堀越二郎をはじめとする、主として兵器設計に携わった技術者たちの戦中戦後を各章ごとに記述する体裁となっている。
最も興味深いのはやはり、堀越二郎であった。それは、小生の堀越観をさらに深めてくれるものであり、一般に堀越が伝説的な名設計者であると言う、最近の零戦神話と組み合わさったものと、ほど遠いものである。兵頭二十八氏だったと思うが、現在の日本の零戦神話は、戦後の奥宮正武氏との共著が始まりであったことを指摘しているが、本書も全く同じことを書いている(P41)。
さらに零戦神話は、戦った米パイロットの語られる零戦の強さによって伝説と化していった。そうすると、堀越はそれまでは、「零戦に対する欠点や自己反省を口にしていた頃とはかなり異なる姿勢をとるようになっていく・・・零戦をポジティブに語る姿が目立つようになった。物静かな紳士であるとともに、技術者として絶対的自信を深めているかのように見受けられた。(P60)というのである。堀越は一貫した信念の持ち主であったように思われているが、実はこのように評判に敏い普通の人物であったのである。
戦後の飛行機設計技術者として信頼のおける論評をしている、鳥養鶴雄氏は零戦を通じて憧れた堀越にYS11の設計で接して、的外れのクレームをつけられたばかりではなく、「実際に接した堀越さんは、われわれには、この子供たちになにがわかるのか、という態度でほとんどコミュニケーションが成り立ちませんでした」と語る。この印象はYS11に関係した若い設計者全般に共通していて「堀越さんはちょっと冷たくて、近寄りがたいところがある人だった。・・・」(P53)というのである。
「緻密で融通がきかない職人的スペシャリスト」という項を設けて、「・・・堀越の性格を簡単にいってしまえば、専門性に徹して没入するタイプの、航空機設計の職人的スペシャリストである。・・・自ら集団に溶け込もうとする性格でもなく、・・・自分の世界に閉じこもって思索するタイプだっただけに管理者向きではなかった。」と論評している。戦前一緒に働いた後輩たちは、三菱重工の副社長や三菱自動車の社長まで歴任する人が何人も出たのに、堀越はラインの部長にすらなれず、顧問的立場の技師長どまりだった。
何で読んだか忘れたが、堀越が防大教授をしたときの教え子が、彼の授業は、飛行機の重量軽減のことばかり言い、毎回機体の重量計算ばかりさせていたと書かれていた。しかも、別のものに載せられた二人の証言だから間違いではあるまい。もちろん批判的な言い方ではなかったと記憶している。不思議な授業もあるものである。
職人的設計者とは堀越について以前から感じていたことである。職人気質というのは、自分自身で物を加工する、ものづくりでは素晴らしい資質であるが、技術者に冠すると間違いなく欠陥があると言っているのに違いない。堀越に限らず、戦前の飛行機設計者は設計技術の多くを欧米の技術に依拠していたにもかかわらず、それについて語ることは極めて少ない。
ところが「堀越さん自身、米極東軍がおぜん立てしていた戦前の航空技術者のあつまりでは、零戦の欠点や欧米機の真似をしたことを正直に吐露していたりした。」(P38)というのだから驚く。著書の零戦では日本の基礎工業技術力や海軍の航空行政については辛辣な批判を展開しているものの、米軍による会合で述べたであろうことは書かれていない。
また、米軍が零戦の空戦性能を高く評価していた、というのだが、ある証言によると朝鮮戦争で来日した第二次大戦時の米パイロットに、零戦と同じ空冷星型で低翼単葉樹の写真を見せると、零戦以外でも全て「零戦だ」といったと言う。(P38)これは案外知られていることで、隼などの陸軍機についても、米軍の専門の技術者はともかく、米軍の現場のパイロットは大戦初期にはけっこう苦しめられていて、これを一羽ひとからげに、「零戦」として恐れていたのである。
また大本営は昭和十九年秋に、大本営が「海軍・零式戦闘機」として国民に広くアピールした(P35)というのだが、陸軍の一式戦闘機などは早くから「隼」の呼称が宣伝され、飛行六十四戦隊歌、いわゆる加藤隼戦闘隊の歌や、昭和十九年に公開された映画「加藤隼戦闘隊」で実機を使った空戦シーンなどもある名画で、戦時中から国民の知名度は、零戦に比べ、遥かに高かった。意外でもないが、海軍は一般的には秘密主義で、広報に関しては陸軍の方がよほど積極的であった。