行雲流水

ボランティア活動を中心に記録する

9月ハザイ教室

2013-09-28 16:02:37 | 日記
 広電廿日市駅そば廿日市市保育園では、運動会をやっており祖父母の後ろ姿もたくさんあった。昭北グランドからは、少年野球の練習か元気な掛け声が聞こえてきた。歩きながら、ヨモギの葉を摘み指先でもみほぐし匂いを嗅ぐと、子どもの頃田舎の祖母宅で食べたヨモギ餅を思い出した。
 木材利用センター月例のハザイ教室は当センター看板教室で、本日も参加者・ボランティアで実習館が一杯だった(写真)。当方、3度目になるか五日市小学校2年生の阿部優樹君の糸のこを手伝い、運動会は10月だと聞いた。妹と一緒お母さんに連れられ1歳にならないはるかちゃんが最年少だった。
 帰り、廿日市港は干潮で入江が富栄養化し、海水が茶色ぽくなっていた、それでも港の奥には色鮮やかなカワセミがいた。12時半過ぎ、廿日市保育園の運動会は終了しており、後片付けをする職員の姿があった。井口に帰ってみて、井口保育園児もそうだったようで体操服で保護者に連れられ帰宅していた。

秋の訪れ

2013-09-25 09:31:47 | 日記
 身近でも秋を感じられるようになった。秋分の日が過ぎ、日暮れが早くなり蒸し暑さから解放され夜も快眠、今年も無事夏を乗り切った。
 先週土曜日、井口高校の体育祭、本日は今度の土・日か井口台中学の方角から予行練習かスピーカ音が聞こえてくる。
 近くには大きな柿の木があって、緑一色で判らなかったが実が色づき始め秋を教えてくれている。また庭には、秋冥菊(しゅうめいぎく)が咲いた(写真)。何年か前に、妻が鉢で購入してきて、その後地植えしたものが今年初めて咲いたらしい。広辞苑には、「キンポウゲ科の多年草、中国原産、我が国の各地で観賞用に栽培。またしばしば野生化している。高さ60~90cm、茎に細毛あり、葉は三枚の小葉からなる複葉。秋、淡紅紫色の菊に似た花を開き、漢名、秋牡丹」とある。
 また、ここ毎日のようにモズの高鳴きが響くようになり、「・・・モズの声、小さい秋、小さい秋みつけた♪♪」など、目と耳で秋が実感できるようになった。

welcomeスティックボード

2013-09-22 16:06:09 | 日記
 広電廿日市駅近くの蓮教寺そばで、お花を抱え墓参りされる方を見かけた。廿日市市木材利用センターの教室は、ボランティア橋口さんが担当された。写真は、ヒマワリをモチーフにし、welcome to my garden と書かれた見本。園児(保護者同伴)~小学生向け、定員15名、10-12時だったが、度々参加の宮園小学校4年生三上雄仁君兄弟と特別参加シニアの女性計3人で教室が始まった。
 作業は、糸のこで飾りをカットするのが主で、4年生の彼はオリジナルでカボチャ(パンプキン)とお化けをセットにした作品を仕上げていた。当方より糸のこを上手に扱いなにも手伝うことは無かった。
 1時間半遅れで、五日市南小学校4年女児が4歳の弟と友達を連れ、それぞれのお母さんと一緒に到着、友人は祇園からだそうで共に初めてで道に迷ったそうだ。12時までお手伝いしたが、あとは講師にお任せ失礼した。帰り山陽女子大近くの田んぼでは、稲穂が出そろい、井口まで戻り空を見上げると真っ白い入道雲がわき上がっており夏の終わりも演出していた。

十五夜の月下美人

2013-09-20 09:29:00 | 日記
 今夏、我が家では月下美人がよく咲いた。1回目は7月15日(月)海の日に2輪が、2回目は8月18日(日)数輪が、そして3回目昨晩9月19日(木)十五夜に4輪が開花した(写真)。いずれも2鉢からで、冬の間は狭い玄関の下駄箱上で越冬した。
 広辞苑には「サボテン科クジャクサボテン類の一品種。茎は平らで葉状、夏の夜、純白大輪の美しく香りのよい花が咲き、4時間くらいでしぼむ」とある。
 2005年夏に初めて開花し、その時は義母がわざわざ拙宅に泊りがけで足を運び、妻と一緒夜遅くまで花を見ながら談笑していた。咲かない年もあったかと思うが、ここ何年か当り続きだ。昨年夏、妻が2ヵ月入院している間も見事に花開き、デジカメからパソコンでプリントアウトし病院で見せた。
 今年は、お陰さまで生の花を一緒に楽しむことができ、十五夜と重なり文字通り月下の花に大満足した。十六夜の今宵も残り6輪がスタンバイしている。

母の足跡

2013-09-18 16:14:28 | 日記
敬老の日の前日、東雲の母を訪ねた。妹が母と一緒に生活見てくれていて、その日用事があると留守番に出向いた。昼もベッドの上でテレビのボリュームをかなり上げてNHKのどじまんを楽しんでいた(写真)。
 母は95歳、大正7年(1918)青島で誕生、昭和元年(1926)青島第一小学校入学、昭和6年(1931)小学校卒業・女学校入学、昭和11年(1936)女学校卒業、トーメン入社。
昭和12年(1937)日中全面戦争で日本へ引き揚げ、昭和13年(1938)再び青島へ、青島の日本人26,719人、昭和15年(1940)結婚。昭和20年(1945)青島の在留邦人引き揚げ開始、夫を残し一家大連へ、昭和22年(1947)三児を連れて引き揚げ最終船で日本へ。
 やっと2月13日の引き揚げ船に乗れるという連絡を貰って支度する。何としても乗船しなければ日本内地に帰ることは不可能、皆、必死。荷物はいらないと言っても、便器と子どもの下着だけは揃えて広場に集合したと自分史に書いている。
 実は、2008年実家が段原再開発で立ち退くことになったが、整理処分した物の中にブリキ製の小型便器があった。