行雲流水

ボランティア活動を中心に記録する

ホノルルマラソン

2022-08-31 10:10:26 | 日記
 JAL雑誌 ウインズ 旅じまん・ペンじまん(APRIL・1988)よーし、やってくるぞ、とハワイ42.195km
 第15回ホノルルマラソンに参加してきました。6年前、ハーフマラソンを完走。3年前、錦帯マラソンは苦しさのあまり棄権。しかし、マラソンの夢は捨てきれず、今回挑戦した次第。
 ハワイには珍しく2日前から大雨。冷たい雨の中、大歓声を浴びながら早朝6時にスタート。折り返し地点までは順調なペースで走りました。しかし後半は足が上がらず、関節や腰も痛み出し、弱音もチラリとのぞく始末。国内のレースなら前回と同じくやめていたでしょう。ところが今回は、ハワイまでお金がかかっています。この一点だけが私をゴールに向かわせ、精根尽き果てながらも11時30分にフィニッシュ。ついに完走しました。
 翌日、足は痛くとも気持ちは晴れ晴れ、楽しいハワイ島観光ができました。帰りの機上では村本みのるさん(マラソンランナー)にお会いでき、ノートにメッセージまでいただき、素晴らしいハワイのたびにピリオドを打ちました。もらった日本航空特製トラベルクロック今も時を刻んでいる。

多々羅大橋マラソン

2022-08-30 09:02:55 | 日記
 4月18日(日)朝から雨、多々羅大橋会場キラキラマラソン参加のため妻付き添いで朝7時出発。広島駅~尾道駅まで臨時列車、そこから生口島までチャーターフェリー1時間10分。列車内で乗船券往復2,000円(島でのバス代含む)。到着後ゲートから会場まで1km歩く。ゲートで付き添い者の集金2,000なり。出発15分前到着、雨・風のためテントが使用できず、屋根付きベンチで着替える。風雨で濡れながらの準備最悪。スタートしてから特に橋の上で向かい風に苦しんだ。62分28秒でゴール。着替えてすぐ帰途へ、フェリーは立ちっぱなしで尾道駅14時過ぎ、遅い昼食をとりその後JRで帰広、17時過ぎ自宅に戻る。19日中国新聞に記事が、開通まであと2週間を切った瀬戸内しまなみ海道(本四連絡橋尾道-今治ルート)を一足先に走ってわたる「キラキラマラソン中国新聞社、広島陸上競技協会主催)が18日、広島、愛媛県境の多々羅大橋であった。風雨にさらされるあいにくの天候だったが、参加者たちは真新しい橋の上で元気に汗をかいた。1999年4月19日中国新聞に写真が出る(右下隅)。

思うようにならぬ事も

2022-08-25 16:20:59 | 日記
 昼過ぎ、廿日市市役所の須崎さんから電話があった。8/27(土)廿日市市木材利用センターの木工教室中止の連絡だった。8月は10日(土)のみ開催できたが、20日と24日の中止は三上敬子先生から連絡があったが、さて27日(土)はどうなるか心配していた。実は廿日市市職員にもコロナ感染者が出て木材センター閉鎖にしているらしい。
 しかしこれだけコロナ患者が激増したのも珍しい。テレビで毎日全国の患者数が発表され驚く、特に高齢者が肺炎を起こして死亡する例が多いそうだ。
 本日午前中拙宅の階段の電球がつかなくなりヤマダ電機へ買いに出かけたが、コロナの影響かお客さんが少ないように感じた。拙宅も30数年が経過しておりあちこちが弱ってきた。
 拙宅より後に建てた方が21年3月に解体され、今年8月にハイカラな今風のお宅にリニューアルされ帰ってこられた。早速書留郵便を受け取っておられた(写真)。

処暑

2022-08-23 10:57:20 | 日記
 個人的には、処女の言葉のほうがずっと早く頭に入り込んだ。処暑は24節気の1つ。立秋と白露の間に位置し、太陽暦では8月23~24日頃に当たる。処暑とは、暑気がやむという意味があり、今まで苦しめられてきた極署のようやく衰える時期に入ることを示す。日本の72候説では、綿の花が開き稲が実るとある。俳句では初秋の季語として用いる。
 当方1987年夏に転居したとき、家の前には井出があって道幅が狭かった。井出が暗渠になり拡幅したのは2005年の夏だった。暗渠の前は、町内会で年に1ど溝掃除をしていた。夏にはキセキレイやトンボもよく見かけた。
 2016年8月23日のブログに、今朝久しぶりにお隣の娘さんに会った。この春大学を卒業され社会人1年生として旅行会社に勤務、女性としてもすっかり魅力的になられた。そして夕方には、こちらも超久しぶり大学2年生の妹さんが帰省、韓国土産を携えて顔を出してくださった。
 あれから6年がたち長女は、結婚が決まり先月アメリカに渡航、妹さんは母校の中・高校の先生として2年前から活躍中だ。

父の終戦

2022-08-15 15:56:42 | 日記
 8月14日12時、天皇陛下の重大放送があるというのて、青島埠頭の山東鉱業の倉庫の事務所にみんな集合して、汗だくで起立して聞いた。玉音は極めて不明瞭で、1億火の玉となって決戦を励まされたようにとった。夕方宿舎に帰って、敗戦の詔勅であると知って石段に腰を下ろして、色々と残念がった話をみんなで交わした。10日も前ごろ宋苦力頭が職場で戦争も「快完了」直ちに終わると言ったことを思い出す。正しい外国の放送ではよくわかっていたことに違いない。
 8月15日教員招集にかかっていたので様々な話をした。第2小学校の校庭に集合したが、即刻解散した。大連に疎開した家族のことなど今後が思いやられる。船の連絡もすっかり止まり、鉄道も不通となる。日本人の新聞社も支那側に接収され、ラジオも殆ど入らず、時々悲観すべきニュースをわずか送るばかりとなる。日本の飲食館、警察もすっかり用をなさず、無警察の生命の危険を感じるようになる。・・・写真は拙宅の網戸にツクツクボウシが止まり家の中から写した。