行雲流水

ボランティア活動を中心に記録する

沖縄復帰50年

2022-04-30 11:03:13 | 日記
 5月15日に日本復帰から50年を迎える。朝日新聞記事で紹介する。
本土往来にパスポートが必要だった。昭和39年に旅行のため取得したパスポートを新聞記事と一緒に掲載した。沖縄本島を走る現在の国道58号は、戦中戦後に米軍が切り開き「軍用道路1号」と呼ばれた。広い直線道路は、緊急時の滑走路も兼ねていたとされる。車は右側通行で、復帰6年後の1978年に左側通行に替わった。
 甲子園に出発する球児たちもパスポートを手に本土へ渡った。ただ米国に批判的な人物には発行されないこともあったという。一方で米側は統治政策の一環として、米本国への留学制度を創設し50年ころからの約20年間に米国で学んだ約一千人の若者は「米留組」とも呼ばれ、その後の沖縄の政財界を牽引した。
 休日も立法で独自に決まった。61年沖縄戦の終結した日を「慰霊の日」と定めて休日化。65年には本土から17年遅れて「憲法記念日」が休日になっている。
 昭和39年神奈川県川崎市の高津高校に赴任した時の給料は21,400円だった。52$約18,720円で1回目の旅行を楽しんだ。
 

ヤジキタ東京一泊旅

2022-04-22 11:15:46 | 日記
 我々二人とも脚力が衰え不安があった。JTBに相談、新幹線と東京メトロを利用し、美術館2か所とスカイツリーを巡ったが上野動物園はかなわなかった。代わりに浅草を加えて旅を締めくくった。
 新幹線での弁当は「二人羽織」状態で、掴んで口に運ぶ動作が滑稽になった。上野駅そばの三井ガーデンハウスに一泊したが、ルームキー番号を読み違えて作動せず天手古舞し後ろの部屋と間違えていた。
 実は80歳になってから左目の視力が極端に弱くなり焦点が合わない。葉書の文字もまっすぐかけず、テレビの文字も読みにくく勘に頼っている。この度の旅行はスマホで入場券購入と厄介な作業付き、おまけに拙者は半年前のスマホデビューで「豚に真珠」状態だった。東京スカイツリーの切符売り場では係りの方にお願いして入場券をゲットした。展望デッキの高さに驚き、足がすくんだ。開業してすでに10年とかでウイクデーでもあり混雑はなかった。東京メトロはモグラ走行で、地下鉄には景色がない。不忍池や浅草はこれでもかと歩いてきた。

木材センターハザイ教室

2022-04-09 17:21:03 | 日記
 新年度1回目の「はざいでつくろう」が開かれた・久しぶりボランティアの堀江さんに会い、本日は7名のボランティアが集った。男児の参加者が多く、ビー玉迷路や刀づくりが人気だった。拙者は年長女児の箱作りを手伝った。(写真)
 一枚の杉板を4ピースにノコギリで側板を切った。底板と蓋板は自分で探したカラー色のベニヤ板を二つに分け、三角材を蓋のつまみにそれぞれボンドで接着して、釘も打ち付け3点セットで道具の体験をしてもらった。その後はマジックで色塗りを楽しんでいた。拙者も暇に任せ蓋の裏に似顔絵を描いたが気に入らなかったようでマジックで塗りつぶしていた。余計なことをしたとサンドペーパーで削り落とし許してもらった。教室の終わりに寄ってき拙者の手の甲に「きす」をしてくれびっくりした。20年以上長くボランティアをしているが初めての体験で戸惑った。
 行きかえりツバメと葉桜に春風も感じ、日差しが強くジャンバーとベストを脱いで歩いたが、電車内も冷房はまだ入ってなかった。花粉症のため帰宅後はくしゃみの連発だった。

24節気の清明

2022-04-05 16:33:06 | 日記
 72候で楽しむ日本の暮らし 広田千悦子著 角川ソフィア文庫 表紙の中央に一羽のツバメが羽を広げ飛ぶイラストが描かれている。この書物によると、万物潔斎、すべてが清らかでいきいとしてくる頃。染井吉野が盛りを迎え花見で賑わう。沖縄では墓前清明祭を行う。
 数千キロの旅を終えたツバメが日本に到着する頃です。新年度の始まりの緊張も、低く高く舞うツバメの動きにほぐれていきます。子育てをするためにやってくるツバメにまつわる話で古いものは竹取物語に登場する「ツバメの子安貝」ツバメがお礼に巣の中に残しておく貝のことで、安産のお守りです。九州から北上する初鰹に舌鼓を打つ頃。散る花びらにのって疫病がもたらされぬよう行われる鎮花祭が各地で始まります。
 わが町にも3月27日にツバメが来た。今日は井口明神わくわくランドの幼稚園児(年少)が、ピカピカの黄色い帽子に真っ白な半袖シャツの姿で(写真)近くの公園に出かけて行った。自分たちはその足で井口川沿いのアルクへ買い物、桜並み木が春色を添えてくれていた。


半寿

2022-04-01 15:50:07 | 日記
 エプリルフールの今日81歳の誕生日を迎え、初めて「半寿」という祝い言葉を知った。中途半端のようでそんなにうれしいわけではないが、半という字は「八」と「十」と「一」の組み合わせに見えることかららしい。拙宅の庭に咲いた、落ち着きや清らしさのあるシンビジューム(写真)のようにあり続けたい。
 ここに至る三十路から還暦までのランニング記録から
 1971(昭和46)年大崎高校時代30歳に結婚生活をスタート 1974(昭和49)33歳で加計高校へ転勤 体力づくりのためランニングを始めた
 1980(昭和55)10/14香川県小豆島へタートルマラソンのハーフに挑戦 1981(昭和56)40歳で安西高校へ転勤
 1982(昭和57)2/21岡山吉備路マラソン(15km)に挑戦 同年9/2~9/20ヘルペスで安佐市民病院入院
 1984(昭和59)9/8芸北町聖湖一周マラソン13kmに挑戦 1987(昭和62)46歳で井口高校へ転勤 12/11~12/16ホノルルマラソン挑戦
 1990(平成2)10/14岩国基地でマラソン10km 1994(平成6)5/15ひろしまアジア大会マラソンコースを歩くイベントに参加
 1999(平成11)4月多々羅大橋10kmマラソン 2000(平成12)4/22伊能忠敬ウオーク10km 2001(平成13)3/31定年退職 翌日4月1日還暦
その後70歳の古希・77歳の喜寿・80歳の傘寿のハードルをクリアした。