味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

長を挟まず。貴を挟まず。

2015-01-18 10:17:27 | ブログ
第2213号 27.01.18(日)
.
長を挟(さしはさ)まず。貴を挟まず。兄弟を挟まずして友たり。『孟子』 
.
 友人の道は、年齢の長幼、身分の高下、兄弟の状況などを意に介してはならない。
 それらを度外視して心で相許すのが交友の道である。125

.
 【コメント】空手道場で青少年に空手道を指導しはじめたとしても、対象者が歳を重ね成人してからは、師弟関係ではなく、「友・友人」としておつきあいをするのが賢明なような気が致します。
.
 ということは、一個の社会人として対等におつきあいした方がいいと思い、40歳年下であっても「〇〇先生」と呼称するようにしています。何十年経過しても呼び捨てにするようでは、指導者が成長していないように思われるのです。尤も、若くて社会経験が乏しく、世の顰蹙を買うような場合は、適正に正しく厳しく導かなければならないのは当然でありす。

--------------------
『大学味講』(第51回)
.
 (三) そこで原文ではその次に
 「その厚くする所のもの薄くして、その薄くする所のもの厚きは、未だこれあらざるなり。これを本を知ると謂ふ。これを知の至りと謂ふ」

 といっているのであります。最も厚く取り扱うべきものが「身を修める」ことで、これに対して「家を斉へる」とか「国を治める」とか「天下を平らかにする」とかいうことは、それから自然に発生してくものであるから、力を用いることは薄くてもよいものだ、というのであります。
.
 しかしこれは、家や国や天下を軽んずるということとは違う。軽重からいえば、すべて皆重んずべきであるが、力を用いる度合いの厚薄からいうと、身を修めることが最も厚くすべきであるというのであります。しかし事功として外から見えるものは斉家、治国、平天下の事績であるので、往々にしてその面を厚くして、身を修めるという面を薄くしがちなものであるが、それでは、決してうまくいくものではない。
 このことをよくわきまえるのを、「本を知る」といい、「知の至り」というのである、というのであります。
------------------
『論語』(第151)
.
 子の燕居、申申如たり。夭夭如たり。
.
 孔子が何もせずにひまでおられる時は、いかにものびやかな風で身体はゆったりとしており、顔色はにこにこしている。
-----------------
『農士道』(第35回)
.
 「中主」のこの陰陽の兩作用がよく循環して健行するが故に、其處に生命の健全なる生長----之を莖に譬えて「宇麻志阿斯訶備比古遅」(うましあしかびひこぢ)(可美莖茅彦遅)が生じ、従って「天常立」(あめのとこたち)(天永久立-----永久に倒れぬ)なる永遠の生命があるのである。故に之を逆にいへば、永遠に健全なる生命を保つ為には、「中主」の分化発現の「高御産霊」(たかみむすび)と、統一収蔵の「神産霊」(かみむすび)との兩作用のせう理を乱さぬことが肝要だということになるわけである。
.
 以上は神の御名の意義を謹解したもので、日本精神に於ては、眞理を理論的説得によるよりも、人格それ自體の體験體得によって證吾するを尊ぶが故に、古事記に於てはかかる神徳を有せる別天五神によりて皇国の創成が行はれたことを誌し、従って宇宙人生一切の事物は皆この徳----はたらきによって出来るものなることを教へたものである。別天五神は即ち其の御神徳を有せる神神であらせられるのである。誠にゆかしいではないか。
------------

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。