行雲流水

ボランティア活動を中心に記録する

1か月ぶりのハザイ教室

2022-06-25 17:35:55 | 日記
 前回参加者が3名と少ないから休んでくださいと三上先生から電話があり甘えた。本日は朝から雨の予報だったが曇り空で、ビニール傘を持って出かけた。天気のせいか元気が出ず歩くのに時間がかかり10分遅刻した。
 ボランティアはいつもの方に黒田さんが来ておられ田植えが落ち着かれた様子だ。教室から帰りの電車内から山陽女学園前電停近くの田んぼも青々と成長していた。
 ハザイ作りは、祖母の花台づくりに孫のドールハウスづくりのお手伝いをした。以前お手紙を差し上げた家族で向こうから声をかけてもらった。帰りは雨の中の移動になった、天満宮の旗に夏越の祓(写真)が目についた。いわゆる茅の輪繰りの行事で8の字を描くようにお参りをする。「水無月の夏越の祓ををする人は、千歳の命延というなり」と唱えるのが正式らしい。

夏至

2022-06-21 16:26:46 | 日記
 梅雨の真っただ中にあるが、北半球では太陽の南中高度が1年で最も高くなる。昼の時間が最も長く、夜が最も短くなる。冬至
はこの逆で夜が最も長い。東京では夏至の日の昼間は14時間35分、冬至の頃より4時間50分長い。
 この時節は、曇り空を慰めるかのように、紫陽花が様々に色ずく。拙宅の庭には例年になくくちなしの白い花がたくさん咲いた。そして昨日は近くの農家さんがグラジオラスの花に紫陽花の葉を一緒に束ねて届けて下さった。花瓶は大崎高校時代生徒からプレゼントしてもらったものだ。もらってばかりで誠にかたじけない次第だ。グラジオラスは、アヤメ科グラジオラス属の植物の総称。日本には自生種はなく、園芸植物として植えられている。別名、トウショウブ、オランダショウブ。名前は古代ローマの剣であるグラディウスに由来し、葉が剣に類似している。日本では明治時代に輸入され栽培が開始された。根は湿布薬の材料に使われる。

梅雨の晴れ間

2022-06-18 11:58:27 | 日記
 先週の6月11日(土)梅雨入りを前に井口小学校児童がイモの植栽を済ませていた。昨年は、担任の先生引率・地元の農家さんが指南され苗植えを見学させてもらった。今年は人影ないまま畑が出来上がっていたので確証はなかった。
 しかし本日、お母さんの自転車の前後ろに乗って姉妹が来ていた。手には水を入れたペットボトル1本ずつ持参、畑の畝に撒いていたが実際はほんのお湿り程度の散水、空になった2本のペットペトルをたたいて自転車にまたがって帰っていった。時間にして数分の出来事だったがデジカメに収めた。農業体験が及ぼす教育効果は計り知れないと感じた。
 ペットボトルの効用でもう一席 以前己斐みどり幼稚園に昔あそびで訪問したことがあったが、空のペットボトルに広告でこよりを作り中に入れてマラカスを作ったことがあった。そのこよりを20~30個を封筒に入れて人数分子どもたちにお土産としてあげた。でも迷惑だったかもしれない。

念願かない帰国

2022-06-12 11:39:47 | 日記
 お隣の長女麻由さんは、広島女学院大学の仲間8人と一緒にジョージア州メーコンのWesleyan Callegeへ半年留学、一人残りさらに半年研鑽された。当方年甲斐もなく彼女のブログ「My Experiences in College」のやじ馬になり、大学の行事・クラブ(乗馬)・試験や食事・買い物などの日常生活まで学ばせてもらった。2014/5/18のブログに記した。
 少し時が過ぎて、再びオハイオ州に留学されているとお父さんから聞いた。丁度世界がコロナ禍にあった2019年から3年ぶりに帰国しましたと挨拶が昨日あった。
 2019年12月31日中国武漢市当局が27人の「原因不明の肺炎患者」を出した。いわゆる世界同時の「鎖国」にみまわれ、留学中のみなさん身動きができず、3年間蟄居を強いられることになる。東京オリンピックも1年延期で2021年に、国内行事も次々と中止になり国民もへこんだ。広島県の宮島花火大会は歴史が無くなった。
 皮肉なことにこの間地球がきれいになったと、人の移動が止まり地球が健康になっているのも事実かもしれない。頂いた石鹸でしっかり手洗いを励行したい。ありがとうございました。

路面電車の日

2022-06-10 16:04:05 | 日記
 グリーンムーバーいわゆる低床電車が走って久しい。観音町電停からカーブして平和大通りをさらにカーブして福島町電停、新己斐橋を通り西広島駅に至る。昭和39年(1964)広電会館が開店した。デパート形式のショッピングセンターとしてスタートさせた。広電ビル(会館)は半世紀55年が過ぎて老朽化し平成の最後をもって解体、更地になって跡地にKOI PLACEとして2020/2/22オープンした。(写真)
 昔、観音町から真っすぐに新己斐橋西詰に走行していたようだ。市内電車と宮島線は乗り換えがあり不便だった。市内線と宮島線が1962年直通運転を開始しますます郊外からの通勤・通学ゃ買い物に便利になった。1960年に荒手(草津南)へ移転するまでは己斐に宮島線車両の車庫があった。
 昔の宮島線は車高が高く、プラットホームも高く、低床電車が走行するようになってホームも徐々に改修された。所々のホームに昔の高さが残るそれが残っていた。