行雲流水

ボランティア活動を中心に記録する

朝日新聞 天声人語より

2021-12-30 17:40:18 | 日記
 JR新宿駅の東口にきのう、長蛇の列ができていた。PCR検査を受けようと数十人が寒風に耐えつつ順番を待っている。子供ずれもいれば、スーツケースを ひいて帰省直前とおぼしき人もいた。重症化しにくいのに感染しやすいといわれる変異株オミクロン。この冬こそは当方も帰省する心づもりでいたのだが、市中感染が広がり、先週あたりから迷いが生じてきた。思えばおととしの12月は幸せだった。忘年会は2軒目、3軒目へと続き、肩寄せ合ってカラオケも。帰省の新幹線は超満員だった。「3密」「クラスター」などという言葉を聞くことはなかった。去年の師走は一転、ピリピリとした緊張感が列島を包んだ。目を疑うほどのペースで感染者が増え、県外ナンバーの車は警戒の視線を浴びた。「頼むから帰ってこないで」。実家の老親にそういわれて私も帰省をあきらめた。「寒き雨まれまれに降りはやりかぜ衰えぬ長崎の年暮れむとす」。スペイン風邪が猛威をふるった大正8(1919)年の暮れ、赴任先の長崎で斎藤茂吉が作った歌である。師走になっても感染が衰えず、寒い雨を心細く見やる歌人の姿が浮かぶ。慎重を期して息子にも歳末の外出を禁じるが、その茂吉自身、年明け早々に発症してしまう。いつの世もウイルスには万全の予防策を見出したいものである。きょう小晦日(こつごもり)。空路や陸路、鉄路は里帰りの人で込み合うだろう。来年こそ検査や接種に心惑うことなき歳末を迎えたいものである。

冬至

2021-12-22 12:00:00 | 日記
 NHK朝の天気予報で、気象予報士の勝丸恭子さんが「ん」の付く物を食べたらいいと話され、アナウンサーの志賀さんが「れんこん」が最高と突っ込まれた。拙宅の冷蔵庫には、「ニンジン」「大根」「南瓜(カボチャ)」がスタンバイしており、妻はかぼちゃの煮物をもくろんでいるようだ。
 1年で最も太陽の高さが低くなり、昼の時間が最も短くなる。次第に寒さは厳しくなるが、太陽の復活の時と捉える。太陽はこの日、南回帰線の真上にあり、北半球の温帯地方では太陽高度が最も低い。東京では、南中高度約31度、昼間の時間は9時間45分である。冬至粥(かゆ)・冬至南瓜(かぼちゃ)・冬至蒟蒻(こんにゃく)などを食べる習わしは珍しくなった。
 野菜類を冬の祭りに供えることに起源をもつ、柚子(ゆず)湯に入れば無病息災、粥や南瓜を食べれば中風よけになると伝えられている。ここ何日か、午後5時ころにはカーテンを閉めて電灯をつけている。今日を境に少しづつだが日没が遅くなって、昼間の時間が長くなっていくのが楽しみだ。

今年最後のハザイ教室

2021-12-11 16:25:57 | 日記
 先月11月13日のハザイ教室であった親子さんと再び会った。本日は6家族11名の参加者で、ボランティアも当方を含めて5名が参集した。あ日からここ1か月ずっとボランティアの堀江さんにお会いできず淋しい限りだ。代わりに森さんが最近元気に顔を見せられる、ボランティアは5人がそろった。当方前回はドールハウスを手伝ったが、今日は6歳になった姉のビー玉迷路づくりと、4歳の妹のドングリ公園を手伝った。同
センターの庭でお母さんと集めたドングリもふんだんに使用した。
 妹はすずちゃんと初めて名前を知った。活発な子で、椅子から落ちたり、作品を持ち上げて壊したりショックを受けている様子だった。
 終了後、子どもたちはクリスマスプレゼントを講師の三上先生からもらって嬉しそうにしていた。
 行きかえり、廿日市漁港をのぞきダイサギ・シラサギ・カワウなど港にピンピン跳ねるいわしを補食する姿を見た。
午後は小春日和で歩くだけでも汗ばんだ。

大雪

2021-12-07 09:37:52 | 日記
 24節気の大雪なのに日中は17℃くらいに気温が上がる予報だ。小雪と冬至の間で、本来なら雪が降るころと言われている。陰暦で11月の節。太陽暦では12月7日ころに当たる。大雪とは陰気が積んで、雪となりその様がいっそうはなばなしくなるという意味で、雪が激しく降り積もった大雪のこと。
 東京の新72候では、「猫柳出る、長春(キンセンカの別称)は咲く、南天実赤し」としている。
 日暮れが早く、1日はあっという間に過ぎていく。富士山も雪化粧して真っ白になるころ。生き物たちは冬ごもりに入り、木々は葉を落
とし見えなかった景色を見せてくれる。
 先日日差しの窓辺で新聞を読んでいると、「ヘタレ虫」が目の前をよぎって見失った。その後妻が2階に拭き掃除で上がってきて、窓ガラスにとまっているのを見つけてティッシュでつかみ取った。もちろんその後の臭さは皆さんご存じの通りです。

ミカンの思い出

2021-12-01 11:19:21 | 日記
 昨日近くの農家さんからミカンを頂いた(写真)。小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」がヒットしていたころ、安芸郡府中町から豊田郡大崎町(現大崎上島町)に嫁いできた。
 私たちは1971年5月、大崎町原田のミカン畑にある一軒家で結婚生活をスタートさせた。秋には妻がミカン農家の摘果アルバイトを頼まれお手伝いに出た。昼食は炊き立てのあったかご飯におかずを皆さんと一緒にいただき幸せだったようだ。結婚前は安田学園で司書の仕事をしていたらしく、重労働の経験がなく迷惑をかけたらしい。
 当時の当方の給料は、49,000円で 家賃は1,500円、米10kg 1,580円、 葉書 14円、食パン 45円、ビール1本135円、お酒1升865円、パーマ2,000円、盆灯ろう280円、広島-倉敷間 630円 の時代でした。
 蛇足、ミカンの収穫ははさみで二度切りをして芯が出てないようにする。他のミカンに傷をつけず腐るのを防ぐ細心の注意がいるそうだ。