幕末以降、西欧文明が入ると日本人はそれを漢字で表記してきた。経済、哲学などなど数えたらきりがない。ところが最近の日本人専門家はそれを怠りはじめているように思われる。その典型的な例が倉山満氏の「2時間でわかる政治経済のルール」という本に示されている。
「地政学の五つのキーワード」(同書P38)を見てみよう。地政学の理解で重要な五つの語を挙げている。アクター(関係国)、パワーズ(大国、列強)、ヘゲモン(覇権国)、チャレンジャー(挑戦国)、イシュー(争点)である。倉山氏はこれを列挙した上で次のように述べる。
「日本語があるなら何もわざわざカタカナにする必要はないと言われそうですが、馴染みのないカタカナ語のほうが、一般的によく使われる日本語より地政学用語として規定された概念を表現するには適しています。例えば「アクター」は主体性のある国のことで、国家としての意思や能力のない国はアクターではありません。「関係国」と言う言葉は普段から使っている一般的な単語なので、漠然と「関係している国全部」と考えがちですが、「アクター」と言うことによって、その混用が避けられます。・・・」として残りの四つの用語も説明がされている。
日本人なら、一瞬なるほどな、と思うであろうが、よく考えるとこの説明は実に珍妙なのである。これらの概念は欧米人によって作られたものである。その欧米人の立場に立つとどうなるか。いや高校生程度の英語の知識があれば、ヘゲモンを除く四つの言葉は、一般的な英単語として知っている。ましてや英語のネイティブの人間ならば、例えばアクターという言葉は多義に渡り「「アクター」は主体性のある国のことで、国家としての意思や能力のない国はアクターではありません。」ということは、そのような地政学的用語の説明を聞かなければ分からない。
英和を引いても「俳優、役者、行為者」とあるから、欧米人にしてもアクターとだけ言われれば、「俳優、役者、行為者」など全然関係のないことを漠然と思い浮かべるだけで「その混用が避けられます」ということにはならない。要するに欧米人にとっても地政学上のアクターとはいかなるものか定義されなければ、役者などととんてもないことと混同されてしまうのである。まだ日本語の「関係国」の方がはるかにましである。
日本人が専門用語としてカタカナ語を使うと意味不明だから、きちんと定義をしないと分からない、というだけのことである。小池都知事が、例えば「都民ファースト」などといって、簡単な意味のことをカタカナ語にして、偉そうに煙に巻いている、というレベルの話なのである。
工学用語で、この例を説明して見よう。材料力学には、応力とひずみ、という重要な概念がある。いきなり応力、といわれても普通の国語ではなく材料力学用語だから調べるであろう。しかしひずみと言われれば、国語辞典にも出ているから、その意味だと誤解されるが、材料力学用語としては、きちんと定義しなければ分からないのである。手元に材料力学のテキストがないのでウィキペディアをひいてみる。次のような意味である。
元の長さLの物体が荷重によって長さがℓに変化した場合、ひずみeは
e=(ℓ-L)/L
の式で表される無次元の数値であり、荷重が引っ張りの時eは正の値、圧縮の場合は負の値となる、というものである。ひずみは英語では、strainという普通に使われる言葉だから、欧米人にとっても定義がなければ工学上の意味が分からないのである。なお工学用語では「歪」という漢字は使わずに「ひずみ」と書く。
ちなみに、応力の原語はstressだから日本人にとっても欧米人にとっても、「ストレスによって病気になった」などという場合のストレスと、工学上でストレスと言った場合には意味が全然違うのである。特に最近では、一般に英語での専門用語は造語せずに、原語の一般的な英語がそのまま用いられることが多いから、専門の範囲での言葉の定義をしないと、とんでもない誤解をすることになる。ところが、欧米の文明を取り入れた日本人の先人たちは苦労して、国語にない新しい翻訳用語を発明した。それが「応力」のような言葉となったのである。
だからカタカナ語をそのまま使えば混乱しないで済む、などということがいかに珍妙か分かるだろう。ちなみにISO規格などの欧米発の規格では、まず最初にterms and definitionsと書いてある。これは「用語と定義」と訳される。つまり規格の最初には用いられる専門用語を列挙して、その定義を明確にする必要があるのである。
日本の規格や技術基準類もかなり前から、この方式を取り入れている。カタカナ語だから混用を避けられるのではなく、定義を明確にしなければ混用は避けられないのである。だから、地政学用語で「関係国」という言葉の定義を明確にしておき、英語ではアクターと言う、という説明なら筋が通るのである。
こんなことをくだくだ述べたのは、近年工学でも社会科学でも、果ては日常の言葉ですら、英語そのままのカタカナ語を使い、日本語に翻訳する努力を怠っている傾向が著しいからである。特にIT業界用語にはその傾向が甚だしい。昔の人はピストンエンジンの部品でも、英語をカタカナ語にしただけでそのまま使うのではなく、全て漢字に当てはめる努力をしたのである。クランクシャフトを曲軸と訳したのを、素直にクランクシャフトと言えば分かりやすいではないか、と揶揄する者すらいるから本末が転倒している。
小平次です
倉山さんは時折参考になるようなこともおっしゃいますが、どちらかと言えば珍妙なことの方が多いように私は思います
工学的なことに対してはまるで無知な私ですが、丁寧なご説明で、私が日頃思っていた疑問のいくつかが解決いたしました
ありがとうございました
「アクター」なら「誰かに踊らされている役(朝鮮・韓国)」や「観客の役(日本)」も有り得るので、これを更に英語に翻訳する場合は、誤解を生じる可能性の方が大きいと思います。
ところで正岡子規は試験でjudicatureの意味が分からず、カンニングして隣の人にきいたら「ほうかん」と言ったので「幇間」(たいこもち)と書いてしまった(正解は法官)という笑い話のような話は有名ですが、漢字の同音意義語もけっこうやっかいです。