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kan-haruの日記

イベント 63年前の東京大空襲傷痕 浅草、本所、深川の戦跡をめぐり平和を祈願する その4

2008年03月20日 | イベント
kan-haru blog 2008

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東京都慰霊堂
墨田区役所の「平和のオブジェ」で平和を祈念した後、本所の戦跡めぐりは東京都慰霊堂に向かい、吾妻橋1丁目停留所から門33系統都バスにて石原1丁目停留所で下車しました。
東京都慰霊堂(墨田区横網2-3-25 地図参照)は、清澄通りと蔵前橋通りの交差点に面した、横網町(よこあみまち)公園内にあり、関東大震災と大東京空襲のメモリアルパークです。

    都立横網町公園(拡大図)

関東大震災
公園は、東京市が1922年(大正11年)に陸軍被服廠の移転に伴い、跡地を買収し公園の造成を進めている最中の翌年の9月1日に関東大震災に遭遇しました。
震災で東京下町から火気が立ち町中が火の海になり、逃げ回る人々には被服廠跡地は広い敷地であり格好の非難場所でした。当初は火の気もそれほど近づいておらず、遠くに煙が見える程度で、ここまで火災が来るとは思えない状態なので、非難をした人たちが自宅に戻り家財道具や布団等を大八車で運び込み、人と荷物で埋め尽くされました。
やがて、火の粉が非難した人々の頭上に舞うようになり、布団などに着火して持ち込んだ荷物が燃え出し、人も物も全て灰と化して犠牲者の数は東京市全体の死亡者の半数以上の3万8千人程度が死亡したとされています。

・震災記念堂
1930年(昭和5年)に、震災の死亡者の霊を祀る震災記念堂として創建され、身元不明の犠牲者約6万人の遺骨が納められました。また、翌年には震災復興記念館が建てられました。
本堂は、伊東忠太氏の設計によるもので、寺院風の建築となっており、200坪の講堂を持っています。その奥には三重塔があり、塔の高さは約41mで、基部は納骨堂となっています。

 慰霊堂(震災記念堂 写真拡大)  三重塔(写真拡大)      講堂(写真拡大)  

・震災遭難児童弔魂像
震災遭難児童弔魂像は、地震災害に遭い死亡した小学校児童約5千人の死を悼み、当時の学校長等が中心となって寄贈した弔魂碑です。現在の弔魂像は、第二次世界大戦で金属回収を受け撤去され台座だけが残されていましたが、1961年(昭和36年)に作者の小倉右一郎氏の高弟である、津上昌平、山畑阿利一の両氏によって、往時の群像を模して再建されたものです。

幽冥鐘
震災の悲惨な凶報が伝わった中国では、杭州西湖の招賢寺及び上海麦根路の玉仏寺で念仏法要が営まれて、幽冥鐘一隻を鋳造し、この鐘声の功徳によって永らく幽都の苦を免れることを宣言しました。その後、震災情報が日を経るに従い甚大であることが明らかになり、この梵鐘の寄贈を申し出て震災記念堂に安置することになりました。

  震災遭難児童弔魂像        幽冥鐘     関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑      
・関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑
関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑は、関東大震災の混乱のなかで、あやまった策動と流言蜚語のため朝鮮人が尊い生命を奪われました。この不幸な出来事をくりかえさないように願って建てられた碑です。

東京大空襲で再び東京は焦土と化す
第二次世界大戦における、1944、5年(昭和19、20年)の一連の空襲により、再び東京は焦土と化し、関東大震災を超える7万7千人あまりが死亡しました。1948年より、各地に仮埋葬された身元不明の遺骨を納骨堂に改葬し、戦災者整葬事業が完了した1951年に「東京都慰霊堂」と改称され、10万5千人の遺骨が納められ、仏教各宗により祭祀されています。
講堂の祭壇には、震災死亡者、空襲死亡者の霊をそれぞれ合祀した大きな位牌が2基祀られており、3月10日と9月1日に慰霊法要が行われています。

 慰霊堂由来記(写真拡大)        納骨堂         震災復興記念館

講堂の左の壁には、石川光陽氏の撮影した3月10日の東京大空襲の写真が掲げられており、右の壁には洋画家徳永柳洲氏が関東大震災の実況を、門人と力を合わせて描かれた油絵が掲げられて展示されてます。

・東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑
東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑は、東京都が「東京の大空襲犠牲者を追悼し平和を願う会」の募金を、建設経費の一部に充てて平成11年に建設の取り組みが開始されました。碑の斜面を覆う花は生命を象徴して、碑の中には、東京空襲犠牲者名簿を納めており、平成19年現在78、097名を「東京染小紋」の伝統工芸品の表紙の名簿に記載してあります。

             東京都慰霊堂  右:東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

墨田区の都慰霊堂では、3月10日に遺族らが参列して春季慰霊大法要が行われ、常陸宮ご夫妻や遺族らが焼香しました。都では、この日を「平和の日」と定めています。

東京大空襲・戦災資料センター
次の戦跡めぐりの目的地は、東京都慰霊堂から、大江戸線の両国駅より清澄白河駅まで行き、秋26系都バスに乗り継いで北砂1丁目で降りて、大空襲で大きな戦災を蒙った旧深川の地にある東京大空襲・戦災資料センター(江東区北砂1-5-4)の見学です。
戦災資料センターは、今回の訪問で3回目ですが、昨年3月に増築が行われ展示が充実したセンターを是非見たいと予定していたのですが、たまたま戦跡めぐりのコースに組み込まれておりましたので、目的が実現しました。

      東京大空襲・戦災資料センター正面入口        2階展示室

東京大空襲・戦災資料センターの見学コースは、増築で倍に広くなった2階展示室で東京大空襲のビデオを見てから、同コーナーの壁面には空襲を描いたさまざまな絵画や被災地図、日本空襲の写真などが見られます。3階の資料・展示保管室では、実際に投下された焼夷弾や空襲の被災品、体験者の手記・写真、戦時下の文書などが、東京大空襲の実相を伝えています。また、「戦争と子どもたち」の部屋には、戦中教育や学童疎開などをテーマにした資料が見られ、灯火管制下の暮らしぶりを再現した部屋などが展示してあります。

                戦災資料センター2、3階展示室

63年前の3月10日の東京大空襲の傷痕を、浅草、本所、深川と広範囲な地域を初めて、1日を費やしてめぐって見て、如何にこの空襲の被害が大規模であり、10万人もの罪の無い一般市民を殺戮した戦争は大変と悲惨なものと強く感じ、戦争の悲劇を風化してはならず、平和の持続を希望したいと願います。

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