味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

君子の道は費にして隠なり。

2015-01-21 10:23:47 | ブログ
第2216号 27.01.21(水)
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君子の道は費にして隠なり。『中庸』
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 君子の道は隠れて人目につかぬようだが、実はその働きはきわめて広いものである。156
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 【コメント】荘内南洲会の先生方を君子揃いと呼ぶのでしょうが、我が日本空手道少林流円心会の仲間も荘内南洲会の先生方のお姿を見習い少しでも前へ進みたいと思っています。
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 昨日は鎌倉在住の渡邊五郎三郎先生からご著書が送られてきました。「------広める会」のご挨拶とご報告をお送りしたものですから、それについてのコメントも付されていました。人が何をしようが自由だが、『南洲翁遺訓』は西郷先生の言葉として定着しているから、当該言葉を使うべきではないと記されています。同感です。
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『大学味講』(第54回)
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 〇世間では「人づくり」といいますが、その「人づくり」と「我づくり」とはどう違いますか。
 ”「人づくり」を「人間形成」の意味に用いるならば、「我づくり」は自分自身の「人づくり」となるでありましょう。しかし「人づくり」というと、とかく客観的、対他的のこととなり、他に向って「よい人になれよ」ということに取られがちなので、まず各人が、自分自身を改めていこうという意味で、「我づくり」から始めようというのであります”

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 ”池田勇人氏が総理になった時に、「国づくり政策」と共に「人づくり政策」を打ち出して、一時は「人づくり」ということが、一種のデーム的のものとなったのでしたが、以前から前述のような考えできた私どもには、それがあまりにも政策的、方法的のものとなると、いささか抵抗みたいのものを感じ、まず、総理は総理として、大臣は大臣として、官吏は官吏として、庶民は庶民として、経営者は経営者として、従業員は従業員として、その人その人が、その立場立場に応じて、まず自分自身の「我づくり」から始めようではないか、というのが、「我づくり」を表面的に打ち出した初めだったのです”
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『論語』(第154)
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 子曰はく、束脩を行ふより以上は、吾未だ嘗て誨(おし)ふることなくばあらず。
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 孔子が言うには、人が礼をもって教えを求めに来るならば、わしは今まで一度も教えなかったことはない。
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『農士道』(第38回)
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 此の浮文と瀆武との両者は、共に造化の自然なる運行循環に背くものであって、決して永続し得べきものではない。従って一見其の主張は浮文の方面は如何にも華々しく、瀆武の方面は如何にも壮烈には見ゆるであらうけれども、與に決して健やかなる天行、自然なる造化の流行ではない。遠からずして行き詰まりと破滅との襲ひ来るは止むを得ぬことであろう。
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 斯くて私共は事物、事象にすべて四つの範疇があることを知り得た。即ち造化の収蔵的作用の所産たる「質」と、発現的作用の所産たる「文」と、而して更に其の文的方面が過ぎて生命の本質より離脱せる虚飾の状態たる「浮文」と、其の浮文の反動的作用とも見るべき一切の発現力を抑圧せんとする「瀆武」との四つが是れである。
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 此の四範疇は私の研究の全般を通じての根本原理をなすものであり、随って「農」の本質を亦此の原理より明かにしたいと思ふ私の所念なるが故に、少しく冗長の嫌があるかも知れぬけれども、次節に於て更に具体的の事例を挙げて説述した見たいと思ふ。頁16
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鑑明らかなれば則ち塵垢止まらず。

2015-01-20 10:28:14 | ブログ
第2215号 27.01.20(火)
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鑑明らかなれば則ち塵垢止まらず。『荘子』
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 鏡がきれいになっていれば、そこにはちりあか一つとどまるものではない。
 心をよく磨いて美しくしていれば、そこにはきたない考えは宿らない。350

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 【コメント】一日がアッという間に過ぎ去ってしまい、大したことも出来ない自分に自責の念にかられています。
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 ただ先哲・菅原兵治先生の『大学味講』等々をご紹介できることは喜びのひとつでございます。
 先日、京都大学・中西輝政名誉教授の『救国の政治家、亡国の政治家』を購入し拝読しています。およろしかったら購入しお読みになられたら如何でしょう。

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 政治家の皆さんもそれなりの愛国心はあると思うのですが、選択をあやまったら取り返しのつかないことになることだってあると思います。平和であるからこそ、学ばなければならないと思います。この平和を続けるためにも、今こそ学ぶ必要があると思います。
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『大学味講』(第53回)
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   参考 我づくり問答  
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 この「我づくり問答」は、幹部研修会の際の対話の問から拾ったものですが、大学の「天子より庶人に至るまで、壱是に皆身を修むるを以て本となす」の事上応用ともいうべきものと思われますので、ここに引用して参考とすることと致します。
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 〇”我づくり”とはどういうことですか。
 ”「物づくり」「金づくり」----そのための「設備づくり」「組織づくり」そして「イデオロギーづくり」「法律づくり」等々、いろいろの「つくり」がありますが、それらの根底として、自分をよりよき自分にするための努力をすることです”

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『論語』(第153)
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 子曰はく、道に志し、徳に拠り、仁に依り、藝に遊ぶ。
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 孔子がいうには、人の道を学ぶことに心を向け、学んだ所を體得しわが徳として堅くこれを守り、諸徳の総合たる仁に至ってこれに安んじ、時に文芸をたしなんで気を養い心を豊かにする。これが学問の順序というものである。
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 ここのところは、ブログ第2005号 26.06.23にも発信しています。
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『農士道』(第37回)
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 今この両者を稲に譬を取って説明せんに、植物は稲に限ったことではないが、花が咲いた時は最も生命の発現した状態であって最も美しい。(稲の花はさほどきれいでもないが、薔薇や牡丹になると此事がよく肯ける。)それで其れを見た人間の我儘は、花の状態を永久に持続せんとする。そして遂には花のみをちょん切って花瓶に飾り、更に稲の花のみでは満足出来ず、終には薔薇の花やら牡丹の花まで瓶中に飾り、而してこの生命の根源より遊離せる花の状態を永久に持続して享楽せんとするに至る。この状態を「浮文」といふのである。
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 さうすると一面に於ては之が反動として、浮文浮華の状態に至るのは畢竟花を咲かせるからである。花さへ咲かせなければ稲の生命は永久に存続するのであらうと思ひ一切の生命の暢達生長を抑圧せんとする-----一切の発芽生長(分化発現)を否定して永久に種子のままにして置こうとするに至る。これ即ち「瀆武」なのである。

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和風慶雲なり。

2015-01-19 09:55:43 | ブログ
第2214号 27.01.19(月)
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和風慶雲なり。『近思録』
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 やわらかな春の風、吉祥をあらわすめでたい雲。それが顔回の温和な立派な人間だ。(程明道のことば)302
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 【コメント】人物を客観的に観察出来た程明道こそ立派な人間だと思います。お互いの長所を観察し、それとなく称え人生に処する心のゆとりがあれば素晴らしいと思います。
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『大学味講』(第52回) 
 (四) さて、このことは、現下の騒然たる政情を直視する時、現下の政治家達が、その努力を単なる選挙対策や、政策論争だけに厚くして、「身を修むる」ことに薄くした結果が、こうなったではないだろうか、といわざるを得ません。
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 「天子より庶人に至るまで、壱是に身を修むるを以て本となす。其の本乱れて、末治まるものはあらず」という大学の聖教は、やはり千古を貫いての大原則であることに、襟を正すものがあるではありませんか。

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 今朝、藤本先生から電話がありました。先ほど「ご挨拶とご報告」をお送りしたものですから。この藤本先生は、大変な勉強家であります。20年前、同じ会社で仕事をしていました。会社で仕事をしていた人で、こういう真面目な方は他にいないようです。
 正当な事象に心から感謝する人もいるかと思うと、反感を持つ人もいるものです。要は何が正当か否かは天がわかっているのです。
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 そのためには日々を誠実に生きる、生き抜くことだと私は思います。だから連日、菅原兵治先生の『大学味講』とか『農士道』をご紹介するために、連日ブログで綴っているのです。

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『論語』(第152)
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 子曰はく、甚だしいかな、吾が衰へたるや。久しいかな、吾復夢に周公を見ざるや。
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 孔子がいうには、わしも甚だしく気力が衰えたものだ。もはや久しく周公を夢に見なくなった。

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『農士道』(第36回)
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 以上によって陰陽文質の関係は明らかになったことと思ふ。然し此処に猶一言付け加えておかねばならぬことは、其の偏であり、過である。即ち文にも質にも其の度を越してしまって造化の本質より逸脱せる状態の現象を見ることである。自然界に於ては此の事が案外少ないが、人間の世界には作為の生活が多い為に、往々にして此の偏過の現象を見ることがあるのである。
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 然らば如何なる偏過を生ずるかといふに、「浮文」と「瀆武」とがそれである。即ち文に偏過すれば「浮文」(若しくは浮華)となり、質に偏過すれば、「瀆武」(若しくは偏武、或は(野)となるのが是れである。

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(註) 前掲論語の用語を以てすれば、文の偏過を「史」となし、質の偏過を「野」となすべきであるが、我が日本に於ては従来武士道に即して最も敬粛に道を究め来たるが故に、其の武士道的な用語を以て、以下「浮文」「瀆武」として用ふるここする。

長を挟まず。貴を挟まず。

2015-01-18 10:17:27 | ブログ
第2213号 27.01.18(日)
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長を挟(さしはさ)まず。貴を挟まず。兄弟を挟まずして友たり。『孟子』 
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 友人の道は、年齢の長幼、身分の高下、兄弟の状況などを意に介してはならない。
 それらを度外視して心で相許すのが交友の道である。125

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 【コメント】空手道場で青少年に空手道を指導しはじめたとしても、対象者が歳を重ね成人してからは、師弟関係ではなく、「友・友人」としておつきあいをするのが賢明なような気が致します。
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 ということは、一個の社会人として対等におつきあいした方がいいと思い、40歳年下であっても「〇〇先生」と呼称するようにしています。何十年経過しても呼び捨てにするようでは、指導者が成長していないように思われるのです。尤も、若くて社会経験が乏しく、世の顰蹙を買うような場合は、適正に正しく厳しく導かなければならないのは当然でありす。

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『大学味講』(第51回)
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 (三) そこで原文ではその次に
 「その厚くする所のもの薄くして、その薄くする所のもの厚きは、未だこれあらざるなり。これを本を知ると謂ふ。これを知の至りと謂ふ」

 といっているのであります。最も厚く取り扱うべきものが「身を修める」ことで、これに対して「家を斉へる」とか「国を治める」とか「天下を平らかにする」とかいうことは、それから自然に発生してくものであるから、力を用いることは薄くてもよいものだ、というのであります。
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 しかしこれは、家や国や天下を軽んずるということとは違う。軽重からいえば、すべて皆重んずべきであるが、力を用いる度合いの厚薄からいうと、身を修めることが最も厚くすべきであるというのであります。しかし事功として外から見えるものは斉家、治国、平天下の事績であるので、往々にしてその面を厚くして、身を修めるという面を薄くしがちなものであるが、それでは、決してうまくいくものではない。
 このことをよくわきまえるのを、「本を知る」といい、「知の至り」というのである、というのであります。
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『論語』(第151)
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 子の燕居、申申如たり。夭夭如たり。
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 孔子が何もせずにひまでおられる時は、いかにものびやかな風で身体はゆったりとしており、顔色はにこにこしている。
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『農士道』(第35回)
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 「中主」のこの陰陽の兩作用がよく循環して健行するが故に、其處に生命の健全なる生長----之を莖に譬えて「宇麻志阿斯訶備比古遅」(うましあしかびひこぢ)(可美莖茅彦遅)が生じ、従って「天常立」(あめのとこたち)(天永久立-----永久に倒れぬ)なる永遠の生命があるのである。故に之を逆にいへば、永遠に健全なる生命を保つ為には、「中主」の分化発現の「高御産霊」(たかみむすび)と、統一収蔵の「神産霊」(かみむすび)との兩作用のせう理を乱さぬことが肝要だということになるわけである。
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 以上は神の御名の意義を謹解したもので、日本精神に於ては、眞理を理論的説得によるよりも、人格それ自體の體験體得によって證吾するを尊ぶが故に、古事記に於てはかかる神徳を有せる別天五神によりて皇国の創成が行はれたことを誌し、従って宇宙人生一切の事物は皆この徳----はたらきによって出来るものなることを教へたものである。別天五神は即ち其の御神徳を有せる神神であらせられるのである。誠にゆかしいではないか。
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遠きを柔らげ邇きを能くす。

2015-01-17 11:27:20 | ブログ
第2212号 27.01.17(土)
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遠きを柔らげ邇きを能くす。『書経』
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 遠隔の地域にいる粗野な人民はこれを柔らげ安んじるよう教化し、中央に近い人民はこれをよくなつかせて、柔順にする。これが政治の要諦である。194
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 【コメント】私は政治家ではありませんが、どんな人にも穏やかに話し、安んじるように一歩下がって臨みたいものです。ただ、先方の戦略だけで来る人は除いていいのではないかと思います。
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 二十代の頃、空手道をしているということで、喧嘩っぱやく不良性があるのではないかと錯覚され、ヤクザの世界にいる人と出会いました。その方は先の解説にある〈粗野な人民〉に該当する人であったのかも知れません。おつきあいしている過程でその後輩の男の人を抱きしめたことがありました。その方は、今まで下げすまされてきたが、世の中にはこういう人もいるのか、と男泣きになきました。
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 どんな人間にも良心はあると思います。出来るだけ敵にまわさず、親切心で対応したいものです。

 今朝の学問館は遠く吉野分校からも馳せ参じてくださいました。話題は主に教育論でした。人間社会はそれぞれ利害が絡むものですが、そこに社会性・教育性がなければならないと考えます。多くの人が反感を抱かず、納得するということは、天の理だと私は思っています。そういう人には天は制裁はしないと思うようになりました。仲よく譲り合いながら、勤勉な日々でありたいものです。まかりまちがってもギャンブルはしない方がいいと思います。とにかく『南洲翁遺訓』を学ぶことです。
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『大学味講』(第50回)
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 その根によって養われた「本」の力によって、生長繁茂していくのが「末」の枝葉であるように、斉家も、治国も、平天下も、その局に当る人の正しい「修身」によって行われるものである、というのであります。
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 それはいささか唯心論的に過ぎるようにも思われるでしょうが、考えてみると、その人の一切の活動は、その人の「身」から発するものであるから----「身」とは、心と体とを統一しているものである----その身が正しく修まっておれば、何事に対しても、正しく認識し、正しく判断し、正しく行動するはずであります。

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『論語』(第150)
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 子曰はく、徳の修まらざる、学の講ぜらる、義を聞いて徙(うつ)る能はざる、不善改むる能はざる、是吾が憂ひなり。
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 孔子がいうには、修養の至らないこと、己の勉むべき学が研究して明らかにならないこと、正しいと知りながらそちらにうつり得ないこと、己の不善を改めることのできないこと。この四つはわしの深く憂うる事柄であり心配していることだ。
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『農士道』(第34回)
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 先づ右に於ける神の御名に用ゐられし語の意義を明らかにする。
 「天御中主」は造化それ自體、-----易の大極----西洋哲学でいふ中心生命ともいふべき存在であって、「中主」とは如何にそれに相応しい名であると思ふ。其の「中主」の分化発現的のはたらきが即ち「高御産霊」であり、統一収蔵的のはたらきが即ち「神産霊」である。

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