お寺さんぽ Ver.03

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人呼んで”悪源太”こと「源義平」 (保元の乱、平治の乱)2

2008年12月07日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も、”武士の時代到来”という、ターニングポイントと言うべき中央での変事「保元の乱」、そちらに続く「平治の乱」についてお送りしております。
これらの合戦によって源氏は没落し、平氏政権が確立することとなるのです。

平安時代末期。
河内源氏の棟梁「源為義(みなもとの・ためよし)」の嫡男「源義朝(みなもとの・よしとも)」
京から東へと下った義朝は鎌倉の亀谷に館を構え、勢力を拡大させておりました。
こうして河内源氏の本拠地は鎌倉になっていったのです。


仁平三年(1153)
義朝は東国を嫡男「源義平(みなもとの・よしひら)」に任せて上洛。
さっそく”従五位下・下野守”へ任ぜられ、これによって父為義の官位を超えております。
関東に残った義平は、なんと当時まだ十三歳の若武者でした。
”体格雄偉で不敵な面構え”だったと伝わっています。


久寿二年(1155) [大蔵館合戦]
父義朝の上洛から二年後。
早くもその真価を問われる事態が発生しております。

さて、「源為義」の次男「源義賢(みなもとの・よしかた)」も関東へ下り、上野国多胡郡を地盤としておりました。
(※義賢は後に上洛する「木曾義仲」の父です)
これは、義朝と不仲であった為義の指示であると伝わっています。
…邪魔させるため、わざわざ関東へ送ったのです。
どんだけこの親子は仲悪いんだ、と(笑)

ともかく、こうした経緯で上野国に入った義賢は武蔵北部に勢力を持っていた豪族「秩父重隆(ちちぶ・しげたか)」の養子となり、その武士団をとりこんで武蔵国の南部へと侵攻しておりました。
一方の義平も相模から武蔵へと進出していたため、当然お互いの勢力は衝突することとなってしまうのです。

こうして発生したのが、義平の武名を轟かせることとなる「大蔵館合戦」なのです。

合戦の詳細についてほぼ不明。
当時からの歴史書「平家物語」、「吾妻鏡」には、
”故左馬頭義朝が一男悪源太義平が為に大蔵の館にて義賢重隆共に被討ちにけり…”
などと、簡潔に記されておりました。

おそらくは合戦となるよりも迅速に大蔵館を急襲した義平が、あっという間に二人を討ち取ってしまったのでしょう

ともかく、ここで「源義賢」、「秩父重隆」の両名は討死。
その当時ニ、三歳だった「駒王丸(木曾義仲)」は信濃国へ逃れ、「中原兼遠(なかはらの・かねとお)」の元で成長することとなるのです。

まだ無名であった十五歳の義平。
一日にして叔父らを敗死させたことによって、義平は”悪源太(あくげんた)”と呼ばれて部名を轟かせるのでした
なお、「悪」は悪いというよりも”強い”というイメージで用いられています。

この戦の後、敗死した義賢と”父子之約”を結んでいた、弟「源頼賢(みなもとの・よりかた)」は仇討ちをするべく信濃国へ入り、鳥羽院領を占領しましたが、義朝へ討伐の院宣が発せられたため退いております。

このように、源氏同士でも争うようになっていた当時の情勢。
「大蔵館合戦」の翌年に起こったのが、「保元の乱(ほうげんのらん)」なのでした。

⇒ つづく。
  次回は「欲望渦巻く天皇家」(3/10)


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