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毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

香港デモの報道はフェイクニュースではないか

2019-10-03 17:41:05 | 政治経済

 10月1日の国慶節が山場とみられていた香港のデモは、警官に射撃されて重傷を負った高校生のほか、多数の負傷者と269人の拘束者を出したして報道され、連日、テレビに警官隊との衝突のニュースが流されている。にもかかわらず国慶節の式典は平静に行われている。これを見たら、ウイグルで100万人が強制収容所にいれられているとか、人権派弁護士が次々と消えてしまったなどというニュースは信じられない位である。

 逆説的かも知れないが、香港のデモは、中共政府の今までのやり口からすれば、余りに微温に過ぎるのである。もちろん香港が国際的に注目されている、という特殊事情はある。それにしてもである。欧米諸国にしても、デモ隊が火炎瓶を投げるなど一部暴徒すれば、あの程度のことはするだろうと思わされてしまうのである。そこで想像するのだが、我々が見せられている西側諸国の報道陣によるデモ映像は、中共政府にコントロールされているのではないか、ということである。

 中共政府は見せたくないものは、絶対に見せないと言うだけの統制力を持っている。かつて朝日新聞が北京を中共政府のガイドで訪れて、「中国には塵ひとつ、蠅一匹いない」と絶賛したのは、現代ではアホの報道の代名詞になっている。結局、今の香港デモ報道も、それの現代版ではないか、と。

 淡々と羽目を外さず、暴徒化したデモ隊をやむなく鎮圧している、という光景の裏には、秘策が隠されているのではないか。例えばであるが、デモに参加していた人物を何人か抽出して、順次強制収容所送りにする。すると家族などの関係者からうわさが流れて、だんだんデモの参加者にも恐怖の渦が心に湧いて出て、長い時間じっくりかければ、いつかはデモ隊も収まるのではないか。それまでは、西側のTVには穏当な警察隊の対応を流し続けていただく、と。

 香港デモの報道はフェイクではないか、というのはもうひとつの疑惑である。一説によるとデモ隊の何人かに一人、当局の人間ないし、当局に雇われた人間が混ざっている、ということである。そして、店舗のぶち壊しなどの過激な行動を率先してやっている、というのだ。こうすれば、発砲にしても過激な警官隊の行動が、世界に向かって合理化される、というわけである。このようにニュースを作っているのだとしたら、正にフェイクニュースである。

 前回も述べましたが、私たちの命のある限りの時間で中共王朝の崩壊はないのであろう。しかし、歴史の教えるところは、支那の王朝は民衆の暴動で混沌に陥り、いつかは倒されるのですから。そして民衆は次の独裁者に支配されるのですから。

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株取引の不思議

2019-09-30 20:11:44 | 政治経済

 これは素人の株井戸端論である。専門家と言わずとも、経済に知識のある方に、教えを請うているのである。

 株価が高下しても、株式を発行した会社に直接の利害はない。株が上がると会社の信用は上がるが、直接の利益はない。会社の信用が上がれば、銀行の融資が増えるかも知れないが、単に余分に借金できるだけ、ということであろうが、借金が減るわけではない。儲かるのは株を保有していて、上がった時に売りぬけた人だけである。単に保有していて株価が上がっても、売らない限り儲からない。せいぜい配当が増えるだけであろう。

 小生は、そのことが不思議でならない。株には額面の価格があるのに、それより安くなったり、高くなったり取引ができることである。本来株を持っている人の利益は配当を得られることであろうが、現実に配当を得たいため、株を保有している人は少なかろう。株を持つ利益のほとんどは、安く買って、高く売った差額で得られる。

 確かに世の中の商品は、定価いくらと生産者等が決めたとしても、競争のために安売りしたり、人気があるために高値になったりする。家電製品のメーカーによるカタログ等の広告には、昔はメーカー希望小売価格、というものが書かれていて、店頭ではそれを値引きして販売していた。もっと昔は、メーカーが決めた「定価」というものがあった。

 しかし、現在はオープン価格、と書かれているか、何も書かれていない。販売店の店頭に、販売価格が貼られている。実際の販売価格は販売者が決めるのであって、製造業者が決められるものではない。株の取引価格もそれと同じだと思えばよいのだろう。現実問題としては、電気製品の価格は量販店では、ある店が値下げすれば、他の店もそれに合わせる、というように結果的に統一されていている。

 同様にネット販売ならさらに安く買えるが、せいぜい8がけとかの程度であって半額と三分の一になるわけではない。ところが株は時間がたつと勝手に高下して、倍半分になるというのは珍しくはない。変動幅が極端に大きいのが出てくるのである。しかもそれが経済評論家の言う、景気の良し悪しの指標になっている。株は株券を発行している社への投資ではなく、株の売買差額から利益を得る、投機の材料になっているのに過ぎないのにである。

 それはそれでいいではないか、と言われるだろう。大抵の証券会社の担当に聞けば、今○○会社の株が買い時ですとか、売り時ですとかしか言わないのだから。株式会社は、株を発行して得られた資金を元に運営する、という「株式」発明の当初の考え方からすれば、やはり単細胞な小生には不可解である。

 第二の不可解事は、株の保有者の売り買いの判断である。知り合いの投資家が、株を売りたいと言い出すのは、株が下がった時である。高いときに買ったのが、下がったから売れば損するではないか、と言うと、もっと損を出さないように、「損切り」をするのだという。

 投資家が株を買いたい、と言い出すのは上がり続けている最中である。高くなっている時に買えば、下がったか損するではないか、と言えば、「まだ上がる」と答える。それで買った途端に下がるのは日常茶飯事である。小生のような株取引をしていない素人から見れば、売りたいときは買い時で、買いたいと思う時は、売り時だとしか思われないのである。

 


書評・バカな経済論・高橋洋一・あさ出版

2019-03-02 17:09:34 | 政治経済

 数理を得意とし、経済学も学び旧大蔵省に勤めた氏ならではの痛快な談義である。その中で小生が感じた不満を述べたい。その中には氏が百も承知、ということもあるだろうとは分かっているつもりだが。

 

・組合問題

 「歳入庁」のない日本は変な国(P124)という項では、かつての財務省の消えた年金問題を例にとっているのだが、問題提起と直接関係がない、と言われればそれまでだが、この騒動の原因の重大のひとつに、社会保険庁の労働組合ぐるみのサボタージュがある、ということが書かれてない。本来は社会保険庁でも何でもよいが、とにかく国がやるべき仕事を、国民年金機構と言う特殊法人をわざわざ作らなければならなかった、という異常事態は組合問題の解消と言うことがなければあり得なかったことである。

 それを無視して歳入庁がない、とだけ主張するのは奇妙である。日産自動車が、カルロス・ゴーンなる外国人を雇ってまで社内改革を進めなければならなかった原因の根本のひとつは、日産の労働組合の強過ぎによって、社内がいびつになったためである。日産の労働組合のトップは「労働貴族」と呼ばれるほどの権力と豪奢な生活をしていたらしいのである。当然人事権はかなり組合が握っているだろうし、客サービスも低下する。それに対して会社幹部がどうにもできず、しがらみのない外国人をトップに据えた、という次第である。

 労働組合は労働者の権利保護等のために必要なものであるが、結局組合が権利を過度に持つと、組織自体を壊す、という話である。氏の他著書でも同様であるが、高橋氏が労働組合問題に着目することがないのは、体験のなさであろうか、関係のないことだと考えたのだろうか。

 

・バブルについて

 じつは「まことに結構な経済状況だった」バブル時代(P120)という項を設けているように、氏はバブル自体を肯定的にとらえている。株価は四万円近くGDPは4~5%程度、失業率は2%台であるにもかかわらず、物価はさほど上がっていなかった、と客観的に評価している。悪かったのは日銀が「バブル潰し」とばかり不必要な急激な金融緊縮を行ったことであるという。

 氏の分析は正しいと思う。ところが欠けている視点がある、と思う。ひとつは何故バブル、と呼ばれたか、である。戦後の好景気の出発点は全て製造業のように、汗水流して働くことによる産業であった。石炭産業、繊維産業、造船などである。ところがこのときに起きたのは、株取引や不動産売買のように、「汗水流さない」で株や土地を転売するだけで好況が生まれた。

 それを後日バブル経済と蔑んだのである。この見方は正しくもあり正しくもないように思われる。バブルとは製造生産による新しい価値を生み出すことによって生まれたものではないものである、という実態の表現は正しい。小生は一般的には、株価はGDPに比例すべきものと考えている。当時の株価のグラフを見ると、米国ではその通りになっていたからである。ところが日本の株価はそうではなかった。

 4~5%程度の上昇どころではなく、株価がGDPと乖離していくグラフを見て、株取引に熱中する人たちに、おかしいではないかと言ってみたが聞く耳を持たなかった。私に堅実な製造業を説教・自慢する社長がいた会社が、株取引室を設置して本業をおろそかにし始めたと聞いてあきれたものである。

 氏の言うのは正しいのだが、バブル景気と言うのは、戦後好景気が訪れたことのない金融や土地取引といった分野が好景気のけん引役になった、ということに過ぎない。大きく見れば好況のひとつの形態に過ぎない、と言う点ではそれまでと変わりはない。バブル崩壊には経済の専門家はよほど懲りたものと見える。バブル崩壊以後、「好景気」「好況」という言葉はマスコミから消えた。

 好景気が続くと「いざなぎ景気を超える長期の『景気回復』」などという言葉に置き換えたのである。「回復」とはまだ完全には良くはなっていないが、改善しつつある、というニュアンスが垣間見え、すばり「好景気」ではないかのようだ。その癖IT産業が景気のけん引役になると「ITバブル」などと揶揄した。IT産業はハード、ソフトの製品づくりの産業だから、株取引のような「バブル」ではないのである。

 高橋氏は過去を顧みるように勧めている。しからば、なぜ「バブル」景気が起きたかを言わないのも片手落ちである。バブルのきっかけになったのはNTTの株の発売である。それまでは個人では一部の人しか手を出さなかった株を、主婦までが競って買うようになったからである。NTTの株は抽選で売り出され、みるみる内に2倍3倍となった。それに味を占めた個人の金が株式市場に流れた。製造業の資金も株取引に流れた。

 株の数量が一定で、金が株式市場に流れれば、株の単価は上がる。それだけのことである。地価も同様である。バブル期には税金すら余っていて、官庁はムードで「はこもの」を作った。現在使われている公共施設でバブル期に造られたか計画されたものは、無駄なスペースが多い「バブリー」なものが多いからすぐわかる、と言う次第である。

 高橋氏は1メートル先だけ見ていては、全体像は分からないというが、バブル期には柄にもない個人が株式に熱中していたのを見ていたから、小生にバブルの原因は分かったのである。株取引が景気のけん引役にならない限り、株はGDPに比例すべきものだとすれば、今のような低成長時代には、株価が三万円に届くのは当分先の話である。

 

・高度経済成長

 本書では、経済成長が2%以下ということが前提になっている。氏は海を渡れ、川を上れ、と叩きこまれたと書いている。それならば中国では低成長になっても、6%だし(実態は極めて怪しいが、かつては本当に二ケタ成長の時期はあったと思う)、日本でも高度経済成長期には二ケタ成長していた。

 現在の日本の経済成長が2%であれば上出来なのは実態として分かる。しかし海の外と比較し、川の上を見れば納得できない。かつては一ドル360円の固定相場だった。それだけ日本の経済力、ひいては物価や賃金も安かった。かの零戦の設計者は著書で、ずっと性能が高い米国機と比べ、生産工数は三倍だが対ドル換算するとずっと安い、ということを淡々と書いていたのを不思議に思った。

 要するに賃金が欧米に比べ格安だったのである。輸出する産業の場合、このことは有利になる。戦後は、この利点を生かして欧米に輸出して高度成長をした。ところが日本人の賃金が上がり、発展途上国も日本の輸出競争相手となると、そうはいかなくなる。そこで発展途上国では生産できないような製品にシフトしたり、製造拠点を海外に移すのだが、それでも高度成長期なみにはいかない。

 そこで行きついた結果が、現在の2%も成長すれば上出来、という時代になった。2%という数値を数値計算することは、要因が複雑すぎてできまい。できるのは2%ということを前提として、これにいかに近づく政策があるか、ということではあるまいか。相対的変化は計算できても絶対値は算定できないのである。

 

・やっぱり「英語」が重要だ

 英語の重要性も無前提に述べられているのだが、現実を追認したものに過ぎない。現代での英語の国際的価値の高まりは、単に米国の覇権の高まりばかりではなく、米国が同じ英語圏の「大英帝国」の覇権を継承し、かつての英語公用語圏の植民地だった国家が発展したことにてよることも大きい。インターネット自体が米軍により開発されたことも要因としては大きいのだろう。

 だからといって「天下り」が日本の特殊慣習で、英訳できないと嘆く必要もなかろうと思う。小室直樹氏は、戦後の日本は農業社会から工業社会への急速な変貌により、村落共同体が崩壊し、その受け皿となったのが「会社共同体」とでもいうべきものであると言った。天下りは官庁ばかりではなく、企業社会にもある。同時に、終身雇用制が発生し、それだけでは世代交代が出来なくなるため「天下り」なるシステムができたものと小生は考える。

結局は戦後の特殊性によるものである。戦前の小説を読めば、サラリーマンとても、いつ辞めても故郷に帰れた、という風景が見える。当然だが、英語にも英語特有の言葉はいくらでもある。小生は英語は苦手だが、外国語に習熟する、ということは、単に文法的論理的に翻訳できない、その言語特有の表現に習熟しなければならない、ということでもあると理解した次第である。

 

・経済とは数字、数学の世界であり、各国の文化・歴史の独自性にあまり左右されるものではない(P229)

 これは真理であるとは納得する。しかし、それは表面に装われた文化や慣習、民族性等の属性をはぎ取って、純粋に数理や経済の世界だけに置き換える作業が必要なのだろうと思う。単純にGDP、人口や産業構成、外貨準備高等の公表された諸数値だけをピックアップして、数式や法則にあてはめれば良い、というものではなかろうと思うのである。むしろ、氏の言うように普遍的な数字の世界から眺めよう、とするのは案外に困難な作業ではなかろうか。高度成長との比較でも述べたが、氏自身の適用する経済論理も、このような文化の特殊性をはぎとった上で見ることが可能な現代日本だからではなかろうか、と思うのである。小室直樹氏は、数理にも詳しいが、中国の共同体論などの文化史的な観点からの批評にも長けていた。高橋氏にも数理や経済への洞察に加えて、このような文化史的観点にもっと視点を広げれば、論説に更に厚みが加わると思う。


書評 未来年表 人口減少危機論のウソ・高橋洋一

2018-12-02 00:02:37 | 政治経済

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 久しぶりに得心のいく本であった。小生自身が、少子化は防ぎようがなく、少子化に向けた対策はあり得るとしても、政府による少子化防止対策はあり得ない、と考えていたからタイトルに飛びついて買ったら、期待に応えてくれたわけである。明治以前はせいぜい四千万人程度の人口でそれなりに暮らしていた時期もあるし、人口が際限なく増えていった方が危険ではないか、と直感的に考えていたからである。日本の適正人口は、八千万人程度だという説もある。

最近、水道設備の老朽化等による危険と、水道料金の地域格差が問題にされている。本書ではこれに直接答えてくれるわけではないが、読めば水道インフラを扱う自治体の規模を適切に大きくすれば、ある程度解消すると理解できた。ちなみに政府が考えている民営化は、単に公営より効率が良くなる、という姑息な考え方で、他国の失敗例を考えれば、薦められない。郵政民営化の原因は元々そのようなものではない、という理由を他書で高橋氏が説明している。国鉄の民営化は、共産主義革命活動集団化した労働組合による、国鉄破壊活動に対する対策であると小生は理解している。

 

人口減少危機論

 人口危機論で本質的に問題になるとすれば、減少のスピードが想定外に速くなるといった、不測の事態が起きることだけである、と述べているのは得心する。ただし、小生には現在想定している人口減少は、異常に速いのではないから問題ない、ということも考えなければならないと思われる。出生率が1.1を切るような急激な人口減が想定されるとしたら、予測できても人口減少への対応策のしようがないのではなかろうかと思うのである。

 

AIとは何か

 AIを「人工知能」と訳すことが誤解の元で、「AIに知能はなく単なるプログラムだ。・・・AIが人間を超えることは当面ない。・・・誰にも解けない数学の証明問題を解くといった作業は無理だ。(P168)」と断じているのは正しい。コンピュータによる将棋や囲碁などというものは、コンピュータの演算速度の速さと記憶力の膨大さを利用して、トライアルを無数に行っているのに過ぎず、一流の棋士などの知能を超えているわけではない。棋士等より将棋等の能力が低いプログラマーがプログラミングしたコンピュータが勝っているのである。現在の技術の延長である限り、AIが人間の頭脳を超えることはない

 しかし「ブルーカラーもそのうちAI化されてくるだろう。(P84)」というのは無理だろう。建設労働などで、運搬や溶接などのうち、繰り返しで定型的な僅かな種類の作業を除けば、大部分の現場作業のAI化は無理である。大量生産の工場におけるロボット使用とは訳が違うのである。その意味で「労働力という観点では、最終的に外国人は不要になってくる(P84)」というようにはならないと思う。コンビニや飲食店の店員や、街の道路工事の作業員をAIで置き換える、というのは当面無理である。

 しかし、移民につながる単純労働者の受入れは無理筋である。排日移民が日米戦争の遠因になったことを持ち出すまでもなく、欧米が移民により悲惨な状況になっている現状を見れば明白である。以前ドイツのテレビ局が公学校の移民被害を、潜入取材した番組を見たが、日本の学校崩壊どころではなかった。移民にかかる社会的トータルコスト増は、日本人の単純労働者採用に必要な給与増よりはるかに多くなる。文化の破壊や人種摩擦も激化する。

「日米開戦の人種的側面」によれば、移民の国と言われるアメリカでも、「移民」とは「アメリカの白人社会に同化できる白人」というのが建国以来の本来の基本的要件だったのである。前掲書は排日移民法に批判的であるが、アメリカ先住民族については、はなから同化の対象の可能性の検討からさえ外している。日本人移民が迫害された戦前でも、移民の多数を占めるドイツ系やイタリア系の迫害はなかった。だからトランプ大統領がメキシコ経由での南米の移民阻止、というのは移民の国アメリカ、というスローガンに何ら反していない

安倍首相が進めている外国人労働者受け入れ政策は、目先の利益にとらわれた財界の圧力に屈してのことだと推察する。政策を批判する野党も安倍政権批判の材料に利用するだけで、単純労働者不足、という主張に対する根本的対案を用意してないから、意味がない。

 根本的に考えれば、人口減少が労働人口の減少の原因と単純に考えるなら、現状の店舗数と規模を維持してコストが合うはずがない。つまり人口減少に伴い、必要労働人口も減るはずである。それでも無理して外国人の単純労働者の雇用を求めるのは、日本人より安く使える、という意図が透けて見える。冷酷に言えば日本人がやりたがらない仕事に、日本人をやらせたければ賃金を上げるか、それでも経営できなければ、その店舗はもはやニーズがないものとして、閉鎖するしかないのである。

 それでも小生は労働人口の不足対策は少しはあると考える。著者のような統計値は持たないが、日本人で働くことは可能でも、働いていない人がいるはずであるからである。この中には働く意思がない、という人が含まれているが、それは必ずしも働くことができない、という人ばかりではない、ということである。都内の某区では、半数近くが生活保護を受けている、という都市伝説のような噂がある。噂は真実ではなかろうが、生活保護が受けられるために働かない、という人々もいるはずである。

 つまり生活保護の受給資格を厳格に査定し、働くことができるのに、生活保護が受けられるために働かない、という人の中から労働人口を発掘することができるのではなかろうか。何せ最低賃金で働くよりは、生活保護の方が年収が多いと言われている時代である。

 

無人自動運転自動車は実現しない

 本書で小生が最大の間違い、と考えている箇所を指摘する。無人自動運転が可能になるから「・・・タクシードライバーという職業は真っ先に消えてもおかしくない。(P171)」としていることだ。なるほど自動運転の研究開発は進んでいるし、実用段階になるのはそう先ではないだろう。航空機の世界では無人飛行機は既に実用化して多数が使われている。しかし、旅客機は自動操縦が可能で、離着陸の自動化も可能であるのに、パイロットは原則正副二人搭乗しているのは何故か。

 問題は安全性の確保なのである。旅客機パイロットの免許は一年更新で、その上免許は機種別にとらなければならないほど厳格である。大部分の飛行時間は自動操縦がなされている。それでも自動操縦中に常に一人は計器を見つめ、いつマニュアル操縦になってもよいように備えている。これだけの技量を持ったパイロットが乗っているにもかかわらず、万一の安全性確保のためにパイロットは必要なのである。

 まして、遥かに技量が低い運転者が乗っている自動車では、全自動運転が実用化したところで、運転手を無くすどころか、全自動運転システムが突如不測の事態の発生に対処できなかったり、システムにエラーが発生した場合に、普通の運転手が素早く対処できるとは、到底考えられない。運転手が乗っていてさえも万一の安全確保には疑問符が付く。危機管理の原則と同じでシステムとは不測の事態が発生したり、エラーした場合の対処は絶対に必要なのである。

 災害で「想定外の事態が発生したから」と言い訳されるが、危機管理では、想定外という言い訳は許されないのである。自動車の自動運転も同様である。有人運転なら人為的事故の場合、運転手個人の責任を追及するしかない、と皆本心では割り切っている。ところが無人運転の場合、システムが不完全なこともあるし、エラーも発生するものだ、とは割り切れないのである。もちろん現在の旅客機はほとんどが、機力(油圧などの機械力)操縦である。油圧などのシステムが完全に故障した場合にはパイロットは操縦できない。多くの旅客機は設計上機力操縦以外にしようがないから、システムエラーの可能性は暗に許容されているのである。

 前述の実用化されている無人飛行機とは何か。偵察や攻撃用の軍用無人機である。トラブルや敵の攻撃で墜ちようと、人命に被害はない。むしろ有人の軍用機よりも墜落した時の人的損害がないので、好まれるのである。現在では用途が戦闘機や爆撃機に拡大されようとしている。しかも無人とは言っても、人が乗っていないだけで、完全自動ではなく、地上でモニターして操縦している。機内に搭乗員がいないことが好まれるのである。副次的には、搭乗員の所要設備やサイズが不要になるなど、コスト面でも大きなメリットが得られる。

 小生の知る限り民生用の無人自動運転がされているのは、国内では「ゆりかもめ」のような軌道走行車両システムだけであろう。それとて、常に車両外の固定局でモニター、運転しての半自動運転というわけだから、運転要員はいるのである。ただ各車両に運転手が搭乗していないだけのことである。これを可能にしたのも、運用区間が短く専用軌道上だけを走る、という特殊な事情から、不測の事態が起きにくく、対処も容易であること、トラブルへの対処も比較的容易であること、などの相当な特殊条件があって認可されているのである。

 以上のことを総合すると見通せる近未来では、一般道を運転手の乗らない全自動自動車が走行するなどは考えられない。もし、あり得るとしたら色々な事態に対処できる、本当の意味で人間と同じ知能を持った「AI」ができたときであろう。しかし、そのようなAIは「2001年宇宙の旅」のコンピュータのように、人間のような意志を持ち、人を殺そうとする可能性が発生する事だろう。そのような遠い先の可能性ではなく、現実にあり得るとすれば、専用軌道ではなく、一般道を走るゆりかもめ方式のタクシーなどであろうか。それとて、一台に一人、車外監視要員を必要とするなら、メリットは激減する。

 

フリーランスについて

 もうひとつは著者の持論に対する疑問である。それは「いざという時はフリーランスが強い(P216)」ということである。著者はキャリア公務員でありながら、天下りをしなかった。著者は天下りをしなくてよかった、といっているが、別の著書でその経緯を読んだ記憶があるが、自らの選択と言うよりは、成り行きであったように思われる。しかし、民間等が天下りを受け入れるのは本人の能力などではなく「・・・親元(省庁)との関係を良好に保つための・・・いわば『人質』で」ある、と言っているのは事実である。

 小生の知人のある省庁のOBたちで民間会社にいったのだが、何の仕事もなく「人質」であることに嫌気がさして、年金の受給年齢になる前に自主退職してしまった人物を何人か知っているから分かるのである。だが著者の言うように「自分の才能を信じ、スキルを身につけ、組織に属さなくとも自分の力で食べていけるだけの武器を身につけ」るのが最も望ましい、という持論は小生には例外的な理想論である、としか思われない。民間会社でも「天下り」は存在する。

 昔、小生は20歳も年上の大先輩に、君は虎の威を借る狐だと冷やかされたことがあるが、的をつかれた、と痛感している。組織にいるものは、組織がバックにあることによって力を発揮するものである。人はそのことを自分自身の実力だと勘違いするものである。大先輩はそれを戒めたのである。著者は確かに財務省で自分のスキルを磨き、今では組織に属さずに実力で生活しているのは事実である。しかし、それは例外であるのに違いない。

 小室直樹氏は日本は戦後天皇の絶対性信仰とともに、村落共同体を失って、急性アノミーに陥った。村落共同体を補ったのは「会社共同体」だったという。ほとんどの日本人(あるいは人間)には、共同体への帰属意識が精神の安定上必要なのである。

 著者は、会社を持っているらしいが(P217)、事実上フリーランスらしい。その方が気楽で稼ぎやすいらしいとも、言うのだ。しかし、彼のように、組織に属さずスキルや才能を発揮できる、という例は一般化できるわけではないだろう。前掲の小室直樹氏も著者と同様に事実上のフリーランスとして能力を発揮していたのであろう。しかし、小室氏は自身のあり方を一般化せず、共同体必要論を説いている。人間世界の洞察としては小室氏の方が深い、と言わざるを得ない。

著者のフリーランス論は、従来の単なる実力主義論よりずっとまし、とは思うのだが。ちなみに著者自身は全く社会から疎外されている、というどころか、必要に応じて考えを分かち合えるグループのいくつかに所属していると推察する。これが共同体への帰属意識、とまでは言わないが、著者とて何らかの共同体社会から孤立して生きられるものではなかろう、と思うのである。

 明治維新は暴力や政治闘争を伴う大変革であった。しかし、村落共同体を破壊したわけではない。藩は解体したが、小室流に言えば、侍の忠誠は藩から国家(すなわち天皇)への忠誠に置き換えられた。仮に公務員や国家、地方の組織の大改革をするとしても、人間の業としての忠誠心や共同体への帰属心理への必要性は残るだろう。

 

なぜ日本はデフレか

 著者は経済等における数値計算の必要性と可能性を説いている。経済や年金の議論をする際に、あまりに定性的な議論だけで、定量的な議論が欠如している現状では著者の主張には説得力がある。ただし、日本はかつて10%を超える経済成長をしていたのに、現在は2%にも及ばずデフレだとすら言われている。そして賃金上昇の傾向も似たようなものであることの説明はできていない。というより、そのような比較はしていないように見える。

 これからする小生の説明は、数値計算できるしろものではない。もちろん本人に計算能力がないこともあるが、そもそも数値計算するには変数が多過ぎ、それですら確定できないものばかりだから、計算能力が人並みにあったとしても、計算できまいと思うのである。

 小生の定性的説明は単純なものである。いわゆる高度成長期、というのは主たる輸出先の欧米と日本にかなりな賃金格差があったのである。当時、日本の欧米への大量の輸出はソーシャルダンピングによって、格安の賃金により欧米より安くものを売っている、という非難をあびていたことが、その証明である。原材料は主として発展途上国から輸入するから元々安いし、製造コストに含まれるのは人件費の方が、遥かに比率が高いから、問題は日本人の賃金安にある、とされたのである。

 ところが欧米より高い賃金上昇率を続けた結果、東京は世界一物価が高い、と揶揄されるまでになったのである。その結果、日本の製造業は追いかける発展途上国に負けるか、製造拠点を賃金の安い海外に移すようになったのである。ブランドは日本だが、メイドイン・シンガポールなどという家電製品が珍しくなくなったのは、かなり昔の話である。

 米国でも同様である。日本の鉄鋼産業に押されて、米国の鉄鋼産業は消滅したのに近い。家電と異なり日本の鉄鋼産業の主力は、品質の安定性とコスト削減により、発展途上国に対抗し得たのである。現在でも普通鋼材などの低品質級の鋼材でも、重要な強度部材に関しては、品質の確実性から、日本製を好む発注者がいるが、発展途上国に押され続けているのは間違いない。アルミの精錬などは、国内の工場は無くなって久しい。

 現在、単純労働者で人手不足が言われているのが、建設業やコンビニ、飲食店などであることは偶然ではない。家電は日本メーカーの指導で海外生産ができ、自動車の組み立てはロボットでできても、まさか道路や建物の建設をロボット化したり海外で生産して日本に運ぶ、というわけにはいかない。コンビニ、飲食店も原料は輸入可能でも、コストがかかる店員は国内の店舗に配置しなければならない。

 というわけで、日本と発展途上国の賃金格差が企業努力では回収できないほど大きくなった結果、賃金は上げられない。製造業は海外で生産するようになって販売価格は上げられない、どころか劇的に安くなっている。それは量産効果ばかりではなく、発展途上国のメーカーが、日本メーカーに追いついたこともある。テレビや白物家電、と言われるものは海外生産でも日本ブランドも減りつつある。

 以上述べたように、日本が欧米並みの賃金となり、日本と発展途上国との賃金格差の拡大と、発展途上国の製造能力の拡大から、日本での賃金上昇や物価上昇の減速を招いている、という単純なことを言っているのに過ぎない。だから少なくとも、日本での賃金上昇率や物価上昇率は、発展途上国のそれより、ずっと少なくなければならないのである。それでも見通せる限り、多くの発展途上国が物価においても賃金においても、日本に追いつくという見通しはない。

 GDPにしても同様である。日本の十倍を超える人口の中国ですら、GDPでは、日本を超えたのは最近で、インドに至っては追いつく見通しはない。中国やインドの一人当たりGDPと、日本のそれは、まだそれほど大きな差がある。中国の経済成長率は低下して、6.5%程度と言われているが、これすら国家的嘘である、という陰口がなくならない。エネルギー消費量が減少を続けているようであるからである。

 だから、日本の経済成長率は4~5%どころか、人口が減少していることを考慮すれば、2%も相当困難な数字であることは、想像できる。この説明は本書への批判ではない。そもそも本書はこのようなことに言及していないからである。小生が書評を口実に言及したのに過ぎない。


不動産投資の手品

2017-09-30 12:57:04 | 政治経済

 平成29年8月28の産経新聞に面白いエッセーのようなものがあった。経済学者の伊藤元重教授の文章である。金利が変化すると不動産価格がどの程度変化するか、と言うのがテーマである。伊藤氏によれば年間家賃120万円のアパートがあったとする。金利が1%だとして、このアパート経営に投資するに見合う、金額は一億二千万円だというのである。

 一億二千万円で金利1%の債権を買えば、年間120万円の金利が入るから、というのである。金利収入はその通りである。しかし、一億二千万円で土地を買い建物を作り、年間家賃120万円で、採算が合うのだろうか、と考えたらよいのである。

120,000千円/1,200千円=100年である。

伊藤教授の金利の計算は間違いないが、果して、土地と建物に一億二千万円投資しても100年経たなければ回収できない、というアパートを建てるものがいるはずはなかろう。こんなことを考えたのは、小生の父がその昔、建設業者に勧められて、使わず余った畑の一部に戸建ての賃貸住宅を建てたからである。子供ながら、建物の建築費だけを家賃で割ってみたら、30年近くかかる計算になった。

安造りの木造だから、30年も経ったら使い物にならないし、それまでの修理費は基本的に貸し主である。つまり30年経つと家は無価値になるから、建築費がちゃらになるだけで、元の木阿弥である。どう考えても賃貸契約は採算に合わないのは、分かり切っている。せいぜい、固定資産税対策にしかならないのである。土地が只であると言う計算ですらこんなものである。実際に賃貸経営をしている知人は何人かいるが、すべて親の資産が只で手に入ったケースだけである。

つまり、余程の田舎で土地が只同然で買えるケースしか、土地と建物を買って割が合いそうなケースはあり得そうもない。だがそんなところでは、割に合う家賃収入は得られないから、結局教授がいう賃貸目的の不動産投資は割に合わないのである。教授の言うケースでは、将来、建物に投資した金額分は消えてなくなり、土地投資分だけしか投資資金は回収できなくなる、ということが考慮されていない。確かに金利1%で投資した場合、元金が確実に残るという保証がないとすれば、教授の説もあながち間違いだとは断定できないのであるが、不正確極まりないことは間違いない。。

相続資産を持つ者に賃貸経営を勧める業者が、自ら賃貸経営をしないのは、そこに理由がある。賃貸経営を勧める言葉は伊藤教授のような論理を元にしたものであろう。教授のような経済のプロが時々空論に近いとしか思えないことを言うとしかの思えないのは、そんな訳である。


お札を刷ればデフレ終了?

2017-05-23 15:40:01 | 政治経済

 経済に詳しい者は、デフレを脱却するには、日本銀行がお札を刷って増やせばよい、という(*のP233)。「デフレとは、モノはしっかり生産して増えているのに供給されるお札の量が足りない状態のことです。」確かに品物の量が一定で、お札が増えれば、単純計算上は単価が上がる、物価が上がるからデフレは脱却できる、という理屈である。

 素人目には、こんなに単純にいくのだろうかだろうか、とむしろ不思議に思える。日銀がたくさんお札を印刷したとして、それはどこに行くのだろうか。印刷された札は日銀の倉庫に積まれる。積まれたお札が、市中にどうやって出ていくのか。その説明を寡聞にして聞かない、から教えて欲しいのである。

 日銀は、会社と直接取引をするわけではないから、日銀の倉庫に山と積まれたお札が市中に出ていくには、普通の銀行家を経由しなければならないのだろう。まず、日銀から一般の銀行に、どうやって渡すのか。ただ渡すわけではあるまい。

また一般の銀行から会社にどうやって会社にお金を渡すのか。たくさん日銀から受け取ったお札を、どういう理由で会社に渡すのか。まさかお札をただでごっそりくれてやる訳ではあるまい

方法論を説明してくれないから、永遠に素人には分からないのである。同書でお札増刷の後に延々と続くのは、日銀総裁の地位は不可侵だから、第二次安倍内閣以前の、政府に反対する日銀の抵抗の強さを延々と書いているだけであり、上記の疑問の説明はない。

 同書で、もう一つ小生には理解できない記述がある。「平成初頭にバブルが崩壊して以降、日本は一度も好況になったことがありませんから(P232)」云々である。森永卓郎氏が、2006年11月付けのブログで「国民が『いざなぎ超え』景気を実感できない理由」という文章を書いている。それによれば、2002年2月に始まった景気拡大が57カ月続き、戦後最長の「いざなぎ景気」を超えた、と書いている。

 いざなぎ景気とは、「好況」のことである。好況と比較するのだから戦後最長続いた、というのは「好況」のことだろう。森永氏はバブル以降、いざなぎ景気を超える長期の好況があったと書いているとしか考えられないのである。ところが、不思議なことに「好況」とは決して言わず「景気拡大」と言っているのである。

 当時の新聞記事の記憶があるが、確かに「いざなぎ景気を超える戦後最長の景気回復」という活字が躍っていて、森永氏同様「好況」「好景気」とは絶対に書かないのである。つまりバブル崩壊以後、経済の専門家は「好景気」「好況」という言葉を忘れたカナリアになってしまった。

 小生は1999年の末頃、内部配布の広報誌にエッセーを書かされた。経済の専門家ではないのに、「不景気不景気と言うが、平均株価が20,000円を超えたのだから、好景気に向かっている兆候ではないか」という主旨のことを書いた。バブル崩壊が株価や地価の暴落から始まったのだから、株価がある程度回復したのは好況になりつつあるはずだ、と単純に考えたのである。森永氏が書いているのは2002年の初めから「好況」が始まったということだから、小生の素人エッセーは、見当違いではなかったのである。

 ところで森永氏のブログの主意はタイトルの通り、なぜいざなぎ景気越えが起きているのに、国民の9割は実感できていないのだ、ということである。森永説によれば、ひとつは配分の不公平にある。好況がきて金が余っても、それは普通のサラリーマンには行かず、企業、それも大企業にいくから、中小企業も潤わない、というのだ。

 もうひとつは税制の不公平の拡大だという。発泡酒等の課税や配偶者特別控除の廃止など、庶民には厳しく、法人税減税など企業に有利な税制改革が進められているというのだ。森永氏はこれらの不公平の拡大で、せっかくの好況も庶民を潤していないと、批判しているのである。

 それならば、森永氏は一部の特権層だけが、不当に好況の利益を得ていると批判しているのだ。平成28年から29年にかけて、森永氏はテレビ広告に出ている。前の年は、肥満して、お腹が垂れ下がっている。翌年の広告では、ダイエットに成功してお腹も普通になり、締った体を誇示している。

 最初の肥満体は、明らかに飽食の結果で、貧しい生活どころか、贅沢三昧の食生活をしていたのである。それは貧乏人ではなく、お金持ちの生活である。それをわざわざダイエット会社のプログラムによって改善したのである。世界の発展途上国では、苦労してダイエットしなくても食料飢餓で痩せ細る

明かに、森永氏は好不況にかかわらず、飽食をできたのである。森永氏自身の言う特権層に属しているのである。森永氏は好況の時の不公平な世の中でも、有利な方を享受していたのである。森永氏が高収入を得ているのは、もちろんたゆまぬ努力の結果であり、非難すべきことはない。

ところが、森永氏は自身の努力と同時に、自身が批判している不公平の結果を十分に享受している。森永氏の映像を放映しているのも、出演料を支払っているのも大企業であろう。森永氏のブログの主張が正しいとすれば、その批判は氏自身にもブーメランのように戻って来ている。

もうひとつ倉山氏の同著で、疑問に思うことがある。「皇室典範がこのままだと皇族がひとりもいなくなるという危険性(P273)」があるというのである。これは皇室典範が女性宮家を認めていないことを言っていると推察される。女性宮家ができても、その子孫は女系である。すると、倉山氏は本書では明言していないが、女系天皇を認めよ、という主張なのだろうか。

ところが、平成29年の5月に、誰か覚えていないが、女性宮家でも旧皇族の男系男子を婿に迎えれば、男系男子は絶えない、と書いていた。なるほどという解決策である。もしかすると、倉山氏も、これと同じ解決策が念頭にあるのかも知れない。しかし、倉山氏と同じく、戦後皇籍を離れた旧宮家を復活する、という方法に言及しないのは小生には不可解である。

なるほど一度臣籍降下したものは、2度と皇族には戻れない、というが原則であるというのは承知している。しかし、戦後の臣籍降下は、GHQが皇室が将来維持できなくなるようになる、という深謀遠慮によって悪辣な脅迫同然に行われたものである。国際法違反、という以前に、日本人が許すべきものではない。

不思議なことに、保守系の論者でも、皇籍の復活について反対する者が多いように思われる。さきほどの論者でも、旧皇族の男系男子を婿に迎える、というのは実質的には皇籍の復活と同じである。なぜストレートに、GHQにより臣籍降下させられた旧宮家の復活を主張しないのだろうか。

 ところで、倉山氏の本に関しては、本論と関係ないところを取り上げたので、書評とはしない。しかし、いつもながら「憲法」全体と、成文化された「憲法典」を区別しての、憲法改正論議は読むべきものがある。

 

*日本国憲法を改正できない8つの理由・倉山満・PHP文庫

 

 


ゼロ成長の時代

2016-04-09 15:12:28 | 政治経済

ゼロ成長の時代

 経済は成長し続けなければならないものである、というのは一種の定理のようなものである。およそそんなことを聞いたことがある。現に日本の経済関係者は、現在の経済成長の少なさを問題にしている。しかし、平成28年4月6日の産経新聞の正論に榊原英資氏の「先進国が迎えたゼロ成長の時代」という論説が載った。論旨は、欧米の近代資本主義諸国は、覇権国は戦いにより入れ替わったが、フロンティアを開拓することによって、高度成長を続けていた。だが20世紀末までの成長に比べると、21世紀には先進国の成長は止まった。

 原因は先進国のフロンティアであったアジアもアフリカも、世界経済の重要な一部となり、フロンティアではなくなったこと、産業においても開発しつくされて、フロンティアとしての新たな分野が開拓されることもなくなった、という。結論はゼロ成長を容認し、「豊かなゼロ成長の時代」となるだろう、と言うのである。

 小生は結論には賛成である。冒頭のような成長の原則については、以前から疑問を持っていた。ただでさえ差のある先進国と発展途上国間で、先進国が発展途上国を引き離して、さらなる経済成長を続けるのに無理がある、と思うのである。だが榊原氏のフロンティア論は肝心な点が省略されているし、日本のケースは、西欧とは異なると言う点が無視されているように思われる。

 近代資本主義の始まりは16世紀からだとしているが、この時代からは西欧の植民地拡大による侵略という搾取によるものであり、フロンティアなどという綺麗な言葉とは程遠いものである。西欧諸国は植民地では暴虐の限りを尽くした。そのことを日本人は忘れてしまった。英国はインドで紡績職人の手を切り落としたのは有名な話である。そして第二次大戦後、植民地が急速に消滅すると、旧植民地は貿易相手や労働力供給と言う立場で、先進国の成長を支えた。植民地時代に比べれば、よほどましになった。

 その後、旧植民地が世界経済のプレーヤーとして参加すると、先進国のフロンティアではなくなった、というのは榊原氏の言う通りである。日本の場合には、欧米諸国の場合とは異なる。開国以来、近代資本主義社会に参加しても、植民地搾取により利益を上げることはなかった。むしろ、朝鮮、台湾などと領土拡大はしても、投資してかの地の近代化に奉仕したのである。この時代の日本の成長は搾取ではなく、自助努力であった。

 戦後はまた異なる。高度成長期は欧米諸国とのコスト差と、技術力の蓄積で成長を続けたのである。欧米諸国にキャッチアップすると、その後は戦後の欧米諸国と同様に開発途上国を利用したのだが、結局は欧米と同じく低成長に陥ったというのも榊原氏の言う通りである。

 また、「産業分野においてもフロンティアは開発しつくされ、新たな分野が大きく花開くことはなくなってきて」いる、と断定するのは早計に過ぎるように思われる。技術の進歩と飛躍は今後も続くと思うからである。ただ直観であるが、大きな経済成長に貢献するような、技術の飛躍と新たな産業分野が出現することはないように思われる。ただし「豊かなゼロ成長の時代」に貢献する新技術は現れると思う。


保守の心得・倉山満・・・倉山氏の経済考(2)

2014-11-29 13:38:15 | 政治経済

 戦後日本が高度成長を続けた結果、欧米に追い付けば、当然外国、特に東アジア諸国との物価差も表面化してくる。平成5年頃、アメリカに短期出張した時、一緒に行った他の会社の人は、日本製のゴルフのクラブや高級カメラなどを買って日本に送っていた。運賃を払ってもよほど安かったのだそうである。日本では同じものを高く買わされていたのである。当然、日本には物価を下げるべき圧力がかかる。小生はデフレは、根本的にはこれが原因であると考えている。世界水準からは、今でも高い物価がこれ以上上がったら、発展途上国との物価差が埋まらない。特に外国との競争のある商品は、物価差は重大な障害になる。これがひとつのデフレ圧力であると思う。つまり金融政策ではデフレはなくならないと思うのである。

 倉山氏は、日本の借金は国債として国民に借りているから心配ない(P111)というが果たしてそうだろうか。国債発行残高は千兆円を超えた。この大小はさておくとしても、問題は国債つまり国の借金が増え続けていることである。このままでは無限に増え続けて行くことになる。これはどう考えても無理がある。少なくとも国債発行の残高を減らすことは必要である。建設国債を除く赤字国債の発行はそもそも法律で禁じられているのであり、現在の赤字国債は特例として一時的に認めたのが延々と続いている違法状態である。

赤字国債を発行して均衡財政から離脱したのが、昭和四十年でそれ以来国債残高は増え続けている。つまり、それまでは健全財政、財政均衡を続けていたのである。赤字国債を続けよというのなら、健全財政から離脱し続ける理由を説明してもらわなければならない。

若槻禮次郎は「・・いざ戦争となれば、増税をしなければならず、外国から借金もしなければいけない、したがって平時は健全財政を行うこと」(P116)と回顧録に書いている。これが正論だと倉山氏自身が言っているのである。ところが今の財務省は田中角栄によるトラウマから「金融緩和や積極財政は悪い者。増税だけが正義」(P117)と主張している。しかし倉山氏が何と言おうと若槻はあくまでも健全財政を行い、借金はしてはならない、ということを前提としている。

ところがこの前提がいつの間にか飛ばされて、増税は戦争のような緊急事態でしかしてはならない、ということだけをピックアップしているから話が理解できない。倉山氏はなぜ国債残高が無限に増え続けてもかまわない理由を説明をしないから、小生にはその説の真偽が判断できない。倉山氏は若槻の主張を是としている。それならば、「平時は健全財政」を行うべきである。支出を減らさないとすれば増税しか道はないのである。現に欧米の高福祉国家は消費税10%とは低い方である。

また、国債は日本国民が持っているから、というがその状態がいつまで続くのか。また金利がゼロに近いからいいが、その状態がいつまで続くのか。国債発行が多くても構わない、という説明は現在の条件が無期限に続くことを前提としている。この世界では、何かの原因でハートのエースがジョーカーに化けるか予測が出来ないのである。

維新直後の政治家は立派で、大正昭和の政治家はだめになったというのは倉山氏ばかりでなく、多くの論者も語るが皮相的ではあるまいか。確かに近衛首相のようにマルキストに取り囲まれた愚かな政治家はいた。そのため、支那事変は終わらなかった。しかし、日本が孤立したのは、非白人国家で大国の仲間入りした、というのが根本的理由であった。明治の日本は弱小であり、欧米には利用すべき価値があったが、大国となった日本には、その価値が無くなったのである。小生は思う。大日本帝国が滅びんとする時、体当たり攻撃をも辞さなかった昭和の日本国民の指導者が、根本的には愚かであったはずがないのである。

現在では評判のかんばしくない、永野軍令部総長ですら開戦決定の御前会議後「戦うも亡国、戦わざるも亡国である。だが戦わざれば魂も滅び、真の亡国である。」という主旨のことを語ったのは有名である。現在の日本の指導者でこれだけの見識がある者がいるであろうか。

増税でアベノミクスが腰砕けになり、景気が悪くなり国力が低下するから外交にも悪い、というのは飛躍している。景気が上下変動するのを阻止するのは不可能である。景気変動があることは当然である。だからといって国力は低下しない。現に日本は世界三位のGDPがある。戦後の高度成長期の間にも、好景気も不景気もあった。

景気は良くなったり悪くなったりするものであるが、長いスパンでGDPが漸増すればいいのである。いつも好景気を維持するのは不可能である。だから目先の増税で景気が悪化するから増税はすべきではない、という理屈には無理がある。景気が悪化局面にはいってしまえば、減税すれば必ず景気が良くなると言うものでもない。世論を見よ。景気が良ければ、好景気維持のため減税せよといい、景気が悪ければ景気を良くするために減税せよと言う。自分勝手なものではないか。


保守の心得・倉山満・・・倉山氏の経済考(1)

2014-11-16 15:28:14 | 政治経済

 ここでは倉山氏の経済の見方に対する異論を述べる。「二十五年連続の不況に耐えながら世界第三位のGDPを保ち」(P35)なのだそうである。つまり倉山氏はバブル崩壊以来、日本は不況が続いている、というのである。これは政府の発表する、景気動向指数による景気動向判断によれば、明白な間違いである。時期についての正確な記憶はないが、戦後最長とされる、いざなぎ景気を超える長期の好景気がバブル以後に、確かにあったのである。

 不可解なことに、その当時の報道の文言は「戦後最長のいざなぎ景気を超える、長期の景気回復」であった。いざなぎ景気は「好況」あるいは「好景気」である。それをなぜか「景気回復」と置き換えたのである。まさか倉山氏はそれに眩惑されたのではあるまい。とにかくバブル崩壊以後、好景気と言う言葉は使われなくなった。事実平成十一年には平均株価は二万円を超えていたときがあったのである。

 ところで、倉山氏は「嘘だらけの日韓近現代史」で、景気について次のように書いている。

  小泉政権によって景気は回復軌道にあったとはいえ、根本的にはデフレが続いていました。「史上最長の好況」と言われても、平常に戻るまでに時間がかかりすぎ、・・・日銀総裁が量的緩和の解除という形で裏切り、景気回復策を続けられなくなったのです。(P229)

  これはどういう意味だろう。冒頭に引用した文では、二十五年連続の不況と言いながら、ここでは一転して好景気があったことを認めているのである。次の「平常に戻る」とは何のことだろう。それにしても、好況が長く続いたのは氏も認めているのである。しかも景気が良い状態を維持している時に「景気回復策」が続けられなくなった、というのは言葉の使い方として変ではある。好況が続いている時にすることは「景気回復策」ではなく、「好景気維持策」というのであろう。

  さらに不可解なのは、「おわりに」で

  しかし、二十年続いた不況がさらに二十年続いたら。私と同い年のロストジェネレーション世代は、人生の最も重要な四十年かを希望のない時代として過ごすことになります。(P247)

 と書くのである。再びバブル以後、好景気はなかったと言っているのである。小生は揚げ足取りをするつもりではない。だが矛盾は明白過ぎる。前述のようにバブル崩壊以後、日本の景気報道は、「好景気」という言葉を使うことに極度に慎重になって「景気回復」という言葉で誤魔化している。戦後からバブル崩壊以前までの長い期間は、好況が来たと言ってどんちゃん喜び、不況になったと言って、政府何とかせいと文句を言った。戦後その繰り返しだったのである。それがバブル崩壊で人々の意識は確実に変わった

 変わったのは単に実態のないバブルという状況にはしゃぎ過ぎたことへの反省ばかりではない。バブル期より少し前から、日本経済と世界経済との関係が、それまでとは変わってきたのである。それまでは、戦後のどん底から好況不況の波はあっても、マクロには経済成長まっしぐらだったのである。

 それがとうとう世界のトップランナーの一員になってしまったのである。賃金は上がって相対的に近隣諸国より遥かに高給取りになってしまった。しかも、中国が改革開放政策で、外国資本の導入を始めると、安い賃金で中国人が使えるようになって、国内の製造業は中国にシフトしていった。つまり戦後の高度成長期の日本を取り巻く環境は、バブルの直前から変わっており、バブルとは環境の変化の象徴である。つまり、バブルより前の好景気とは、製造業が、安くて品質のいいものを国内外に販売した結果である。

しかし、日本の賃金水準が高くなり、物価が高くなると、そのような好景気を作るのが簡単ではなくなった結果、土地の転売や株式投資という、生産ではなく金融で儲けるのが一番手軽な好景気の作り方となった。その結果がバブルである。バブルのきっかけは皆様忘れたろうがNTT株の公開である。プロしか株に手を出さなかったのが、主婦までが株を買い漁れば、株への投資資金が増加するから、株価が上がるのは理の当然である。倉山氏は政治や歴史についてのついでに経済を語っているので仕方ないが、それにしても、上述のような単純な矛盾を犯しているのは不思議である。

 


景気は変動する

2014-01-05 12:21:05 | 政治経済

 景気は変動する、この簡単な真理を政治家も経済学者も積極的には肯んじないのは、いかにも不思議である。景気の変動は力学にたとえれば一種の振動現象である。バネに吊るされた錘に様々な上下方向にいくつもの外力が次々と加わると、上下方向に振動する。これが振動現象である。外力が加わることが無くならない限り振動は止まらない。小生は景気とは振動現象のように、常に変動するものであると考えるのである。

 外力とは、需給関係や投資、経済政策等の景気に関係するもので、無数にあると言ってよい。これらの無数の外力は常に加わり変化している。だから景気は上下するのである。そのことは実際に、好況と不況が交互に来ていることで証明されている。だが、例えば政治家も経済人も消費税の増税をすれば景気が後退する、などと批判する。

 だが景気は様々な要因による振動現象である以上、どんなに適切な経済政策を行っても、変動は避けられない。常に好景気であるということはあり得ない。景気が好況から不況に転じたとき、適切な経済対策を行っても、景気の落ち込みの幅を小さくできるのに過ぎない。

 バブルの頃を思い出してみるがいい。土地価格や株価はいつまでも上がるかのように、経済評論家は煽った。景気が振動現象だとすればそんなことはあり得ないことは初手から決まっている。税収が増えて余った挙句、ふるさと創生などと称して、全国の全ての自治体に一億円づつばらまいた。国債の残高を少しでも減らす絶好のチャンスだったのに愚かな事をしたものである。一方野党は景気を維持するために減税せよと言った。景気が悪い時も減税せよと言ったから、常に減税せよと、大衆に迎合しているのに過ぎない。

バブル崩壊後は反対に景気判断については極端に慎重になって、「好景気」あるいは「好況」と言うことを言わず「景気回復」という奇妙な言葉を使った。バブルの後も好景気はあった。平成14年頃から数年は好景気が続いた。しかも戦後最長期間好景気は続いたのである。しかし、新聞やテレビのニュースで使われた文字は「いざなぎ景気を超える長期間の景気回復」という奇妙なものであった。