行雲流水

ボランティア活動を中心に記録する

ツバキに思う

2020-02-24 16:35:16 | 日記
 実家からもらったツバキが毎年花を咲かせている。
昭和43年神奈川県川崎に勤務していたころ、同僚と春休み伊豆大島を訪れ、都はるみさんの「あんこ椿は恋の花」♪を懐かしく思い出す。三日おくれの便りをのせて 船が行く行く波浮港
いくら好きでもあなたは遠い 波の彼方へ云ったきり・・・
 きへんに春と書く「椿」は、春を代表する花で、青森を北限として各地に自生するとある。花が咲き終わると花弁がそのままの形で落ちるので、首が落ちる様子と似ていると言って嫌う人もいるとか。
 拙宅の椿は斑入りで単色の白・赤が1~2輪咲くことがあり、今年がその状態なっている(写真)
もともとは山野に自生するヤブツバキから改良されたものであろうから、元の遺伝子がよみがえるのかもしれない。
 人間の社会では、違ったものが生じるといじめたり、ハネにしたりしがちだが、何人も色の違う花には慈しみを感じるように、決して同じであることが絶対ではない。互いに認め合うことをしていかないと争いがおこり、憎しみにつながることになる。

KOI PLACE

2020-02-22 15:28:07 | 日記
 新己斐橋の西詰に昭和39年(1964)広電会館が開店した。広電興産がデパート形式のショッピングセンターとしてスタートさせた。己斐地区の新しい商業拠点としての基礎ができた。地上5階、地下1階で広電興産直売売り場は、地下1階と地上2階の1,400平米、残りの部分は市内の小売店・問屋等に貸して、総工費3億1千万円の大型投資だったようだ。広電興産の直営部分はセルフサービス方式、大資本によるスーパーマーケット経営だった。
 本業の広島電鉄は、市内線と宮島線が1962年直通運転を開始し益々郊外からの通勤・通学者や買い物に便利になっていった。1960年に荒手(草津南)へ移転するまでは、己斐に宮島線車両の車庫があった。
 一方広電会館の方は半世紀55年が過ぎて老朽化し平成の最後をもって解体、更地になり、跡地にKOI PLACEが本日オープンした(写真)。
 将来アストラムラインが己斐まで延伸された暁には、この跡地も再び商業用地として再構築される見通しのようだ。

雨水

2020-02-19 11:12:35 | 日記
 2年前のブログ記事をなぞりながら写真は新しくアップした。数年ぶりの厳寒を送り、24節気の雨水を迎えたと記録しているが、今年は何と暖冬で昨日約2か月遅れで初冠雪を気象台が発表した。廿日市の極楽寺山の冠雪で見定めるそうだ。平地でも拙宅周り屋根や植え込みなどに薄く雪化粧した。気温もこの冬一番冷えて昨日・今朝と窓の結露がすごかった。
 2年前、庭のナンテンの実がヒヨに丸裸にされたが、正月花と一緒に下駄箱の上に飾ってあったナンテンを外に出して蝋梅の木に結んでやった(写真)。さっそく目ざといヒヨが飛んできて一粒ついばみ様子が違うからか「ろうばい」して飛び去った。今年も同じように外に出してやると色のいい実から3/4がなくなり黒みがかった1/4の実がまだ残っている。
 雨水とは今まで雪が降ったり、凍っていた気がゆるんで水分が雨となって降るようになるという意味。立春の後15日目にあたり、次の節気の啓蟄(けいちつ)に続く。「鴻雁(こうがん)北行・草木萌動(ほうどう)」するものとされ、このころから農耕の準備に力が入る。

市内巡り

2020-02-15 20:17:12 | 日記
 午後、旧日本銀行広島支店へ被爆樹木写真展に出かけた。己斐で宇品線に乗り換えたが、旧広電ビルの跡地がミニ公園に改修されていた(写真) 2020/2/22にオープンイベントがあるらしい 旧広島市民球場跡地を電車内から見通すと、春に広島花の祭典がこの地で開催される予定で着々と準備が進んでいる様子だった。袋町電停で下車して旧日銀広島支店に入って被爆樹木の写真を見学、当方広島市立比治山小学校卒業で校庭に大きな被爆柳があるが、写真には登録されていなかった。
 その後歩いて広島県民文化センターへ移動、本日のメインイベント広島市西区市民公開講座14:30~16:30「高齢社会におけるわが町の地域包括ケアシステム」の講演を拝聴した。事前に朝日新聞広告からはがきで聴講券をゲットしていた。
 昨年11月百寿の母を失ったばかりなので、いろいろ考えさせられる場面があった。父は12年前96歳で千の風になり両親からいただいた命を大切に生きていきたい。
 

これも終活の一環

2020-02-11 11:18:33 | 日記
 妻が免許返納を決意したらしく、年末の法事で兄弟たちに予告していた。昨日一緒に洗車した(写真)。そして本日午後に三菱自動車へ車を返し査定してもらうらしい。追って免許返還の手続きをしてゴールする。
 戦後、高度経済成長期に3C(カー・カラーテレビ・クーラー)ともてはやされて久しいが、拙宅にはいまだクーラーはない、冬はコタツと石油ストーブ、夏はうちわ約20本がスタンバイしている。なので残りの終活はうちわのみで苦労なしになった。
 大崎上島で結婚した当時は車はなかった。当方は広島で中古の自転車を購入、呉線に沿って安芸津からフェリーで島に乗って帰った。大学入学して夏休みに友人と2人で九州へ自転車旅行を1週間しているので屁の河童だった。定年退職後に妻の運転で島めぐり、三原に上陸して山陽自動車道で懐古してきた。
 さて、これから困るのは日々の買い物で、今はまだ歩けるのでリュックサック・カートを駆使してカバーしていく覚悟だ。