行雲流水

ボランティア活動を中心に記録する

平良(へら)5区子ども会

2011-08-31 15:37:29 | 日記
 平良小学校児童13名と保護者が、午前中夏休み最後の木工工作に木材利用センターへ訪れた。当初は、キットorハザイで申し込みだったが、結局ハザイ教室になった。ウイークディなので事務員とリタイヤー古希組の3名のボランティアで対応した。
 各種キットの場合は、600円~900円とハザイ教室(一人300円)の2倍から3倍の予算を要する。昼食も子ども会で準備されているようで、工作終了後ペットボトルのお茶を貰って、実習室から本館2階のクーラーがきいた研修室に移動していた。
 キットを取りやめた分、予算が飲食に回りなかなか賢明な選択をされた。キットのように図面で順序良く組み立てるのも悪くは無いが、端材の形を利用して創造を巡らせて工作する方が、個々人にあった脳トレーニングには有効かと考える。
 写真は、子ども達の作品を、親の作品も賽銭箱・オブジェなど1~2あるが、一つのテーブルに集めたもので、自動車・ロケット・お家・ルームプレート・車輪付き箱・クワガタなど「みんなちがってみんないい」(金子みすず)だった。

わくわく木工教室

2011-08-27 15:47:23 | 日記
 向井田さよ子先生の教室は、親の同伴不可で子どもの力で工作をさせるコンセプトを常にお持ちだ。昨年実施されたカースライダーに似た玩具で「ジャンプカー」(写真講師の前に写る)は、斜面をジグザグにミニカーが走り下る楽しい作品。
 夏休みに入って、わくわく木工教室は7月23日「引き出し付き小物入れ」についで2回目だ。
 本日の参加者10数人で、作品がらか男児が多く、女児は4名と少なかったが負けずに工作していた。いつもそうだが、材料に講師の心配りが行き届きアシストもしやすい。最初は、ノコギリでレール用の木2本を半分にし、準備された側版を釘で打ちつけた。後半は、背板に両面テープでレールを止め裏から釘で固定、最後に台座をつけて完成「できた」と喜びの声も上がっていた。ミニカーを組立走らせ、作品にデコレーションして楽しむ児童もいた。
 今回若い女性のボランティアさん2名も居られ、従来のスタッフ数名が揃い最も充実した教室だった。夏休み最後の週末汗だくでみんな楽しい半日を過ごしていた。

アニマルカー教室

2011-08-26 14:28:45 | 日記
 6月19日にも、木材利用センターで同じ教室が、同じ講師で開かれている。その日はワニに車輪がついたもので、ブログには「4家族6名の参加者、3家族の皆さんとは顔見知りで、1名のシニア61歳男性は数回会っている。糸のこにはまって度々参加されていたが、前回は体調を壊され入院されたとかキャンセルされず代って奥様が参加されたと話された。」と
 本日のアニマルは、羊で幼児3名、1年生2名、2年生6名、3年生以上数名の参加だった。幼児ほどカット部分が少なく、講師が素材に手を入れ糸のこの作業に難易がついた。結果、相応に体験ができスムースに作業が進行した。軸で車輪をつけているのですこぶる動きがよくみんな喜んでいた。ただ実習室が暑く、扇風機で舞ったほこりが目に入った子も出た。
参加者の中に昨年はつかいち文化ホールで「Little Pianist Contest」に招待してくれた平良小学校5年生の姉・弟を久しぶりに見た。
 写真は、事務員の助けを借り、糸のこで羊をカットする参加児童。

井口鈴が台3丁目子ども会

2011-08-25 15:44:55 | 日記
 鈴が台団地の造成が始まったのは、1967年(昭和42)で、これに伴い桃山が無くなり始め、開発前桃の花の時期はピンクに染まりまさに桃源郷だったらしい。ただ昔は、花が散ったらすぐ害虫を捕るのが子どもの仕事で、桃の実がサクランボ位の大きさになったら袋かけで大忙し、一軒で10人くらい五日市や草津から人手を頼んだと「いのくちばなし」に書いてある。
 本日木材利用センターに数台の保護者の車に分乗し21名の児童が訪れ、夏休み終わりの端材工作を楽しんだ。子ども会は28名の在籍と聞いた。
 男子の刀、女子のミニ棚をはじめ車やゲーム盤など「みんなちがってみんないい」作品を仕上げ1テーブルに集めて集合写真を撮った。
 終了後は、当センターの本館2階の大研修室へ移動して、昼食をするようで食事をしながら本日の思い出をしっかり刻んでくれたら嬉しい。実習館と違ってクーラーがありホッと一息つけたかと思います。

復興の写真展

2011-08-24 15:10:15 | 日記
 午前中、西区商工センターエクセル5階で開催中(8/19~9/19)のイズミ創業50周年記念企画展 復興の記憶 広島戦後の商業史を見に出かけた。チラシのいざないの文書に、それでも笑顔を忘れなかった。焼け野原だった。なにも無かった。広島駅から見えるはずのない似島が見えた。生きていくだけで必死だった。それでも希望は失わなかった。戸板1枚から始めた露店の商い。そこには果てしない夢があった。広島の復興を支えてきた先人たちの その力強い生きざまは 私たちの道標でありつづける。と
 会場は、古い市街地の写真を見ながらここが、あそこが汚なかったと話すおばちゃん連れなど年配の方が目立った。
 写真は、中央卸売市場 1956年(昭和31)で、キャプションには、昭和24年10月県庁跡地の加古町に会場した中央卸売市場 1981年(昭和56)西部開発埋立地(商工センター)に移転するまでの30年間市民の台所を支えたとある。