毎日のできごとの反省

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書評・技術者たちの敗戦・前間孝則・草思社文庫

2015-04-04 15:42:09 | 軍事技術

 堀越二郎をはじめとする、主として兵器設計に携わった技術者たちの戦中戦後を各章ごとに記述する体裁となっている。

 最も興味深いのはやはり、堀越二郎であった。それは、小生の堀越観をさらに深めてくれるものであり、一般に堀越が伝説的な名設計者であると言う、最近の零戦神話と組み合わさったものと、ほど遠いものである。兵頭二十八氏だったと思うが、現在の日本の零戦神話は、戦後の奥宮正武氏との共著が始まりであったことを指摘しているが、本書も全く同じことを書いている(P41)。

 さらに零戦神話は、戦った米パイロットの語られる零戦の強さによって伝説と化していった。そうすると、堀越はそれまでは、「零戦に対する欠点や自己反省を口にしていた頃とはかなり異なる姿勢をとるようになっていく・・・零戦をポジティブに語る姿が目立つようになった。物静かな紳士であるとともに、技術者として絶対的自信を深めているかのように見受けられた。(P60)というのである。堀越は一貫した信念の持ち主であったように思われているが、実はこのように評判に敏い普通の人物であったのである。

 戦後の飛行機設計技術者として信頼のおける論評をしている、鳥養鶴雄氏は零戦を通じて憧れた堀越にYS11の設計で接して、的外れのクレームをつけられたばかりではなく、「実際に接した堀越さんは、われわれには、この子供たちになにがわかるのか、という態度でほとんどコミュニケーションが成り立ちませんでした」と語る。この印象はYS11に関係した若い設計者全般に共通していて「堀越さんはちょっと冷たくて、近寄りがたいところがある人だった。・・・」(P53)というのである。

 「緻密で融通がきかない職人的スペシャリスト」という項を設けて、「・・・堀越の性格を簡単にいってしまえば、専門性に徹して没入するタイプの、航空機設計の職人的スペシャリストである。・・・自ら集団に溶け込もうとする性格でもなく、・・・自分の世界に閉じこもって思索するタイプだっただけに管理者向きではなかった。」と論評している。戦前一緒に働いた後輩たちは、三菱重工の副社長や三菱自動車の社長まで歴任する人が何人も出たのに、堀越はラインの部長にすらなれず、顧問的立場の技師長どまりだった。

何で読んだか忘れたが、堀越が防大教授をしたときの教え子が、彼の授業は、飛行機の重量軽減のことばかり言い、毎回機体の重量計算ばかりさせていたと書かれていた。しかも、別のものに載せられた二人の証言だから間違いではあるまい。もちろん批判的な言い方ではなかったと記憶している。不思議な授業もあるものである。

 職人的設計者とは堀越について以前から感じていたことである。職人気質というのは、自分自身で物を加工する、ものづくりでは素晴らしい資質であるが、技術者に冠すると間違いなく欠陥があると言っているのに違いない。堀越に限らず、戦前の飛行機設計者は設計技術の多くを欧米の技術に依拠していたにもかかわらず、それについて語ることは極めて少ない。

ところが「堀越さん自身、米極東軍がおぜん立てしていた戦前の航空技術者のあつまりでは、零戦の欠点や欧米機の真似をしたことを正直に吐露していたりした。」(P38)というのだから驚く。著書の零戦では日本の基礎工業技術力や海軍の航空行政については辛辣な批判を展開しているものの、米軍による会合で述べたであろうことは書かれていない。

また、米軍が零戦の空戦性能を高く評価していた、というのだが、ある証言によると朝鮮戦争で来日した第二次大戦時の米パイロットに、零戦と同じ空冷星型で低翼単葉樹の写真を見せると、零戦以外でも全て「零戦だ」といったと言う。(P38)これは案外知られていることで、隼などの陸軍機についても、米軍の専門の技術者はともかく、米軍の現場のパイロットは大戦初期にはけっこう苦しめられていて、これを一羽ひとからげに、「零戦」として恐れていたのである。

また大本営は昭和十九年秋に、大本営が「海軍・零式戦闘機」として国民に広くアピールした(P35)というのだが、陸軍の一式戦闘機などは早くから「隼」の呼称が宣伝され、飛行六十四戦隊歌、いわゆる加藤隼戦闘隊の歌や、昭和十九年に公開された映画「加藤隼戦闘隊」で実機を使った空戦シーンなどもある名画で、戦時中から国民の知名度は、零戦に比べ、遥かに高かった。意外でもないが、海軍は一般的には秘密主義で、広報に関しては陸軍の方がよほど積極的であった。


書評・大平洋戦争 最後の証言 第一部 零戦・特攻編 門田隆将

2015-04-02 15:11:50 | 大東亜戦争

 タイトルからして「太平洋戦争」は気に入らないが、仕方ない。目についたエピソードだけピックアップしていく。真珠湾とミッドウェーで戦った艦攻乗りの前田は「・・・山本長官の部下から聞いたんですよ。艦攻は何があっても、魚雷をおろして爆弾を積みかえるのは禁止する、とまで山本長官は厳命していたことも聞きました。出航する時の打ち合わせでも、赤城と加賀の二隻は絶対に魚雷攻撃以外を考えちゃいかんと、言われていた。・・・」(P65)として兵装転換の責任は源田参謀と南雲長官にある、と言うのだ。

 これは眉唾ものである。これによれば、赤城と加賀が対艦戦闘専用で、飛龍と蒼龍は地上攻撃専用と言うことになる。赤城と加賀は、陸上攻撃禁止だというのだ。左近允氏のミッドウェー海戦では、運命の五分間の嘘を明白にしているが、南雲長官は連合艦隊司令部から半数の艦上機は敵艦隊に対する攻撃に備えよと指示されていたと、この説と似たような見解である。一般的にもこの説が流布されているが、この説を裏付ける証拠はない。

元々山本長官がミッドウェー攻撃に執着したのは、ホーネットによる本土空襲に狼狽して、こんなことがないようにハワイ占領の前哨戦としたかったからである。つまり敵空母撃滅はおまけであって、本命はミッドウェーの占領であった。あたかも米空母を釣りだすために、ミッドウェー攻略を企画したごとくに言うものがいるが、空母を釣りだす陽動作戦に、これだけの攻略部隊まで編成すると言うのは、本末転倒である。

そもそも、米空母が出てくるから、半数を対艦攻撃装備にしておく、という発想がおかしい。米空母の攻撃に備えるばかりでなく、あり得る米海軍の上陸作戦阻止攻撃に備える、ということのはずである。つまり上陸作戦を成功させるために、あらゆる敵艦隊や陸上部隊の反撃に備えると言うことである。連合艦隊司令部の米空母に備えよ、という指示は、従来の艦隊決戦の発想に囚われていて、上陸作戦と言う目的を忘れている。少なくとも日露戦争までの日本海軍は、そのような間違いはなかった。

前田氏は、海兵出身の偵察機が、利根機より先に米艦爆と空中戦をしているのに、報告していないと言う怠慢をしたのに、利根の索敵機のミスにされているのは、海兵に責任を負わさずに、利根の甲飛出身のせいにしたのだ(P66)としているのは、あり得る。どうも海軍のエリートの保身には、あきれる他ない。その上、この海兵出身者は戦後海自で出世しているというのだから。旧海軍のエリート幹部には、国なくして海軍があるのである。

特攻隊の嫌なエピソード。葉桜隊は、全機が体当たりに成功すると言う戦果を挙げたが、命令した中島飛校長以下の士官たちが、その夜、西洋館でビールを開けて大宴会をしていた(P121)というのだ。特攻は必要であったとしても、大西長官のように特攻は「統帥の外道」という苦悩すらない。

その反対に、鹿屋にいた岡村司令は、たとえ1機でも、出撃の別杯式の時は必ずやって来るが、他の士官や指揮官は誰も来なかったという(P196)。戦後岡村は、鹿屋から沖縄の基地をずっと回り、海に花束を投げて慰霊していたが、終わると千葉の自宅近くで鉄道自殺をとげたという。せめてこういう話は救われる気がする。

この証言をした長浜氏は、桜花を積んだ1式陸攻で出撃した。(P190)直援機がいないからグラマンにすぐ襲われ、次々と機銃弾が命中するが墜落しない。図体が大きい1式陸攻だから耐えられるが、小さな零戦ならバラバラにっなっていたろうという。出直すために桜花を投下するが、グラマンに攻撃され、ようやく基地に帰投した。このエピソードから分かるのは、1式陸攻のタフさである。発火さえしなければ、簡単に堕ちないのである。

パイロットの角田は、零戦に乗り換えたときの感想で「・・・支那事変当時の九六式艦上戦闘機の場合は、お互いの飛行機同士や、それから母艦、戦艦、巡洋艦あたりとも交信できました。でも、零戦になってから一回も通信できなかったですね。これはうちばかりではなくて、どこの部隊でも、そうだったようです。(P134)」というのは実に不思議な話である。何せ新型機の無線機の性能が旧型機より相当悪化したと言うのだから。