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毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

戦艦の砲撃術について

2015-04-11 13:05:59 | 軍事技術

戦艦の砲撃術について

 

 「戦艦十二隻」という本がある。その中で旧海軍の黛治夫元大佐と吉田俊雄元中佐が、戦艦の射撃について書いている。その中の、吉田氏の射撃砲に関する記述は意外であった。黛氏も吉田氏も砲術の専門であり、吉田氏は後述のサマール沖海戦で、大和の副砲長をしていたというのである。

 戦艦が射撃をするには、発令所にある射撃盤という大型の計算機があって、入力するデータは、目標までの距離、目標の進路、速力、自艦の速力などである。これによって、射撃諸元を計算して、指揮所と各砲塔に電気信号として送信する。(P124)

 ところが、敵艦の進路、速力は極めて重要な要素であるにもかかわらず、自艦上から測定する装置はまったくない、というのである(P130)というのには驚いた。その前段で、30kmの距離で敵艦が30ktで走っているとすれば、弾着までに900m動いていると、書いているのである。方向も分からないのだから、この誤差はさらに拡大する。

 進路と速力を補正するのには、飛行機の観測によるか、周囲の状況から推定するしかなかったというのである。推定とは、目視により構造物の向きで進路を、艦首や艦尾の白波の立ち方で、速力を判断する、と言うことである。日本海軍が零戦の滞空時間を恐ろしく長く取って、観測機を援護しようと考えたのは至極妥当なことであった。

 ところが、栗田艦隊は比島沖海戦の際に、早期に艦隊の全観測機を陸上基地に帰してしまった。吉田氏は、サマール沖海戦の際に大和は初弾から命中弾を与えて敵空母を撃沈した、と書くが(P135)、事実は、大和も長門も一発の命中弾も与えていない。スコールや敵駆逐艦の煙幕展張の妨害にあっているが、観測機があれば、支障なかったであろうし、そもそも護衛空母を正規空母と見誤ることもなかったであろう。

 ここで疑問に思うのは、米海軍の射撃方法である。米海軍のMk37射撃指揮装置は対水上、対空兼用であり5in両用砲用のものである。対空射撃では日本の九四式高射装置に比べ、格段の高成績を挙げている。対空用で精度を上げるには、飛行機の進路や速度も知らなければならないから、当然Mk37はこれらのデータをレーダー以外の何かで得ていたはずである。戦艦霧島の撃沈はレーダー射撃によったと書いてある資料があるが、米軍とて当時、レーダーは補助手段であって、厳密な意味でのレーダー射撃はできなかった

 古本であるが丸スペシャル「砲熕兵器」によればMk37の計算機は、目標距離11,000mでの射撃データ計算時間は10秒であったとされている。例えば、飛行機の位置の何箇所かのデータから、飛行機の針路や速度を計算し、砲弾の到達時点での飛行機の位置を計算していたのであろう。アナログコンピュータであるにしても、10秒は長いが、これは観測データ入力から計算機の出力の間に人間が介在していることが原因ではあるまいか。

 遥かに高速であり、三次元の動きをする飛行機で、このようなことが可能であれば、鈍足かつ二次元の動きしかしない、艦艇ではより容易であったろう。そう考えるのはMk37が対水上用も兼ねているからである。とすれば、5in用のMk37ばかりではなく、同時期の戦艦の主砲用の射撃指揮装置も同様に、敵艦の進路と速度も得ることができていたのに違いない。もしそうならば日米の戦艦の主砲の命中率には大きな差が出る。特に初弾においては甚だしいであろう。

 戦艦十二隻の中で黛氏は、米海軍の砲術進歩の調査を命じられて、昭和九年に渡米留学し、昭和十一年七月に帰朝したとしている。この間に米退役軍人から得た「一九三四年度米海軍砲術年報」を分析すると、米海軍の大口径砲の命中率は日本の約三分の一であった。その原因は散布界の過大にあることは間違いない(P239)としている。これは、この時点での日米の射撃指揮装置自体に優劣はなく、命中率の差は主砲の散布界の大小だけによる、ということになる。軍艦の射撃訓練は、固定目標ではなく、艦艇で標的を曳航していたのである。ということは、この当時米海軍でも、計算機で敵艦の針路や速力を得てはいなかったということであろう。

 ところで「砲熕兵器」によれば、Mk37は昭和十一年に開発が開始され、昭和十四年に実用化の目途がついたとされる。黛氏が米国から帰ったころ開発が開始されていたのだから、その後日米関係が悪化の一途を辿ったことを考え合わせると、それ以後の米国の砲撃術の情報は入ってこなかったのであろう。従って、Mk37と九四式高射装置の差と同様の差が、日米の戦艦の主砲の射撃指揮装置にもあったとしても不思議ではない、というのが小生の今のところの結論である。

 小生は昭和五十二年刊行の黛氏の「艦砲射撃の歴史」という本を入手した。これにも昭和十一年ころまでの日米の戦艦や重巡の大口径砲の射撃についての記述がある。昭和十五年ころのデータについては、戦艦に関しては、米国のものは無いようで、読む限り海自の元海将から最近(多分昭和五〇年ころ)米海軍当局から入手した米重巡の20cm主砲のものしかないようである。(P306)つまり黛氏の米海軍の戦艦の主砲の砲術についての知識は、昭和十一以降は全く欠落しているということになる。昭和十一年以降に改良がなされていたとしても、分からないのである。

艦砲射撃の歴史は、実はほとんど読んでいないので、今後読み解けるものがあるかもしれないが、このような訳で多くは期待できないと思う。日米戦の新戦艦のノースカロライナ級、サウスダコタ級、アイオワ級と大和級の主砲の射撃指揮装置の相違について知りたいと思う所以である。


書評・技術者たちの敗戦・前間孝則・草思社文庫

2015-04-04 15:42:09 | 軍事技術

 堀越二郎をはじめとする、主として兵器設計に携わった技術者たちの戦中戦後を各章ごとに記述する体裁となっている。

 最も興味深いのはやはり、堀越二郎であった。それは、小生の堀越観をさらに深めてくれるものであり、一般に堀越が伝説的な名設計者であると言う、最近の零戦神話と組み合わさったものと、ほど遠いものである。兵頭二十八氏だったと思うが、現在の日本の零戦神話は、戦後の奥宮正武氏との共著が始まりであったことを指摘しているが、本書も全く同じことを書いている(P41)。

 さらに零戦神話は、戦った米パイロットの語られる零戦の強さによって伝説と化していった。そうすると、堀越はそれまでは、「零戦に対する欠点や自己反省を口にしていた頃とはかなり異なる姿勢をとるようになっていく・・・零戦をポジティブに語る姿が目立つようになった。物静かな紳士であるとともに、技術者として絶対的自信を深めているかのように見受けられた。(P60)というのである。堀越は一貫した信念の持ち主であったように思われているが、実はこのように評判に敏い普通の人物であったのである。

 戦後の飛行機設計技術者として信頼のおける論評をしている、鳥養鶴雄氏は零戦を通じて憧れた堀越にYS11の設計で接して、的外れのクレームをつけられたばかりではなく、「実際に接した堀越さんは、われわれには、この子供たちになにがわかるのか、という態度でほとんどコミュニケーションが成り立ちませんでした」と語る。この印象はYS11に関係した若い設計者全般に共通していて「堀越さんはちょっと冷たくて、近寄りがたいところがある人だった。・・・」(P53)というのである。

 「緻密で融通がきかない職人的スペシャリスト」という項を設けて、「・・・堀越の性格を簡単にいってしまえば、専門性に徹して没入するタイプの、航空機設計の職人的スペシャリストである。・・・自ら集団に溶け込もうとする性格でもなく、・・・自分の世界に閉じこもって思索するタイプだっただけに管理者向きではなかった。」と論評している。戦前一緒に働いた後輩たちは、三菱重工の副社長や三菱自動車の社長まで歴任する人が何人も出たのに、堀越はラインの部長にすらなれず、顧問的立場の技師長どまりだった。

何で読んだか忘れたが、堀越が防大教授をしたときの教え子が、彼の授業は、飛行機の重量軽減のことばかり言い、毎回機体の重量計算ばかりさせていたと書かれていた。しかも、別のものに載せられた二人の証言だから間違いではあるまい。もちろん批判的な言い方ではなかったと記憶している。不思議な授業もあるものである。

 職人的設計者とは堀越について以前から感じていたことである。職人気質というのは、自分自身で物を加工する、ものづくりでは素晴らしい資質であるが、技術者に冠すると間違いなく欠陥があると言っているのに違いない。堀越に限らず、戦前の飛行機設計者は設計技術の多くを欧米の技術に依拠していたにもかかわらず、それについて語ることは極めて少ない。

ところが「堀越さん自身、米極東軍がおぜん立てしていた戦前の航空技術者のあつまりでは、零戦の欠点や欧米機の真似をしたことを正直に吐露していたりした。」(P38)というのだから驚く。著書の零戦では日本の基礎工業技術力や海軍の航空行政については辛辣な批判を展開しているものの、米軍による会合で述べたであろうことは書かれていない。

また、米軍が零戦の空戦性能を高く評価していた、というのだが、ある証言によると朝鮮戦争で来日した第二次大戦時の米パイロットに、零戦と同じ空冷星型で低翼単葉樹の写真を見せると、零戦以外でも全て「零戦だ」といったと言う。(P38)これは案外知られていることで、隼などの陸軍機についても、米軍の専門の技術者はともかく、米軍の現場のパイロットは大戦初期にはけっこう苦しめられていて、これを一羽ひとからげに、「零戦」として恐れていたのである。

また大本営は昭和十九年秋に、大本営が「海軍・零式戦闘機」として国民に広くアピールした(P35)というのだが、陸軍の一式戦闘機などは早くから「隼」の呼称が宣伝され、飛行六十四戦隊歌、いわゆる加藤隼戦闘隊の歌や、昭和十九年に公開された映画「加藤隼戦闘隊」で実機を使った空戦シーンなどもある名画で、戦時中から国民の知名度は、零戦に比べ、遥かに高かった。意外でもないが、海軍は一般的には秘密主義で、広報に関しては陸軍の方がよほど積極的であった。


ヘルダイバーの要求仕様の無茶

2015-02-21 14:49:18 | 軍事技術

 米海軍の艦爆SB2Cヘルダイバーは、12.19m×13.72mのエレベータに2機搭載できるように、主翼を折りたたんだときの全幅を5.18m以下にするという要求であった(世界の傑作機No.40による)。そこで全長が11.17mとなった。この数字は97艦攻、天山、九九艦爆、彗星などに比べて大きい数字であるが、全長不足による縦安定不良の改修に手間取った。

 これは、前掲の日本機が、1トン前後も軽いことにより、問題が無かったのである。ちなみに最後の艦攻、流星は全長11.49mとヘルダイバーを超えているから納得できる。更に大型のアベンジャー雷撃機は全長12.48mもある。ところが多くの設計変更を加えた結果、量産機のヘルダイバーは折りたたみ時全幅6.94mと要求が無視されている。

 無理して寸詰まりにして安定不良を起こした上に、エレベータに2機搭載すると言う要求も満たせなかったことになる。ここからは小生の推測だが、全幅が増えた原因はふたつある。アベンジャーは12.48mの全幅ながら6m以下と言う折りたたみ時の全幅を実現している。

 それは、グラマン社得意の、折りたたみ部の主翼を一度90度回転させてから、後方へ折りたたむ機構だから、折りたたみ部の主翼幅が大きくても、全高は折りたたみ前の全高以下に収まるという優れものである。これに対してヘルダイバーはオーソドックスに折りたたみ部を上方に跳ね上げる方式である。一方で、主翼の試験結果から揚力係数不足が判明し、面積を4m2近く増やす羽目になってしまった。

 すると、折りたたみ翼幅制限を守ろうとすると全高が高くなってしまって、格納庫内の高さ制限に収まらなくなってしまったので、折りたたみ時の翼幅制限を解除せざるを得なくなったと言うストーリーが成り立つ。安定の改修などに相当な時間をかけているので、実際にはこんなに単純に時系列を追って進んでいたわけではあるまい。しかし、原因としてはおおむね、こんなところであったと思う。

米海軍の無体な要求から、実用化が大幅に遅れることになってしまったが、結局はドーントレス艦爆の後継として量産されて活躍したのだから、結果オーライなのであろう。小生も日本陸海軍の航空行政批判は多くしているが、どこの世界にも、そのような無体はあるもので、心して批判しなければならないと思う次第である。小生はヘルダイバーのバランスの悪い寸詰まりのスタイルは実好きなのである。もっとも、大和を始めとする日本海軍艦船を多数沈めた、にっくき奴ではある。


艦上機の機能分化は日米海軍の先見の明

2015-01-17 13:41:04 | 軍事技術

 英海軍は複座の艦上戦闘機あるいは、艦上戦闘爆撃機なる珍機種を次々と開発した。あるいは、ファイアブランドなる巨大な艦上戦闘機を開発した。これは戦闘機としては使い物にならず、結局雷撃機や艦爆として使われたが、単座なので中途半端であった。根本的には設計思想の混乱や、他機種からの転用が原因である。しかし、屁理屈をこねられないでもない。空母に搭載できる艦上機の数は限られている。すると、制空、雷撃、急降下爆撃、偵察などの各機能をできるだけ兼用した方が良い、と言えないこともない。

ところが、戦闘機を雷撃あるいは急降下爆撃と兼用した結果は、戦闘機としては使い物にならない、ということであった。対戦闘機の空中戦で到底勝てるしろものではなかったのである。もちろん、雷撃あるいは爆撃の用途としても使いにくかった

 日本海軍はその正反対をいった。つまり、艦上機は陸上機より制約が多いから、陸上機より全般的に劣る結果となる。それを陸上機に近づけるためには、機種を用途別に細分化させる、というものであった。この結果、艦上偵察機、という例の少ない機種さえ作った。日本海軍に近い考え方の米海軍でさえ、偵察任務は艦爆に兼用させていた。日米海軍の艦上機開発の思想はシンプルで一貫して混乱が無い。

 英海軍は中途半端な艦上機を開発して混乱し、米国製の艦上機を使わざるを得なくなったのである。さらに、日米海軍は開発や運用にも適材適所で柔軟であった。彗星艦爆の試作機が高速を発揮すると、二式艦偵として採用する一方で、彩雲艦偵も開発した。大戦末期には、艦攻と艦爆を兼用する流星を開発した。米海軍は、ジェット機時代では、ビジランティ艦攻が核攻撃機としても、戦術攻撃機としても中途半端なことが分かると、早々と艦偵に切り替えて活用したし、F-18は攻撃任務も兼用させてF/A-18として使っている。

 英海軍に比べると、日米海軍の艦上機開発には先見の明があった。英海軍の唯一最大の取り柄はハリアーVTOL戦闘機をスキージャンプ台を使用して、短距離離陸、垂直着艦という機種を発明したことだけだろう。それで後継機として、F-35Bが開発されたのだから。


大型機による艦艇攻撃は割に合わない

2014-12-30 13:36:06 | 軍事技術

 B-17は、緒戦でさかんに日本海軍の艦艇を爆撃したが、ほとんど戦果を挙げていない。当然であろう。5千メートル以上から爆撃するから滅多に命中しない。だがB-17の使用目的のひとつも、このような艦艇攻撃にあったから、結果を出せなかったのである。

 日本の陸攻は、マレー沖海戦では、わずか3機の喪失で2隻の戦艦を撃沈する、という大戦果を挙げた。これは、都合で空母の護衛ができなかったために、戦闘機の援護がなかったことと、英戦艦の対空火器が貧弱だったことによる。

 しかし、この戦果に味をしめた日本海軍は、陸攻を重用したが、その後は3年間の戦果の合計は、マレー沖海戦の一度分にも及ばなかったと思われる。海軍航空が元気であったラバウル航空戦で、陸攻は常に米軍に撃退されている。

 艦船攻撃を効果的にやった爆撃機は、大戦後期のB-25などによるスキップボミングすなわち反跳爆撃による船舶攻撃で、巡洋艦以上の艦艇には、ほとんど実施されていない。対空火器が極めて少ない輸送船を狙ったものがほとんどである。

 それも、対空火器を制圧する為に、機首に装備した多数の機銃を打ちっぱなしにして、攻撃したのである。このように、大型機による艦船攻撃は、高高度水平爆撃では、比較的安全だが命中しない。雷撃や反跳爆撃は効果が大きいが、魚雷や爆弾を投下する前に、直進しなければならないため、特に図体の大きい爆撃機は対空火器の目標になりやすい

結局日米共に、大型機による艦艇攻撃ということを戦前から企画しながら、結局は失敗に終わっている。米軍は陸軍ないし、空軍が爆撃機の任務のひとつとして、艦船攻撃を企画したのに比べ、特に日本海軍は、艦船攻撃を主任務とした陸攻という、従来の海軍航空にない機種を発明したから、失敗によるロスは大きい。

日本海軍が陸攻を発明したのは、主力艦の戦力不足を補うために、大型機による大航続距離を利用して、陸上基地から米艦艇を迎撃しようというのであった。その期待は大きかった。もちろん結果論であるが、陸攻よりオーソドックスに艦攻や艦爆を多数整備した方が、物的資源、人的資源の有効活用になったのである。

もっともこれは、相手が米軍でなかったら、話は違う。以前に論じたとおり、英海軍の艦上機開発は惨憺たる有様で、米海軍の支援が無かったら、まともな艦上機運用はできなかった。英海軍は戦前既に1.5流に成り下がっていたのである。


空母の脆弱性について

2014-12-20 12:16:34 | 軍事技術

 ミッドウェーの3空母は攻撃隊の準備中にわずか2~3発の1000ポンドないし500ポンド爆弾の命中で炎上沈没した。これは日本空母の脆弱性に起因するとみられることが多いが、根本的には一般的な空母の脆弱性によるものであろう。

 米海軍にも同様の例があるからである。正規空母エセックス級のフランクリンは、沖縄戦で銀河または彗星の通常攻撃により、2発の爆弾が命中した。この爆弾は500kgの可能性もあるが、250kgだったと推定されている。爆弾は燃料と兵装を満載した艦上機のいる格納庫で炸裂して、火災を起こして沈没寸前にまで至った。

まさにミッドウエーの南雲艦隊の再現である。兵員の決死のダメコン作業で辛うじて沈没をまぬかれたが、7百人余の戦死者を出している。ミッドウェーの四空母のうち何隻かでさえ、曳航して沈没させないことも、周辺の状況によっては可能であった。しかも世界の艦船(`12年6月号)によればフランクリンは火災による船体の歪がひどく、修理には新造と同程度の経費がかかるため、修理は放棄された。沈没していないだけで全損したのである。米軍のことだから船体の損失よりも多くの人員の喪失に恐怖したことだろう。

元々ダメージコントロールに優れている米空母が戦訓によって更にタフになっていたはずなのに、わずか2発の250kg爆弾によってこれだけの被害が出るのである。空母バンカーヒルにも零戦二機が2発の250kg爆弾を命中させて、大火災となり、死者と行方不明400名近くの損害を出している。プリンストンは軽空母だが、彗星が投下した、わずか1発の500kgないし250kg爆弾が格納庫で爆発して、大火災を起こして、米駆逐艦の雷撃処分された。

つまり、米空母ですら、爆弾が少数でも命中すれば、かなりの損害が出ている。しかも、日本軍の散発的な攻撃によってである。多くの米空母が損害を免れていたのは、徹底した早期発見による護衛戦闘機の活躍と優秀な対空火器システムとによる、防空体制のおかげである。それでも爆弾が命中すれば前述のような大きな被害を出していたのだから、当時の空母は一般的に、被害に対して戦艦に比べはるかに脆弱であったと言える。

 


米戦艦は航空攻撃に勝っていた

2014-11-14 13:29:30 | 軍事技術

米戦艦は対艦攻撃機より強い

 第二次大戦で、戦艦に対する飛行機の優位が証明された、とするのが定説である。しかし、第二次大戦中の米戦艦に関しては、話は別なように思われる。英戦艦に関しては、九六式陸攻や一式陸攻といった大型鈍重な機体さえ、独力では排除できなかった。二隻の戦艦に対して随伴するのが、巡洋艦なしで、駆逐艦だけ四隻と言う貧弱かつ変則的な編成であったのも英海軍の間抜けさであった。

それでも、戦闘機の防空体制があれば、陸攻の攻撃は極めて困難であったと考えられている。日本海軍は、大戦果にそのことを等閑視して勝利から戦訓を得ず、陸攻によって容易に戦艦は撃沈できると考えて、ラバウルでの航空戦を戦って機材とパイロットの損耗を重ねた。

ラバウル航空戦を含め、大東亜戦争の期間中、真珠湾攻撃と言う停泊中の奇襲攻撃を除けば、日本機が米戦艦を撃沈したことはない。米戦艦に撃沈に至らずとも、航空機より大きな戦果をあげたのは、潜水艦であった。多くの戦記を読めば、航空機に対して米戦艦は自艦の対空砲火で防御することができていたようと考えられる。逆に日本機は駆逐艦ですら航空攻撃にてこずっている。

米海軍では、随伴の駆逐艦はほとんどが、両用砲で対空射撃ができたから、エスコートの役割が可能であったが、他の海軍はこのような駆逐艦を持たなかった。両用砲がなければ、駆逐艦の40mm以下の機銃では、有効射程距離からして自艦の防御をするのが、せいいっぱいであったろう。

単独航行していても、米戦艦に日本機は大きな被害を与えることができなかったのであろう。このことは、複葉機すら撃退できなかったドイツ戦艦や、陸攻に撃沈された英戦艦、もちろん日本戦艦もであるが、米戦艦の個艦防空能力は隔絶したものがあるように思われる。

小生はこの相違は、以前書いたように、対空火器管制システムの優劣だと考えている。とすれば同一システムが英国に供与されていなかったことになり疑問を感じるが、マレー沖海戦の戦闘航海中の英戦艦が、二隻でたった三機の陸攻しか撃墜できなかった事実から、Mk.37などの米国製火器管制システムあるいは、類似のものが技術供与であっても提供されていなかった可能性が大である。少なくとも昭和16年の時点ではそうであったのに違いない。開戦時に二隻の英戦艦が相手にしたのは、防弾装備の優秀な米軍機ではなく鈍重かつ防弾装備がないか、なきに等しい陸攻であったからである。

戦後、ソ連が米艦隊に対して考えた対艦攻撃法は、実に理にかなったものである。米艦隊への有人の攻撃機では確実に撃墜され、人的にも機材にも被害が大きすぎる。第二次大戦後、ミサイル誘導技術が飛躍した結果、無人の対艦ミサイルが実用化された。しかし、小出しに対艦ミサイルを撃ち込んでも確実に撃墜されて戦果は得られない。そこで飽和攻撃を生み出した。いくら対空火器が優秀でも、防空戦闘機が守っていても、対応可能なミサイルの数にはシステム上の限界がある。

従って、その限界を超える数のミサイルを撃ち込めばいいのである。これが飽和攻撃である。それに対して米国が発明したのは、多数の敵機を同時に処理できるイージスシステムである。この発明によって処理可能なミサイル数が飛躍的に増え、飽和攻撃は現実には困難となった。これが現在までの艦艇と航空機の矛と盾の争いの経緯である。従って第二次大戦中はもちろん、戦後もしばらくは、米戦艦への対艦攻撃は極めて困難であった。すなわち米戦艦は航空機よりも強かったのである。

 

 


なぜ米海軍は18in砲を採用しなかったのか

2014-07-21 12:45:07 | 軍事技術

なぜ米海軍は18in砲を採用しなかったのか

 

 米海軍は、アイオワ級の後継のモンタナ級で、大和級に迫る基準排水量6万トンを超える大型戦艦を計画したにも拘わらず、主砲口径は16inにとどめた。なるほど三連装砲が3基から4基に増えて、装甲も強化しているから排水量の増加は当然である。だが、排水量を大幅に増やしたのに、なぜ大和のように18in砲にしなかったのかという疑問が、長年残った。もしかすると、その答えは意外なところにあったのかも知れないと、最近ある本を読んで考えたのである。

 それは「続・海軍製鋼技術物語」(アグネ技術センター刊・堀川一男著)(以下続編という)である。続とあるように、本編があるのだが、続編ですら100ページで1,600円と高い、本編はその倍以上する。問題は高いことばかりではない。内容は金属材料学にかなり精通していなければ、猫に小判、豚に真珠である。

 小生も通り一遍の金属材料学を勉強したが、VHだとか、NVNC鋼板などという軍艦に使用する装甲鈑については、ちんぷんかんぷんである。現在でもほとんど公開されていない、兵器に関する工学的知識がなければ完全には理解できない。

逆に言えば、内容が理解できれば値段は安い位だと言える密度の濃く貴重な本である。まだ続編ならば、多くが米軍が試験した日本の砲弾と装甲鈑のデータ集である。これならば、小生にも少しは読めるところがあると買った。もっとも1か月後には本編も買ってしまったのだが。

 閑話休題。続編P61には「開発の当初は九一式徹甲弾の領収試験は表7.1のように非浸炭表面硬化甲鈑のVHと均質甲鈑のNVNCの両方で試験していた。ところが大口径弾はNVNCに激突すると弾体が破壊するので実施されなくなってしまい、・・・」とあり、8inだけがNVNCで試験し、戦艦に使われる14~18in砲弾では、VHで試験していた表が次に示されている。

 つまり、口径が大きくなるほど、徹甲弾は均質甲鈑であるNVNCに衝突すると貫通する前に弾体が壊れてしまいやすくなるということである。適切な例ではないが、大きさの効果について説明しよう。昔年の航空機用の大型液冷エンジンは、ほとんど全てV型12気筒だった。更に大出力にするには、1気筒当たりの容積を大きくすればよさそうなものだが、そうは単純にいかない。気筒の容積は寸法の3乗で大きくなるが、表面積は2乗でしか大きくならない。容積は発熱量に比例し、冷却効果は表面積に比例するから、気筒容積を大きくすると、冷却可能な限界が生じる。そこで、W型24気筒などのように12気筒エンジンを並べるなどして気筒数を増やして、出力を増加するという無理をした。

 このように同一技術水準の場合、大きさに限界が生じる場合がある。力学的な事例をあげられなかったが、海軍の試験結果から、主砲弾の口径にも限界があったのではないか。弾体が大型化すると、衝突時に弾体が貫通する以前に破壊してしまう傾向が強くなるのではないか。そこで発射速度や爆風が周囲に与える影響の大きさなどの、他の要因も考慮して、米海軍は16in砲弾が実用上の限界とみたのではないか、と考えてみたのである。もちろん何の証拠のない仮説ではある。

 しかし、小生にはよく分からない記述もある。本編P159には、「大口径砲弾にはCr炭化物の硬質層は無力なばかりか熱処理時に亀裂を発生しやすくするので、金と手間のかかる浸炭を省くことにした。・・・また焼き入れで表面層を硬化する方法を考えた。これが「VH甲鈑」で「大和」の建造に貢献した。」とある。ここで本編P160によれば、NVNCとVHは成分が全く同じで、鍛造その他の工程が同じだとすれば、違いは上述のように、焼き入れして表面を硬化させているか否かであると考えられる。

 NVNCが均質甲鈑であるという意味が、浸炭やVHのように焼き入れによる表面硬化もしていないものとすれば、成分が同じだから安価となるはずである。安価であり、14in以上の大口径砲弾を破壊してしまう、NVNCの方がVHよりも戦艦の装甲鈑としては適しているのではないか、とも考えられる。小生は到底両書を読み切れる知識も経験もなく、字面だけで、それも一部読んだだけで考えたのである。この仮説に自信が持てない所以である。どなたかにご教示いただけたらと思う次第である。

 


航空記事の怪

2014-05-25 15:02:56 | 軍事技術

1.1990年モデルアート社刊の第2次大戦ドイツジェット機

航空機に関する雑誌や刊行物は多い。その中で、飛行機の性能等について書いた記事がある。鳥養鶴雄氏のように、設計の経験のある人物の記事は別として、多くの記事において、子細な機体のディティールには驚くほど詳しいにもかかわらず、一方で初歩の物理さえ知らないと思われる記事が少なからずある。

 航空機そのものではないが、以前、艦艇には左右に非対称性がないにもかかわらず、航空母艦の艦橋は、わずかな例外を除いて、右舷に設置されているかを説明して、世界の艦船誌の投書欄に掲載されたことがある。読んでいただければあまりに単純な話だが、その程度のことを日本の関係刊行物で説明したものが無かったのである。ここでは、その例を掲げる。 

He280の記事である。曰く「・・・尾輪式では、ジェット排気が水平に流れず地表にあたってしまい、離着陸時のパワーを殺してしまうので、前車輪式は理にかなっていた。」という。物理の初歩さえ知っていれば、こんなことは考えない。推力はガスを高速で噴出する反動で得られるから、噴出したガスが、その後どこに当たっても推力は変化しないのは自明である。

初歩的な例えをすれば、ボールを投げるとボールが進む反対方向に、人間は押される。しかし、人間の手を離れたボールが、その先地面に当たったからと言って押される力に変化はないのである。航空技術に関する記事を書く者が、この程度の物理を理解していないのは不可解である。

 もっともジェットエンジン機の前車輪式は、高温のガスが、滑走路に直接当たらないと言うメリットはある。

 2.ミリタリー エアクラフト・1998年3月号

 零戦五四型の記事である。プロペラによる推力は直径が大きいほどよいことと、日本機は軽量化のためにプロペラ直径を小さめにとる傾向があることを述べたうえで、次のように書く。

  話を五四型丙に戻すと、直径が10cm増えたことにより、推力はざっと5%も増える計算になる。「たった5%」というなかれ、これは大変な値である。これで最大速度と上昇力は2~3%増えることになる。五四型丙による性能向上は実はエンジン換装ではなく“プロペラ換装”による可能性がある。となると、果たしてエンジン換装は必要だったか、という深刻な疑問も生じる。結論から先に言うと「エンジンを換装せず「栄」を改良してプロペラ直径を伸ばすという手もあったのではないか?」ということである。

・・・「栄」系列は日本で最大の量産エンジンで、基本性能も優れている。このエンジンの減速比をもう少し大きくして、プロペラ直径を3.15mとすれば同じ結果が得られたのではないか。

 というものである。これは金星エンジンに換装したにもかかわらず、最大速度の向上が2~3%程度でしかないことから考えた結論であろう。この文章を総合すると、エンジンの出力が増えようが、増えまいが、プロペラの直系の増加によって推力は増加するから、最大速度も増加する、という実に奇妙な結論となる。

 プロペラ直径を増やして推力が増える、というのは風呂ベラの断面の寸法も形状も変えず、回転数もピッチも変更しない、という場合である。それはエンジン出力を増加しなければ不可能であるのは、明白である。だから筆者が自ら書くように、プロペラ直径を増やして回転数を落とさないと栄エンジンでは10cm増えたプロペラを回せないのである。当然回転数を落とせば、金星エンジンと同じ推力は維持できない。この文章はこういう矛盾を平然と犯している。

 百式司令部偵察機の例を見よう。Ⅱ型は離昇出力1,080馬力のエンジンで604km/hの最大速度を得ている。三型は離昇出力1,500馬力のエンジンで630km/hの最大速度に向上している。しかしプロペラ直径は同じ2.95mである。先の文章の理論ではこのことを説明できない。


日本の戦艦改装と航空機の性能向上の不合理

2014-05-18 16:22:02 | 軍事技術

 日本の戦艦は、竣工から何回も改装されていることが知られている。主機の換装ということさえ行われている。特に外観上明瞭なのは、艦橋構造物が頻繁に改装されていることである。ただし欧米の戦艦の艦橋の大改装の場合、コンテ・カブール級のように、三脚檣から近代的な塔型艦橋に改装しているのに対して、基本の三脚檣、あるいは長門型のように7本柱の基本はそのままに、次々と艦橋施設を追加し続けていることである。

 このため、最終形は極めて複雑な構造となり、パゴダマストと呼ばれている。この方法は、基本構造が変わらず、少しづつ改装していくことができるため、一気に塔型に変えてしまうよりは、その時々に於いては簡単である。その代わり、最適な艦橋内配置が出来ないこと、構造的に無駄が多くなる欠点がある。すなわち同じ機能を保持するためには重量の無駄が多くなる。例えば艦橋トップに追加された測距儀を支えるために甲板から巨大なガーダーを追加したと説明されている。だが、このガーダーは、実際には、測距儀だけのためではなく、小改造の繰り返しで重くなった艦橋を支える三脚支柱の強度が不足になったためであろうことは想像がつく。小改装の繰り返しであのパゴダマストを作るのは、一回づつの作業は容易ではあるが、最終的には効率が悪い。あれだけ高い艦橋でトップヘビーにならないのは、各フロアには前面と側面の一部にしか壁がない、鋼板を断片防御すらない薄っぺらのものにしている、などの無理を重ねているからであろう。またフロア面積や配置も効率が悪いものになって、指揮には不便だろう。

 それならば、古い艦橋を撤去して新しいものを設置し直すのは、鋼材の無駄になるのだろうか。当時の日本の鋼材はアメリカから輸入したスクラップが使われている。つまり、撤去した艦橋は別な用途に使えるから、トータルとしての鋼材のロスはない。それならば、英米仏伊海軍が行ったように、小改装での対応はある時点で見切りをつけて、艦橋の改装は最適な構造となるように、全面的に改設計すべきなのである。

 それなら飛行機改造の考え方はどうか。これも米英独ソ仏伊の行きかたと日本の場合は大きく異なる。日本の場合は、極力改造の幅を少なくして、エンジンの大幅パワーアップの場合などは全く新設計にしている。戦艦とは逆なのである。確かにエンジンにあった最適な設計をし直すことは、全てにとって望ましいことである。しかし、これにもデメリットはある。完全な再設計であるために、風洞実験など基礎的な設計過程を一からやり直さなければならない。生産に使う冶具の多くは全く新規に作らなければならない。つまり新設計は実に労力と時間と資源のロスが多いし、時間もかかるのである。一品作りの戦艦と、大量生産の相違がここに現れている。

 つまり戦時中に新規設計を行うと、大幅に性能向上はするが、戦争に間に合わない可能性があり、次善の策として既存の機体の改造で行えば、戦争に間に合うのである。現に日本軍で大東亜戦争で開戦後に開発を開始したものは多数あるが、実戦に間にあったものは彩雲だけである。この点は他の国で大同小異である。Me109もスピットファイアも戦前のかなり早い時期に開発され、改造を続け最後まで第一線で活躍し続けた。両機より後に開発されながら、細々と改造を続けて旧式化していった零戦とは大違いである。陸軍も一式、二式、三式、四式、五式戦闘機と毎年新作の戦闘機を採用し続けた。紫電シリーズと五式戦が、数少ない例外である。

 欧米での例外は、米海軍の戦闘機である。F4F、F6F、F7F、F8Fと次々と新規設計を行っている。しかも、F6F、F8Fは基本的に同じエンジンを搭載している。これは、零戦やFw190の設計思想に強い影響を受けたことで説明されている。しかし、どちらも中途半端な機体であったことは、両機とも戦後の発展性もなく放棄されて、F4Uだけが改良を繰り返して延命されていることで証明されている。

 日本の戦車や軍用機は、戦前戦後共通して、改造により性能向上を行うことを嫌う傾向があるのは別項で述べたので、ここでは述べない。