病院所属の医師による診断がえられたことは特記する事項である」と書かれています。

 共同募集 大森機械工業徒弟委員会とその事業 大内経雄から

応募者の詮衝は、昭和13年2月22日から3月13日までに終了しましたが,厳重なる詮衝の結果760名の合格者を得ました。併しその中で実際に4月に就職した者は500名に過ぎませんでした。これは、勧誘により他に転じた者,家庭の事情その他の理由で志望を変更した者等により,募集が如何に困難であることかが窺われます。

・共同募集徒弟の配分
共同募集で募集した合格者の配分には、種々困難な問題を配慮して行われたが、その方法について大内経雄は次のように書いてあります。
「徒弟委員会は同志会を母体にして組織されたが、同志会の全員が会員になったのでは無く、態度不鮮明な業者や徒弟を託すには不適当な業者も見受けられるので、厳密な工場調査を行い、適格な65工場に配分した。配分の基準は採用者の体格、学業成績に応じた3クラスに分け、同府県人を1工場に2人以上配分し、工場の仕事の性質に応じて体格と知能の特性を適応し、それに工場主の指導力などを斟酌按配して公平を期した」とあります。

 徒弟の配分 大森機械工業徒弟委員会とその事業 大内経雄から

・大森機械工業徒弟学校の設立
合格者の工場配属を決定するに先立ち、1939年4月5日に明治神宮外苑日本青年会館に一同を集め、徒弟委員会経営の大森機械工業徒弟学校入校式が挙行されました。
入学式には、多数の来賓並に生徒父兄の前で東京職業紹介所長の立会の許に、「大森機械工業徒弟委員会徒弟雇傭斡旋並二養成教育二関スル協定書」に、雇傭者ならびに被雇傭者代表(保護者代表)が署名調印をして、厳粛なる宣誓を行った入学式式が開催されました。

 明治神宮外苑日本青年会館における徒弟学校入学式

協定書は、わが国はじめての団体雇用協定であり21条からなっており、雇傭関係については雇傭期間を5年として理由なくして解雇、退職ができず、雇傭条件に紛議を生じた時には協議の上東京府職業課及東京職業紹介所の承認を得ること。待遇に関しては、雇傭者は養成教育中の被雇傭者の1年生5円、2年生6円、3年生9円、4年生12円、5年生15円の月額手当を支給し、養成教育中の被雇傭者の衣食及教育は無料支給又は貸与する。
養護については、被雇傭者中の保護職工の就業時間は10時間とし、止むを得ざる場合は11時間とするが、徒弟学校に於ける学科及教練の時数はその中に含めるものとする。寄宿舎の設備のない工場のための共同寄宿舎を委員会にて設置して利用するものとする。
養成教育については、被雇傭者は大森機械工業徒弟学校に全部収容して、その教育を受けるものとする。教育の都合上、就業時間を中断することがある。徒弟学校は青年学校令および技能者養成令に準拠して、特定の時数を学科,教練に当てるものとする。教育に要する費用は雇傭者の負担とする。
といった協定で、この徒弟学校は5年制の当時の学制の青年学校に準拠した教育訓練を受けられ、勤労学生を希望する者には画期的なものでありました。

 大森機械工業徒弟委員会徒弟雇傭斡旋並ニ養成教育ニ関スル協定書(拡大参照)

・徒弟学校校舎建設の大幅遅延
徒弟学校の入学式が挙行されましたが、まだ徒弟学校の共同施設の徒弟学校教室、共同寄宿舎と栄養食共同施設の建設が大幅に遅れて、大森区3丁目283番地に350坪の土地を買収し、850坪を借り受けた建設予定地には建物は何も無く、ただ「大森機械工業徒弟学校建築予定地」の棒杭が1本建っているのみでした。
共同施設の建築は、「戦時下、技術員・技能工養成の緒局面 原正敏」の資料によると、「建築設計に当っては、帝大教授工学博士岸田日出刀氏の御高弟前川国雄氏に依頼し、漸く別図の如き案を得るに至ったが、2月下旬同氏の事務所の事故のため、同氏の推薦による山口文造氏が同案を引き継いで設計されることとなった。同案は大体に於て委貞会の根本趣旨を具現したものとして我々の支持を得たのである。詳細な設計を3月下旬に完了し,直ちに建築に着手する予定である。」とあり、徒弟学校の新校舎は大幅な遅延でのスタートとなりました。
これに対して、当時の徒弟学校校長であった米沢勇作大森学園理事長は、随想集に「創立の頃」の追想を書かれております。

 米沢勇作大森学園理事長の随想集から「創立の頃」(拡大参照)

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