のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も、”武士の時代到来”したという、ターニングポイントと言うべき中央での変事「保元の乱」、そちらに続く「平治の乱」についてお送りしております。
これらの合戦によって源氏は没落し、平氏政権が確立することとなるのです。
平安時代末期。
京から東へ下った「源義朝(みなもとの・よしとも)」は鎌倉の亀谷に館を構えて勢力を拡大させておりました。
そちらを引き継いだ嫡男「源義平(みなもとの・よしひら)」は父に負けない武勇を発揮し、上野国の叔父「源義賢」らを見事に討ち取り、”悪源太(あくげんた)”という異名を得たのでした。
久寿二年(1155)
「保元の乱」の前年のことです。
(※ここはややこしいので、↓下記・略系図を眺めながら読むのがいいと思います)
「鳥羽院(※写真)」は美女「待賢門院(たいけんもんいん:藤原璋子)」との間に「崇徳天皇(すとく・てんのう)」を儲けていました。
(※ちなみに、「崇徳天皇」は”実は「白河院」との子である”という、あやしげな噂があり、「鳥羽院」はことさら彼を嫌っていたという説があります)
彼は影響力を発揮した「白河院」によって、「崇徳天皇」へ譲位させられました。
しかし、ほどなくして没した「白河院」に代わって実権を握ると、今度は「崇徳天皇」の周囲は厳しくなり、ついに「鳥羽院」によって退位させられてしまうのでした。
こうして「鳥羽院」は”類まれな美貌の持ち主”と伝わる「美福門院(びふくもんいん:藤原得子)」との子「近衛天皇」を即位させるのです。
その「近衛天皇」ですが、わずか十七歳にして亡くなってしまいました。
この予想外な早世を切っ掛けとして、権力に魅入られた者たちがわさわさと騒ぎ出すのです。
【 おまけ 天皇 略系図 (※↓:子、-:兄弟) 】
白河(72)
↓
堀河(73)
↓
★鳥羽(74)
↓
★崇徳(75)--★後白河(77)-★近衛(76)
↓ ↓
重仁親王 ★二条(78)-以仁王-高倉(80)
↓ ↓
六条(79) 安徳(81)-後鳥羽(82)
さて、亡くなった「近衛天皇」はまだ子供がおりません。
先代「崇徳院」としては、当然ながら我が子「重仁親王」への即位を望んでおりました。
また、「鳥羽院」の妃「美福門院」は自らが養育していた「守仁親王(二条天皇)」を天皇に…、と強く推していました。
しかし、「後白河天皇」の乳父「藤原道憲」は摂関家「藤原忠通」と共に彼を強く推し、結果「待賢門院」との間に生まれていた「後白河」が即位たのです。
無理やりに退位させられた上、息子を即位させられなかった「崇徳院」としては面白い訳がありません。
このため、崇徳・後白河という2人は兄弟ながら反目しあうこととなってしまうのでした。
⇒ つづく。
次回は「二派に分裂した朝廷・源平」(4/10)
[関連記事] 【室町時代セット】
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
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⇒ 続・室町時代 地方政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 南北朝時代の若き英雄 「北畠顕家」(1 2 3 4 5)
⇒ 父の背中を追う英雄 「楠木正行」(前編 中編 後編
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[1 2 3 4 5 6]
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※結局、天皇家も武士も、勢力というのは内部分裂から崩壊していくんですねー。
譲り合いの精神が大切です。
本日も、”武士の時代到来”したという、ターニングポイントと言うべき中央での変事「保元の乱」、そちらに続く「平治の乱」についてお送りしております。
これらの合戦によって源氏は没落し、平氏政権が確立することとなるのです。
平安時代末期。
京から東へ下った「源義朝(みなもとの・よしとも)」は鎌倉の亀谷に館を構えて勢力を拡大させておりました。
そちらを引き継いだ嫡男「源義平(みなもとの・よしひら)」は父に負けない武勇を発揮し、上野国の叔父「源義賢」らを見事に討ち取り、”悪源太(あくげんた)”という異名を得たのでした。
久寿二年(1155)
「保元の乱」の前年のことです。
(※ここはややこしいので、↓下記・略系図を眺めながら読むのがいいと思います)
「鳥羽院(※写真)」は美女「待賢門院(たいけんもんいん:藤原璋子)」との間に「崇徳天皇(すとく・てんのう)」を儲けていました。
(※ちなみに、「崇徳天皇」は”実は「白河院」との子である”という、あやしげな噂があり、「鳥羽院」はことさら彼を嫌っていたという説があります)
彼は影響力を発揮した「白河院」によって、「崇徳天皇」へ譲位させられました。
しかし、ほどなくして没した「白河院」に代わって実権を握ると、今度は「崇徳天皇」の周囲は厳しくなり、ついに「鳥羽院」によって退位させられてしまうのでした。
こうして「鳥羽院」は”類まれな美貌の持ち主”と伝わる「美福門院(びふくもんいん:藤原得子)」との子「近衛天皇」を即位させるのです。
その「近衛天皇」ですが、わずか十七歳にして亡くなってしまいました。
この予想外な早世を切っ掛けとして、権力に魅入られた者たちがわさわさと騒ぎ出すのです。
【 おまけ 天皇 略系図 (※↓:子、-:兄弟) 】
白河(72)
↓
堀河(73)
↓
★鳥羽(74)
↓
★崇徳(75)--★後白河(77)-★近衛(76)
↓ ↓
重仁親王 ★二条(78)-以仁王-高倉(80)
↓ ↓
六条(79) 安徳(81)-後鳥羽(82)
さて、亡くなった「近衛天皇」はまだ子供がおりません。
先代「崇徳院」としては、当然ながら我が子「重仁親王」への即位を望んでおりました。
また、「鳥羽院」の妃「美福門院」は自らが養育していた「守仁親王(二条天皇)」を天皇に…、と強く推していました。
しかし、「後白河天皇」の乳父「藤原道憲」は摂関家「藤原忠通」と共に彼を強く推し、結果「待賢門院」との間に生まれていた「後白河」が即位たのです。
無理やりに退位させられた上、息子を即位させられなかった「崇徳院」としては面白い訳がありません。
このため、崇徳・後白河という2人は兄弟ながら反目しあうこととなってしまうのでした。
⇒ つづく。
次回は「二派に分裂した朝廷・源平」(4/10)
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※結局、天皇家も武士も、勢力というのは内部分裂から崩壊していくんですねー。
譲り合いの精神が大切です。