毎日のできごとの反省

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倉山満氏の馬脚

2019-05-13 00:04:50 | Weblog

 雑誌WiLLの2019年6月号の令和特集号の倉山満氏の元号についての小文には、小生ならずとも、多くの読者は唖然としたことだろう。小生は「嘘だらけの」シリーズ以来、倉山氏の著書にはまって、教えられること多大であった。今も国際法の本を読み返している位である。ところが、この小文は、倉山流に言えば、突っ込みどころ満載、なのである。逐次批判していく。

 冒頭から「国語辞典を取り出して」「令」の意味を云々する手法は、命令の令と言おうが令嬢の令と言おうが、辞書で「完結すると思うなど不真面目だ」という。そうだろうか。見識のある人物なら、辞書を引用するのは、単に辞書に依拠しているのではなく、辞書の意味がまともであることをチェックした上で、説明の便のために辞書を引用しているのに過ぎず、辞書で完結していると考えているようなレベルの人物でマスコミに論評する者は論外であろう。

 例えば、広辞苑の何版からか「従軍慰安婦」と言う言葉が登場した。そのことをもって、保守の論客で、従軍慰安婦と言う言葉を、国語として正しい、と断言する人はいまい。必ず、慰安婦なり従軍慰安婦と言う言葉の使われ方の経緯をひもとき、従軍慰安婦なる言葉の国語としての正当性がなく、広辞苑に国語として掲載することが不当であることを論ずるであろう。このようにまともな人なら、辞書を根拠としても、自己の識見により批判した上で使うのである。このように辞書を引用しただけで「完結すると思うなど不真面目だ」という、というのは、倉山氏の衒学に過ぎないと思われても仕方ない。

 以上はイントロである。次に「現代の漢文においても、『令』はレ点で読む使役の文字の典型例として登場します。」と言う。不可解なのは「現代の漢文」という言葉である。現代日本でも高校などで漢文は教えられているから、教科書などは多数出版されている。しかし、漢文の用法の根拠たるべき、漢文で書かれた現代の新しい書物、すなわち現代の漢籍というべきものを小生は寡聞にして知らない。だから現代には用法の「典型例」の出典たるべき漢籍が存在しない。高校で教える漢文も、古い漢詩や四書五経などの漢籍に拠っている。現代でもこれらの古い漢籍に用法を求めるのが漢文であって、漢文の使用が廃れた今では「現代の漢文」と言う言葉は存在し得ない。現代の北京語や広東語の漢字表記を「漢文」と誤解している人は論外である。

 倉山氏は、令和とは現代の漢文では「和に令す」すなわち、「日本国に命令する」の意味であると主張する。漢籍を典拠とすれば、これが間違いであることは、令和元年五月十二日付けの支那古典の専門家の加地伸行氏の一文が証明している。「令」と「和」の漢字を接続しての使っている漢籍は「礼記」で、元の漢文は「和令」だそうである。訓読すると「令を和らぐ」で、意味は、徳を布き禁令・法令を和らげる、というのだそうである。漢籍による用例を絶対とする漢文の世界では、倉山氏の「令和」解釈は「間違い創作漢文」の典型例に他ならない。

 もっと根本を言えば日本の近代の元号は、古典書物から漢字を二字を取り出して並べたものに過ぎず、そもそも漢文ではないのである。令和とは万葉集の文書の途中に「令」と「和」が順に出てくるから、その二字を出現順に並べたものに過ぎない。仮に、文字の出現順が、和が先で令が後なら「和令」と表記しなければならなくなってしまう。「令和」の出典の万葉集自体も中国の漢籍の出典がある。従って、漢文の多数の漢字の羅列の中から「令」と「和」のふたつを順に取り出してくっつけたものに過ぎない。つまり「令和」自体が漢文ではあり得ない。元号は漢文ではないのである。「令和」を漢文として延々と批判するのは無駄の限りである。倉山氏ともあろうものが何をとちっているのだろうか。

 例えば現代国語の「経済」は漢籍の「経世済民」という漢文、すなわち「世を経(おさ)め民を済(すく)う」から二字を拾いだし発明したもので、すでに漢文ではなくなっている。哲学などの明治日本で発明された二字熟語は、それ自体は漢文ではないのである。元号も同様である。

 ついでに倉山氏は、令和を幕末に元号案となった、「令徳」になぞらえている。朝廷が元号案とした「令徳」が「徳川に命令する」の意味だとして、幕府が拒絶したという悪しき前例を紹介している。これは豊臣末期に方広寺の鐘の「国家安康」の文字が、家康の名前の間に「安」の字を入れて、家康の体を分断する意味だ、と徳川方が豊臣方にいちゃもんをつけたことに類似している。この事件は大坂冬の陣の遠因となっていると言うからただごとではない。方徳や国家安康の命名の意図はどうあれ、その文字を理由として強い側が弱い側にいちゃもんをつける口実としたのに過ぎない。

 倉山氏の言うように、令和に悪意が秘められていたと仮定しよう。反対に、多くの保守の識者が主張するように、良きに解釈することも可能なのである。倉山氏の論は、すでに令和の元号が決した後に登場した。解釈に関する保守と左翼の論争の最中である。従って倉山氏の批判は左翼を利する結果となる。愛国者ならば戦争反対でも、始まった戦争には協力するものである。倉山氏の態度は戦争が始まった後に、敵国に味方するのと同然である。

 倉山氏は「国際法で読み解く世界史の真実」で、国際法の要諦の第一は「疑わしきは自国に有利に」と説いている。まさにそうではないか。新元号は決した。それにもかかわらず、左翼は令和の意味にいちゃもんをつけて、元号の廃止すら意図している。倉山氏の疑義がもっともな面があるにしても、疑義があると考えるならばこそ、愛国者であるならば、元号「令和」に有利になるように解釈すべきなのではないのか。

 なおWiLLの本号は実に皮肉な構成となっている。倉山氏を含む8名の「令和評」に続いて、資料編として「発言集 令和を貶める人々」というものが掲載されている。主として左翼系と考えられる人々による、令和批判の一覧を、「悪癖を一部抜粋したので紹介、永く記憶に止められたい」として掲載している。共産党の記者会見が典型である。WiLL誌が執筆依頼して掲載された令和評は、倉山氏以外は、令和を歓迎するものばかりであり、倉山氏が唯一の例外である、という体である。

 繰り返すが、WiLL本号は、令和を歓迎するために組まれた特集であるのに、倉山氏の論評だけが異様である。なお「発言集 令和を貶める人々」のなかには左翼以外に、自民党の石破氏が載っている。石破氏は今や、安倍内閣何でも反対の、党内極野党だからさもありなん、とはいうものの、たちが悪い。小林よしのり氏も保守を気取っているようだが、女系天皇を声高に言うなど、最近は支離滅裂な発言で、今や思想の根本がどこにあるか分からなくなってしまっている、不可解な人物である。小林よしのり氏は所詮芸術家であって、論理的に思想を論じることが出来る思想家ではないと思う。

 倉山氏の論は、本当に保守を憂い皇室を敬っていることだけは読み取れるだけに、残念至極である。


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