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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第6回

2007年03月29日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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終戦直後のカルシウム源
この4月1日には、大森町の中央部を西から東に流れる内川河口付近に「大森ふるさとの浜辺公園」(「大森町界隈あれこれ(N30) 大森町風景 大森ふるさとの浜辺公園の砂浜開放」参照)がオープンします。
内川河口は、このブログの第2、3回で記述してある通り、戦後疎開から戻ってきた時の大森ガス会社横の事務所跡の仮住居(再掲地図⑩参照)でありました。戦災後の再掲地図で見るように大森町の大空襲時(「大森町界隈あれこれ(15) 鎮魂!大森町大空襲(第8回) 」参照)には、ガス会社と内川対岸の日本特殊鋼と並んだ大工場が辛うじて戦災から免れたため、それに挟まれたガス会社沿いの路地周辺に面した10数軒の建物が焼け残りましたので、取りあえずの戦後の仮住居が確保されたのです。

昔の大森町は海岸淵
大森ふるさとの浜辺公園の場所は、62年前の小学6年の後半から中学3年まで(「大森町学びや もりこう会の集い(その1~4)」参照)の間過ごした仮住居と隣接した所縁のある場所で、そこに何と大森ふるさとの浜辺公園が出来るとは誠に隔世の感があります。
当時は、内川河口が東京湾の沿岸であったのですが、東京オリンピックが開催された頃には、埋め立てにより海岸線は遥か数キロ先となっております。
大田区、品川区の第一京浜国道(国道15号線)沿いにはところどころ旧東海道が残っておりま、昔はその旧東海道(品川区)は海岸線に沿って通っておりました。また、京浜電車(現在の京浜急行電鉄)の大森海岸駅付近の海岸には、大森大海水浴場(「大森町界隈あれこれ(3) 大森町に住んで65年!(その3)」参照)があったのです。

昔の大森は江戸前の宝庫


開園予定の大森ふるさとの浜辺公園は、かっての大森海岸を再現した入江や干潟の浜辺で磯遊びを楽しむ憩いの場所となります。戦前は、大森近辺の東京湾は魚介類の宝庫で、江戸前と云えばこの辺で採れたあなご、はぜ、蝦蛄や蛎はすし種の一級品でした。また、江戸時代以前からの浅草海苔の一大養殖場で、現在も大森町に続く加工技術により作られている乾海苔の味は、他では追従が出来ません。

戦争末期には漁業が行えなかったため、終戦の時には東京湾の魚介類は殖えておりました。大森ふるさとの浜辺公園になる前の海浜では、ハゼの宝庫で小学6年の秋には、小一時間足らずで100~150匹も釣れる大漁でした。潮の良いときをみてはぜつりに精を出し、ハラワタを出し天日干しをして、正月までのカルシウム源として貴重な食材でした。

当時は、非常な食料難で食料は配給制で、本来主食は穀物なのですが一粒も配給にならず、キューバ糖や芋がらが代用品という大変深刻な時代でした。魚の配給も、たまに配られる時は何時も「すけそうだら」ばかりで、ハゼは高級な食材でした。
ハゼ釣り餌の「ごかい」は、干潮時には仮住居の脇の露出したヘドロに膝まで浸かると幾らでもとれました。
何時の時代でも、海は自然の宝庫です。開園の大森ふるさとの浜辺公園は、平和の維持を願い大切にして行きたいと思います。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) マッカーサーの進駐 第5回
巧みなアメリカの宣伝
茲にアメリカの散布した宣伝ビラの二、三を記録して置こう。
初めのうちは好奇心であった。何を書いてやがるかと読むには読んでも、待って居たら一寸来いで、先ず当分おてんとうさまをおがむ事が出来ないから、みんな焼き捨ててしまったが、読みての上の我等の当時の心境は
  軍民離間策 厭戦思想喚起の文句
と判断し、いくら戦争は敗退の上敗退でも、こんな事に迷うものかと冷笑して居ったのである。ただ然し
  洗練された其の文章と美事な筆跡
には感嘆の外なかった。其の内、通俗的でよく講談で知られた「鍋島の猫騒動」の一節を持ち出し、麗人お豊の方が化猫にのどを喰いつかれ悲鳴を上げている図を画き、説明して曰く

「この化猫は、国民の生血を吸っている軍閥である。軍閥は本国より遮断されている何十万と云う若者を無意味に犠牲にして居る。又国内の人民に必要な衣食薬品の供給を怠り、国家を衰微に導いて居る。
かみ殺された美しいお豊の方は、軍閥が破壊した立憲政体に相当し、明治大帝の御命令にそむいて、軍部は政治に口ばしを入れ、彼等は国家を守るより、寧ろ滅亡の窮地に陥れた。
最後にこの化猫は忠義な伊藤宗太と云う武士に皮をはがれ、村人に追いまくられころされた。」

これは再び平和と繁栄を取り戻す為めに忠義な日本人は、
  天皇陛下並に国民を惑わした軍部を滅せ、
と。陛下と国民と軍部とを別にしている。然し単なるこの物語を利用するなど、敵も中々さるもの、軍民離間の宣伝はたしかにうまいものだと感心したのは当時の事である。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第5回

2007年03月21日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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信州天馬侠
終戦後の学校の授業で一番に困ったのは、先生方でそれまで教えていた戦意高揚の教科書に墨を塗り、中身が無くなり生徒に教える教材がないのである。
修身・国史・地理の教科書は、殆ど全ての部分がそのまま教えることが出来なくなり、後に教科書が回収されたのです。
そこで、年配の確かお名前が臼田先生と呼ばれていたと思ったのですが、はっきりとした記憶ではありません。ともかく生徒に教える教材が無くて困っていた先生が、ある日に本を持参して教壇に上がり、これから本を読んで聞かせるからと言って読み始めた図書の名前は、「信州天馬侠」でした。

「信州天馬侠」は、大正末期から昭和の初めにかけての「少年倶楽部」の躍進期の中心的な読み物として掲載された吉川英治著の少年小説で、当時は子供と共に大人にもこの小説に熱狂したそうで、今日でも大衆児童文学として力を保ちつづけております。最近の出版は、吉川英治歴史時代文庫『信州天馬侠 (一)~(三)』が講談社から2005年6月15日第14刷が発行されております。


小説の粗筋は、織田・徳川の連合軍に滅ぼされた武田勝頼の遺子・伊那丸が、忠義の士に護られて、健気にもお家の再興をはかる。しかし、戦国群雄の圧力の前には....波乱万丈。
と云う筋書きのもので、物語の面白さと先生の朗読の上手さにひかれ、生徒は全員わくわくして聞き入ったことでその好評さに、来る日も来る日も連日の講演により学校に行くのが楽しかったことが想いおこされます。

当時の、戦争末期には文学書など読もうものなら、贅沢は敵だと言われた時代であり、戦争が終わった直後には物資の欠乏時代で本などは手に入り難い状況でした。戦争中は、勤労奉仕だの鍛錬だので、読書には全く縁が無く文化的なものには飢えておりましたので、「信州天馬侠」の朗読には新鮮な感激を味わせて貰いました。

朗読は、かなりの期間続きましたが小説の最後まで進まぬまま、朗読中止の挨拶もなく取り止めとなりました。理由は、確か先生の転勤であったのではないかと思います。あの、戦争でぎすぎすとした時代に、小学6年生にとっては、涼風の一服の清々しい気持ちに導かれ、今でもはっきりと想い出され、終戦直後の荒んだ時代の良き一コマです。
最近、本屋で「信州天馬侠」の文庫本の宣伝を見かけましたので、懐かしく早速入手しました。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) マッカーサーの進駐 第5回

政務と統師不一致
小磯内閣が成立した直後「政務と統師の吻合」と云う、今迄見た事も聞いた事もない吻合と云う熟語を宣言した。すると、さては今迄、国運を賭する大戦争中、大事の大事の政務と統師が一致して居らなかったと思うた。成る程東條は首相として陸軍大臣を兼ね、更に人物の貧困が、或は東條さんでは相手が悪いのでなり手がないのか、欲張って参謀総長迄やったのである。超人間、千手観音さまの生れ変りの英雄なのかと思うた。夫れで東條内閣は政務と統師不一致、かみ合せざる処で辞職したのかと判断した。
鈴木内閣となって、統師と国務は渾然一体であると説明した。態、当然の事を殊更改めて説明するから、之ては小磯も渾然一体となりかねて辞職したものと思はれた。

我々庶民とした処で生活の順調の時は、夫婦仲も「戦線に異常なし」である。然し此の頃のようにインフレで財布失調の時代になると、夫婦のいがみ合いは朝晩常例となる。戦争も勝ち戦さの時は、渾然一体吻合もするけれど、負けるとなると、渾然も吻合も思うようにはならぬは当然である。殆ど独裁政治、議会は無気力である。
此の時、此の際、真に
  時宗か、秀吉のような大英雄ここに生まれ来て
アケスケ、ボロをさらけ出し、真の国難に処し、我等に一大号令をかけてくれぬかと痛切に思わざるを得なかった。負けは負けと、はっきり率直に聞かして貰ったらそれこそ死か奴隷かの境だ、非力の者と雖も三.五人の真力を出す事は不可能ではあるまいと思う。
  何事に付けても、あまりにも国民を信用しない
右に法律、法令、左に権力を握り、不可能を可能に、二二が五とせよと神がかりに命令されても、我々は下手にも動けず、上手にも動けず、さわらぬ神にたたりなしと、出すべき力も本土決戦に出すと出し惜しみをしつつ敗戦となったのである。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第4回

2007年03月13日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
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墨塗り教科書
疎開から戻り東京での戦後の授業は、終戦により混乱を極めておりました。
1945年(昭和20年)8月の終戦でわが国の教育は転換をせまられ、教科書について大きく変革を求められ、9月20日に文部省は「終戦ニ伴フ教科用図書取扱方ニ関スル件」の次官通牒をだし、国定五期教科書の戦時色の濃い教材の全部あるいは部分的修正削除を指示しました。これにより「墨ぬり」や「切り取り」が実施されました。先ず、この文部次官通牒は、10月2日連合国軍最高指令官総司令部による指令「日本教育制度ニ対スル管理政策」以前のもので、文部省が独自の判断で自主的に行ったものでした。

国民学校の教科書は「国体の本義」「臣民の道」を基調にして日本民族の優秀性を誇示し、国家主義・軍国主義を強くだして戦意の高揚を図っていた。米国政府は日本の教科書を「軍国主義・国家主義的観念を執拗に織り込んで生徒に課し、このような観念を生徒に植え込むのもの」とし、12月31日に内容のひどい修身・国史・地理の回収を指示しました。これにより、文部省は1946.年1月11日に修身・国史・地理の授業停止を命ずることの指令を発し、2月から教科書の回収がはじまりました。
しかし、それらの教科書を急に切りかえることは至難であったので、軍国色の強い個所はこれまで教えてきた教師が指示して、教えをうけた児童が自分の手で墨を塗るという作業が進められました。

教科書の墨塗りは、担任の先生は習字道具を出して墨を塗るように指示して、『国語の教科書を出しなさい、進駐軍の命令で今使っている本の中で戦争のことが書いてある部分を消すから、先生の言う所に墨をぬって読めないようにしなさい』というようなことを言って、今まで絶対に正しいと信じ、落書きもしなかった教科書を墨で塗りつぶした時代があったのです。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) マッカーサーの進駐 第4回
戦意昂揚の宣伝標語
勝った勝ったで有頂天であったし、負けても撤收、玉砕である、最後は必ず勝つのであるから、我一人位怠けた処で戦局にさしさわりあるまいと思いもした。それについても、戦争中アメリカの散布した軍民離間、戦意喪失の宣伝ビラと、我が方の戦意昂揚の為の街頭宣伝ビラを茲にひろって見よう。

近衛さんの新体制運動華かなりし頃の
  大政翼賛 臣道実践
はたしかに当時の人心にピッタしでうけ、全国を風靡したものである。林さんの
  滅私奉公
これも林さんの人柄らしい申分であるが、御題目と云うだけに何の迫力もない。又平沼さんの逃げ口上、所轄「複雑怪奇」は平沼さんの性格其のままである。
戦争中は新語制作に寧日なしであったが、二、三記憶に残るもののうちから
  撃ちてし止まん
神武天皇の御製から持って来ただけ、全国に一番流行したであろう。応召の際の日の丸に第一に書いたものである。全くこれ以上のものはなかった。あとは無駄で必要なしだった。

それから後は平凡駄作「一億一心」、「一億総体当り」。
議会の開院式の敬語に、「憤激を新たにし」と仰せ給うたので、すぐ「一億総憤激総厥起運動」となった。国民精神総動員なんかの空念仏よりは、敬語から来ただけに「ピリッ」とした。それは今迄憤激が足りず、敵がい心がたしかに足りなかった。
  もう一機、もう一艦
いよいよ苦しくなって来て、我々国民が怠けてるような御叱りである。一機や一艦で、戦勢を牛を馬に乗り換えるようになまやさしいものとは誰れしも思わん。最後の勝は本土決戦の秋と思うて居たからである。
  何が何でもやりぬくぞ
に至っては、何人の傑作か知らんが。ない、ない、ない盡しの物資不足の時に街頭に仰々しくペタペタ張り出されたが、やりぬきたい人だけやりぬけよと、口には出さぬが、馬鹿馬鹿しさに腹も立たない。殊に学童の懸賞に
  欲しがりません、勝つまでは  
に至っては、敗戦の今日惨めとして云う言葉もない。こう云う標語の濫発で、戦意が昂揚され、生産が能率を挙げると御思召し遊ばされたのであろうか、御伺い申上げたい処である。

これ等に対しアメリカはただ一語
  真珠湾をわすれるな
の一本槍で、開戦から終戦まで、ただこれだけでアメリカ全国民が結束し、全世界に武器、弾薬を供給し、我が国に撃沈撃破されても、より以上倍以上補給充足、遂に我が国を屈伏せしめたのである。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第3回

2007年02月25日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
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学童疎開
学童疎開とは、大戦末期において米軍による本土爆撃に備え、大都市の国民学校初等科学童をより安全な地域に一時移住さることを云います。当初は、個人的な縁故疎開が原則でしたが、1944年(昭和19年)6月30日付の閣議決定「学童疎開促進要綱」により、縁故疎開に依り難い国民学校初等科(現在の小学校)3年生から6年生の学童の集団疎開を実施したのです。
その後、1945年(昭和20年)3月に、激化する本土空襲に対処して、「学童疎開強化要綱」を閣議決定し、国民学校初等科3年生以上の全員疎開と1・2年生の縁故疎開・集団疎開を強力に推進し、「根こそぎ疎開」を実施し8都市の41万1,360人の集団疎開が行われました。なお、この時高等科の児童についても、可能なかぎり縁故疎開をすすめました。
5月には、B29爆撃で92都市焦土化の拡大により、危険地帯からの再疎開・未疎開の中小都市も学童疎開が実施されました。

私の疎開体験は、「大森町界隈あれこれ(8) 鎮魂!大森町大空襲(第1回)参照」と「大森町界隈あれこれ(K35) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第6回)参照」に触れておりますが、縁故疎開で1944年に茨城県岩瀬町の借間で母と疎開生活に入り、その後栃木県の遠い親戚の農家にお世話になり、もう一組の疎開の親子との三世帯の共同生活の体験をしました。疎開生活の惨めさは、いまだに忘れることが出来ないもにで、触れたくない想いが強いため疎開記録は現時点では残さないことにしております。

疎開の引き揚げ
1945年8月の無条件降伏による敗戦で、東京都では学童集団疎開を昭和21年3月まで継続する方針を示しました。
学童集団疎開の引き揚げの第一陣は、10月10日に東京に到着し、11月末までには大部分が帰京しました。翌年3月には、神田・日本橋・京橋区などの集団疎開学童が帰京しました。私は、前回記述の通り夏休み中に帰京しました。

戦後の国民学校通学環境
帰京後の国民学校は、大森六丁目の通学区である大森第一国民学校が、1945年4月15日の大森町大空襲の爆撃により戦災して灰燼(「大森町界隈あれこれ(15) 鎮魂!大森町大空襲(第8回) 」参照)に帰しましたので、戦災を辛うじて免れた隣接の大森一丁目にある大森第五国民学校を間借りして授業が行われました。
仮住まいの住居からの通学(地図再掲参照)は、周辺住宅20世帯ばかりの焼け残り地域の住居⑩から、内川⑲を渡り美原通り(現三原通り)⑧の内川橋⑳脇を京浜国道(現第一京浜国道)②の合流点まで北上して、右折すると東京湾に接したところに大森第五国民学校⑫があります。

当時の通学路の環境は、日本特殊鋼⑱と大森瓦斯会社⑰の両社が大きな戦災に会わず建物が残り、入新井第五国民学校⑮から北部の街区も、戦災を免れて住居が残ることができました。
地図の白色部分は全て灰燼により焼け野原で、入新井第五国民学校⑮から南部の澤田通り(現環七通り)④の南北、京浜国道②の東西、産業通り③の東西や内川の南北は、蒲田から六郷に至るまで建物は何も無く、京浜電鉄(現京浜急行)①の大森山谷(現大森町)駅⑦も戦災で消失しました。
毎日の通学路は、見渡しが良い焼け野原を見ながらの通学で、時たまアメリカ軍のジープやトラックがスピードを出して京浜国道を通過するという、今では想像もつかない何とも異常な時代でした。とにかく、9月から戦後の国民学校新学期がこのようにして始まりました。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) マッカーサーの進駐 第3回

民主主義
進駐軍では将官級の人でも一人で自らジープを運転して、兵隊さんに伍して疾走して居る。我が閣下級なら必ず副官がつき、専門の運転手が運転してる。途中で閣下が居ようが、上官が居ようが、アメリカの兵隊さんは敬礼一つするではない。平気で嬉々として談笑して居る。
然し公式の時は別だ。全く秩序整然として美事である。愛敬に充ちた欣然たる態度で敬礼をする。無秩序のようで秩序あり、これが形式にこだわらぬ本式の民主主義であろう。我が一つ星の兵隊さん、たまさかの休みの外出は、同僚は勿論星一つ兄貴にも、シャチホコたって敬礼する、右を見ても左を見ても挙手注目の仕通しであり、分秒の油断もすきもない。うっかり忘れたら大変、公衆の面前であろうがなんであろう共、ビンタの制裁である。初年兵はビンタのもらい通し、二年兵になって、今度は兄貴となって初年兵をなさけのビンタで教育する。

彼我の差
今は解体してなくなったが、世界に精強を誇った皇軍は、此のような不文の制裁制度がなくては、其の階級と秩序を維持する事が出来なかったと今更ながら不思議に思う。之に反しジープにガールを同乗させて疾走するアメリカ兵と比較して国民性の相違とばかり片付けられぬものがあると思う。
総て能率的な速度、働く時は真剣に働く、遊びと休憩は徹底的に、其の生活は僅かの無駄がない。平等の内に秩序あり、差別の内に平等あり、我等真に今後学ぶべき処あまりにも多い。

進駐軍としてアメリカの兵隊さんに来てもらった事は一番我等は幸福であった。「民主主義は輿論の政治である。菓子にせば、カステーラあり、栗まんあり、羊かんありである。全体主義は英雄も統制主義である。ビスケットであり、乾パンである」とある人の言である。ファッショのムッソリニーもろくも朽木の如く倒れ、梟雄ヒットラーのナチスも、順調の時は真に東西南北を敵にして、破竹の勢華々しく戦ったが、大勢に抗しかね、遂に首都ベルリンに悲惨にも矢盡き刀折れ、其の最後は悲壮であった。我が英雄東條閣下は、輿論を無視し、人情を無視し。統制の為め統制し、所轄自暴自棄、自殺し損ねて今囹圄の身となり、戦犯の首隗として世紀の審判を受けつつある。

戦時中は、民衆は全く見ざる、聞かざる、云わざるの三猿主義であった。「物云えば唇寒し秋の風」処の沙汰ではない、強烈な圧制である。議会人に中野正剛先生のような剛骨の士が今三、四十人もあってくれたら、負ける戦争にしてももっと立派な負け方があった事と思う。特に「太平洋の橋」と自任して終生日米親善に尽くされた新渡戸博士、野口博士等々御健在であってくれたらと、今更痛感漢されるものである。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第2回

2007年02月19日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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私の戦後
私が太平洋戦争の終戦(1945年8月15日)を迎えたのは、若山武義氏の戦災日誌(手記)連載開始のブログ解説(「大森町界隈あれこれ(8) 鎮魂!大森町大空襲(第1回)」参照)などに記述の通り、小学(当時の国民学校)の6年生であり遠い親類の栃木県の農家に縁故疎開先でした。学校は夏休み中で、15日の昼に校庭に集まるようにとの召集がかかり、朝礼台のラジオを前に全員が整列して放送を聞きましたが、小型のラジオのため音声が届かず、なんの放送かも分からないまま、解散となり家に戻りました。

当時のラジオは、真空管式の家庭用の四級(並四と呼ばれていた)かせいぜい五~六級までのものしか一般には行渡っておりませんで、電波の伝播も良好でなく雑音も多いため、ラジオ直前にいる20人程度にしか聞こえない代物でした。
終戦を国民に知らせる8月15日の天皇陛下の玉音放送は、14日の御前会議においてポツダム宣言受諾を決定し、大東亜戦争終結の詔書を発布され、これを昭和天皇の肉声によって朗読したものを、録音して15日正午に放送したものです。
玉音放送についての若山武義氏の手記は、「大森町界隈あれこれ(K33) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第4回)」に掲載してありますので、ご参照下さい。

東京に戻っての敗戦直後生活環境
資源も資力もない日本が無知無謀な戦争に突入したため、国民一億が欠乏の危機を迎えることとなり、とにかく食べる物が無く生きるのが精一杯の時代でした。
戦争が終結したので、生活の基盤造りをしていくため、東京には夏休みの間に引き上げてきました。東京に引き上げの国鉄に乗るのも大変で、とにかく品川から京浜電鉄に乗り換え学校裏(現平和島)駅で下車して周囲を眺めると、南北に走る京浜電鉄と京浜国道の沿線にかけては、幅がおよそ500mにわたり入新井2丁目付近から蒲田・六郷までベルト状にバラック建て一つも無く焼け野原(1945年9月撮影の米国陸軍空中写真大森町周辺戦災加工地図(単に地図と称す)、1947年7月9日撮影の大森町上空の航空写真(国土地理院)、六郷橋から第一京浜国道の焼野原参照)で、その悲惨な風景を見て呆然自失で言葉は何も出ませんでした。取り合えずは、元会社事務所建物に4世帯共同住まいでの仮住環境にもぐりこみました。

戦前の居住宅(地図⑨)に近い京浜電鉄大森山谷駅(現大森町駅、地図⑦)や大森第一国民学校(地図⑪)は、1945年4月15日の大森町空襲(「大森町界隈あれこれ(15) 鎮魂!大森町大空襲(第7、8回)」参照)で消失して廃墟となりました。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) マッカーサーの進駐 第2回

物量と能率
試みに京浜国道に暫く立ってて帥覧。進駐軍の巨大な大小幾多の土木機械を装備したブルドーザを初め、異種類のトラックが無数に大地を轟々と揺るがして疾走する。軽快なジープが錯綜して走る。その後を、遠慮しながら、我が国の名物木炭自動車が、あえぎあえぎ遅れまいと走る。荷馬車の挽手は悠然と車に乗って、馬をヒッパタキヒッパタキどなりながら続く。大事な鼻づらを引っぱられた牛が迷惑想なつらして、天平泰平と漫歩する。リヤカー索く人、押すひと、自転車の前後に荷を積んで汗をながして力一杯踏んで走る人。現代戦と云う、洵に彼我戦力相違の縮図である。
本当に物量と能率に完敗したのである。「敵を知り、己を知る、百戦あやうからず」と云う言葉は、戦争中講演に、新聞に、雑誌におなじみの金言である。これでは、あまりにも敵をしらず、己を知らなさ過ぎる。勝つことをのみ知り、負けることを知らなかった、無智なのか。

第三次近衛内閣当時、日米交渉が停頓して悲観すべき時、イギリス、チャーチル首相は議会に演説して曰く、
 「アメリカの製鋼能力九千万屯に対し日本の能力一千万屯にすぎず、日本の懸命なる政治家は、よもやアメリカと開戦の愚はなすまい」
と。御自分は対独戦に手一ぱい汗を流しながら、忠告なのか、斯く皮肉ったものである世界の情勢は更に知らず、国内の機微が全然知らぬ我々は、今更死児に薬である。今次の世界大戦は、民主主義と全体主義の戦いであると云う。其の勝敗を決定したものは速度と生産力である。貧弱な資源しか持たぬ国、全体主義のイタリヤ、ドイツ、日本は完敗したのである。

機械力と精神力
総て物量と機械力にのみたよるアメリカと、二・二が五の精神力で必ず勝つと自信せし処に、我が軍閥の、あまりにも重大なる誤算をなしたのであろう。それは、個々の業績に就いてなら、明治開国以来、先人のたゆまざる努力により、敢えてアメリカに遜色のないものの多々ある事も真実であろう。個対個の戦なら絶対負けない処であろう。我々に宮本武蔵あり、荒木又右ェ門あり、三四郎あり、日の丸弁当に竹槍三千本の勇将あり、我々と雖も物干し竿でB29を叩きおとす位の気概なきにしもあらずであった。然し全体の総和となると其の水準が遥かに及ばぬものあまりにも多き事を。
アメリカの兵隊さんは全部自動車を運転し、且つ故障は自ら修繕し得る。我が兵隊さん百人に自動車運転の出来る人果たして何人あるであろうか、更に満足な修繕の出来る人ありやなしだ。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第1回

2007年02月12日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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悲惨な太平洋戦争
今から62年前の3月10日の未明には、太平洋戦争による東京大空襲により、B29爆撃機約300機による低空絨緞爆撃による焼夷弾1,700トン、爆弾6個による2時間半にわたる爆撃で、本所、深川、浅草を中心とした住宅蜜集地の27万個の家屋が焼失し、亡くなった人は10万人を超えた世界史に残る大空襲を受けました。

太平洋戦争での東京の初空襲は、1942年4月18日にB25爆撃機による奇襲攻撃により、39名の犠牲者がでました。それ以来、本格的な1944年11月24日から1945年8月15日(終戦日)に至るまでの、延べ100回に及ぶ焼夷弾を中心とした市街地爆撃により、4月城南、城北、5月山の手、8月八王子と大規模爆撃が進められ市街地は焼け野原となりました。
空襲により、1941年(開戦時)に687万人の東京区部の人口が、終戦時には253万人に激減したとの記録があります(「東京大空襲~あれから61年~(その1)」参照)。

若山武義氏の大空襲体験手記
今日、日本人の10人のうち8人が戦争を知らない世代となり、大森空襲などの戦争の資料も殆ど残っておらず、戦争の悲惨な被害を語り継ぐ人も大変少なくなり、時代とともに風化してきました。私たち年代のものが記憶のうすれないうちに次の世代に伝えておく必要性を感じていた折、私の父と同じ勤務先に勤めておりました、若山 武義さんが1955年に書かれた手記で、大森町大空襲から戦後の混乱期の記録が克明に記述された貴重な資料が、ご遺族の石川様宅に保管されておりました。
この手記を、ご遺族のご好意により本ブログに掲載することとなり、
  1 大森町界隈あれこれ 鎮魂! 大森町大空襲(第1編) 11回連載
  2 大森町界隈あれこれ 手記第2編 戦災日誌中野編 7回連載
  3 大森町界隈あれこれ 手記第3編 戦前戦後目黒にて 9回連載
の戦時編の3編27回に亘り、解説付きで掲載を既に完結(2006年8月31日)しております。

若山武義氏の戦時編の手記で記載の1945年8月15日には、人間殺戮とも言える物量爆撃の低空大空襲、ソ連の参戦、広島・長崎への原子爆弾による洗礼などに抗しきれず、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏を迎えました。
軍部、官部の無知・無謀な大戦により大日本帝国が壊滅し、敗戦を迎えた日本国民は、食うことに精一杯の大変に悲惨な生活を味わらされることになりました。

若山武義氏手記続編「戦後史編」
若山武義氏の手記は、述べ100頁にも及び、8月15日の終戦から後も1946年11月23日まで手記が続けられた、戦後一年余りの一市民が見聞した貴重な敗戦体験記を、掲載させて頂きます。

昭和20年代の史記は、殆ど無しに等しいもので大変に貴重な記録資料であり、史実を知ることも重要なことです。
これから連載をしていく若山武義氏の戦後史手記と、掲載完結の戦後編手記を目にとめられた方は、ご関心をお持ちの方にご紹介して戴ければ、無知で開戦した悲惨な戦争記録を知り、平和の尊さを少しでもご理解願えれば、手記を書かれた若山武義氏とご遺族の方のご意思が活きて参ります。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) マッカーサーの進駐 第1回

進駐軍に学ぶ
マッカーサー元帥は連合国最高司令官と厚木に飛来し、我が本土に一歩を印し
 「メルボルン-東京、其の道は誠に遠かった。」
と。百敗に屈せず、最後の土俵際に踏み止まってから、戦勢攻守地位を変え、連戦連捷、遂に我が国を屈伏、無条件降伏せしめたのである。
我が軍は中国軍と八年の久しきに亘り戦ったけれど、遂に勝つことは出来なかった。マッカーサー元帥の率いるアメリカ軍と二年九ヶ月戦って完敗したのである。

我が山下将軍は、シンガポールを攻略して、入城式はロンドンでやると称して、直ちに戦没勇士の慰霊祭を行うた。これに呼応して、海軍報道部長は「観艦式はニューヨーク沖で」と放送して、我等を迂頂天に嬉しがらせたものだ。
其の当時の我が戦捷の勢いでは、何人も必ず実現するものと信じたのに、無理もなし、今は夢の話である。今や戦に敗れて何が残る。焼け放題焼けて惨憺たる此の帝都の有様を見ただけでも情けない。無謀な戦争をやったものだと悲憤せざるを得ぬもの私一人ではあるまい。

進駐軍アメリカの兵隊さんは総じて明朗闊達、極めて無邪気で、親しみこそ出来るが、負けて悔しいと思う処がさらさらないから不思議だ。何が故に、此の人達相手に、米鬼だの鬼畜だのと罵り、尊い血を流して殺し合わねばならぬ戦争をやった理由がどこにあったのかと、今改めて思わざるを得ない。
其の日常の生活も、物のゆたかな処で育った故か、我々の如きコセコセした処がない。総じて教養の程度も相当距離があるし、形式ばった処がない。仕事は仕事、休息は休息とはっきりする。すべて、社会的亦団体的訓練に洗練された能率であり、徹底した仕事振りである。

彼我の差は効率的機動力
一番驚かされた事は、横浜から厚木までの送油管工事を二日間で仕上げた工事振りである。その周到なる計画と所要物資の豊富、あらゆる機械、器具を自由自在に駆使し、其の無駄のない、最高能力発揮の実行力に驚いたのである。
この工事は、精強を誇った我が工兵さんにしても及び付くまい。況や我がお役所仕事なら、測量だけでも半年、それから書類を作成して、予算がどうの、何がどうので、判コならべるだけでも半ヶ年かかる、三年かかってもどうかと思うと或る人の批評は、我々も尤もと思う。
横浜市が、戦災焼跡整地に、三千人を動員して三日掛りでやっと仕上げた。処が同じ面積の土地を、アメリカの兵隊さんは、只一人で操縦する巨大な機械三台で鼻歌謡い、業卷を衛えながら、押し廻しへし廻し、どんな障害物、焼金庫であらうと何であらうと、メリメリと地下に押し込んで一日仕事、翌日は早速建築だ。一台一人で三千人力である。

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