この本を読んだきっかけは、ある本で米内光正・山本五十六・井上成美の3人が日独伊三国同盟に反対した、という事実はない、と本書に書かれていると読んだからである。
「吉田の三国同盟反対論は、第一次交渉に反対した山本や米内に比べてずっと激しいものであった。ところが戦後の所作によって、吉田の反対活動が山本、米内、井上らが強く反対した話にすり替えられたとしか思えてならない。損な役回りをした吉田は自殺未遂までし、文字通り命をかけて三国同盟に反対したにもかかわらず、歴史上注目されないまま今日に至っている。」(P153)
残念ながら、この程度であり事実と言える程度のものはなく、心証に過ぎない。いずれにしても山本が三国同盟に反対したとしても、しなかったとしても、その動機は海軍官僚としての省益確保のためであったとしか考えられない。
珊瑚海海戦は世界初の空母機動部隊による海戦で有名である。当然「戦訓は報告書の形でまとめられて、第四艦隊司令部から連合艦隊司令部に上げられた。」(P219)のであるが、連合艦隊司令部では、この攻略作戦の失敗は第四艦隊と第五航空艦隊が未熟であったことがすべての原因であったとして何の戦訓も得ようとしなかった。
それどころか、報告書に「バカめ」と朱書されていたというのである。問題は「井上の司令部から上がってきた報告書を彼(山本)がじっくり読んだという記録がない。部下たちが第四艦隊と第五航空艦隊を罵倒するのを止めようともせず、それを黙認した。あとで山本は、指揮官として失格の井上は、江田島の校長に転出するだろうと部下に冷ややかに語っていた・・・(P220)」というのだから話にならない。
しかし、このエピソードはマレー沖海戦の戦果に部下とビールで賭けをしたとか、ガダルカナルで陸軍の兵士が餓死するのをトラック島の大和で知りながら、平然と豪華な食事をして何ら救出策を講じなかったことを考えれば、意外ではない。
はしがきに書かれているように、山本の生涯を綴った伝記は少なく、原因は書簡以外の記録が少ないためである。本書はこれを歴史学的方法論によって、山本伝説を再検討することにつとめた、としているがある程度成功しているように思われる。過度に批判的になるか、顕彰的になるかの中庸をいっているように思われる。
このい裏方の記録などが残ることはない。某国大統領の有名なスピーチも、実際はスピーチライターと言われる裏方たちが作成したものである。しかし彼ら裏方の記録など一切残ってはいません。
実態はこんなもの。
また、吉田大臣が反対した、というのは事実でしょうか? また何故、精神的な病で辞職したのだろうか? 結局は、反対したというよりは、どちらにも決められなかった、というのが正しいのではないでしょうか・・・、それを、反対した英雄のように言うのもおかしなことだと云う気もします。