行雲流水

ボランティア活動を中心に記録する

廿日市市木材利用センター 木工まつり

2015-05-31 17:00:41 | 日記
 2014/5/25 週間予報では雨だったが、予報がずれて好天になった。フリーマーケットも復活し、例年通りの参加・出店でにぎわった。県立宮島工業の男子生徒は木製のミニ汽車に親子連れを試乗させ人気を得ていた。女子生徒は本館2階の大研修室に積み木など木のおもちゃを用意してこちらも大人気だった。
 そして今年も週間天気予報は5月31日(日)当日は雨になっていたが、2日前の予報になって好天晴れマークがついた。雨天決行ではあるが、晴れに越したことはない。道路沿いのフェンスに立てかけての木の競り市の準備が完了していた。
 10時オープニングセレモニーに続いて、今年結成初登場のけん玉女子(会員27名)の有志10数名のパフォーマンスがあり花を添えた。広島市内から参加のシニアもつれの女性や、安芸郡熊野小学校の現職の先生まで年齢差の広い集団で、廿日市市観光協会が窓口になっている。
 今年3年目になる宮島工業高校の生徒も昨年同様、ミニ汽車試乗会と2階の大研修室は同校の木遊隊の「うっどはうす」で生徒と子どもたちが楽しそうに木のおもちゃで遊んでいた。 
 朝日新聞の女性記者が取材に来ていたが、逆フォーカス(写真)するとこんな事初めての経験と恥ずかしそうにしておられた。

小己斐島のその後

2015-05-26 10:43:40 | 日記
 昨年11月16日のブログで、小己斐島の松が一部枯れている写真をUPした。半年ぶりにのぞいてみると枯れていた部分は伐採されていた。
 それ以前に切り倒された松の根は、血管のように島肌に這いつくばっていたが、今やその部分も干からび始め浮き上がり、頂部付近の山肌は下草・コケもなくなりボロボロで「ふけ」のようにはがれてきている。
 後世のために昔海だった証拠に残された親水公園小己斐島は今も干満に合わせ潮が出入りしている。
 梅雨を前に燕が飛来しているが、この島の周りを飛び交い虫を取っているようだった。
 島自体が岩盤で、風化が進行し土壌がないので苗木を植えて再生するのはむつかしく自然に任すしかてがなさそうだ。
 当方あと何年寿命があるか判らないが、残っている松が全滅にならないように祈りながら、足しになるかわからないが記録として追ってみたい。
 すぐそばのグランドでは、元気なお年寄りの仲間がグランドゴルフに興じておられた。

玉串奉奠(たまぐしほうてん)

2015-05-24 09:22:42 | 日記
 昨夕18:00より神式のお通夜に初めて参列した。広島市西区観音南8丁目にある平安祭典広島会場、故人は中区舟入南3丁目の松村光明さんで、両町は天満川を挟み昭和大橋で対峙する。斎主は住吉神社の神主さんで、神社は天満川の東側本川にかかる新住吉橋の東詰にある。この橋は、昭和40年3月6日に開通し市の交通革命の一橋になった。昔神主の娘さんが巫女で活躍中「お言葉少女」として新聞・テレビでもてはやされたことがあり、大人顔負けの丁寧な言葉づかい
が注目された。今も毎年節分祭などで跡を継がれて活躍されている様子をテレビで拝見する。
 式場で、久しぶりに甥の2人に会った。兄は京都から嫁さんの芽(めい)さんと1歳にならない息子の育(いくみ)くんを、弟は年内に結婚する婚約者を連れ、共に初めての対面だった。
 生前二人はおじいちゃんに可愛がられたのであろう、揃って棺の前でたたずんでいた。弟は婚約者をおじいちゃんに紹介することができたと感慨深げにボソッと話してくれた。
 受付で玉串のささげかたイラスト入りのプリントをもらったが、右手左手ともちかえや、しのび手という柏手など頭の中がパニックになった。

初夏の候

2015-05-21 10:46:36 | 日記
 昨日24節季の小満だった午後、広島サンプラザへ中四国家具展示会2015会場をのぞいてみた。出かける時1丁目の畑ミカンの花はもう変色し、背後の鈴ケ峰からホトトギスの鳴き声が聞こえた。「ホトトギスはやも来鳴きて、忍び音もらす、夏は来ぬ♪」と鼻歌で歩を進めた。
 実は会場の一角に、今年のけん玉ワールドカップ廿日市のPRを兼ねてポスターの掲示と製品の販売をするコーナーがあり砂原宏幸さんにエールを送ってきた。この方廿日市市立平良小学校当時けん玉大会を主催され初めてお会いした方、その時もらった初級の部準優勝のレプリカ(平成14.10.20)が今も残る。会場内にご自由にどうぞと家具の端材コーナーがあり数ピースちゃっかりゲットして帰宅した。
 今朝、妻が小春ちゃんとかいう柑橘の種から成長させた鉢植えに3匹の虫がいて殆ど葉っぱを食っていた。アゲハチョウの幼虫で柑橘類の害虫らしい。「毛虫のうち毛のないものを青虫・芋虫と呼ぶ、アゲハチョウ類の幼虫は無毛(写真)、ウスバシロチョウ類は、暗色の細毛があり、ギフチョウ類は全体に黒い毛がある・・」とあった。
 これから農家の方は、雑草・害虫との戦い、また日照りや雨など自然現象への対応大変かと推察する。

谷口 劼(かたし)さんの被爆体験

2015-05-19 16:30:01 | 日記
 昭和20年8月6日(月) 広島県立第2中学4年生(16歳)、弟の勲さんは同じ学校の1年生。この日の朝6時10分己斐の自宅(爆心地から2.4km)を出て歩いて観音の三菱機械工場(爆心地から3.3km~4km)へ、電車など車に乗るには許可が必要だった。戦闘帽をかぶり地下足袋にゲートルを巻いていた。当時工場では人間魚雷のエンジンを作っていて、谷口さんの配属は、鋳物工場で船のスクリューを作っていた。
 8時15分 鋳物をクレーンで吊り下げて作業していた時、ピカッと光った。クレーンがショートしたかと思った。そのあとドカーンとすさまじい轟き音がし、まさに「ピカドン」だったそうだ。工場長の自宅待機の命令が出て同級生と二人で帰宅、途中庚午付近で黒い雨が降り始めずぶぬれになった。自宅は屋根や天井が落ちて誰もいなかった。
 午前11時頃弟勲さんを探しに土橋付近へ、見つからず12時30分近所の2中の生徒を6~7時間かけて背負って帰る。顔・両腕などやけどで何とも言えない異様な臭いだった。
 午後8時ごろ弟勲さんを探しに2回目、土橋(爆心地から700m)の防空壕で見つけ、本人とは判らないくらい顔が膨れやけどをしていた。夜中にやっと連れ戻ったが、8月7日(火)午後4時ごろ亡くなった。弟は中島本町(爆心から500m)方面の家屋疎開作業に出動、多くの生徒・引率教員がその場で即死。
 谷口さんご本人は2回も入市され、2週間後盆を過ぎて髪が抜け始め、ブツブツの斑点ができ、1週間くらい鼻血が出たそうだ。