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毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

Me262の後退翼の不思議

2014-05-10 15:18:48 | 軍事技術

 Me262は世界初の実用ジェット機でありながら、既に後退翼である。その理由は、当初の設計が直線翼であったのに、装備するエンジンの重量が予定をはるかに超えたために、重心を調節するために後退翼とした、というのが定説である。そうではない、という記事を読んだ記憶はあるが、誰の記事か思い出せない。

 それにしてもこの定説は実に奇妙である。日本でも九七重爆が後ろに行き過ぎた重心による縦安定改善のために僅かながら後退角を増加した、という例はある。Me262の場合も主翼の取り付け位置を変更するより後退角を増加する方が設計変更が軽微で済む、という説明である。確かに主翼の取付け位置を変更するのは大幅な設計変更になるが、エンジンの主翼への取り付け位置を変更するのは簡単である。

通常、飛行機の重心は25%翼弦長の位置に置く。本機の場合、エンジンは主翼下にある。従って、エンジンの重量が大幅に増えたところで、重心位置は大きく変化するようには思われない。つまりエンジン重量の増加のために、18度もの後退角をつけて重心より後方の翼面積を増大させる必要があるように思われない。更に奇妙なのは最初はエンジン外翼の部分だけ後退角をつけていたのだが、すぐに内翼の前方に翼面積を増やしている。

これだとせっかく後退翼で主翼を後方に移動したのに、その効果が幾分かでもキャンセルされてしまうはずである。もし後退角が大きすぎたために調整するのなら、後退角を減らせばいいだけである。この矛盾についての説明をした記事を見たことがない。確かに設計者自身が後退翼としたことは僥倖であった、と語っている(世界の傑作機・No.2・文林堂、P20)のだそうだから、定説は間違いだとも断言できない。

しかし前述のような理由で釈然とはしない。18度程度の後退角では効果は少ない、とも言われる。しかし最近の亜音速機では、この程度の後退角の設計も稀ではないのである。また、僥倖だ、と言ったのは結果的に後退角の効果があったと判断したから言ったのである。当時ドイツ航空界では、後退翼の効果はよく知られていた。しかし、後退翼が大きいと、当時では、予測不明な色々なリスクの可能性を伴う。

初のジェット機を実用化するためには、リスクの少ない、比較的浅い後退翼で試してみたのではなかろうか、と思うのである。勝手な想像だが、エンジンの重心調整云々は、後退翼を採用してみたいために、別な言い訳を発注者に言ってみたのかもしれない。

 


航空戦艦伊勢のカタパルト

2013-10-23 14:39:40 | 軍事技術

航空戦艦伊勢のカタパルト

 

 伊勢型戦艦は、空母の不足を補うために、艦上機を運用できるように改装された。しかし見る限り伊勢型のカタパルトは、米空母のカタパルトとは異なり、水上機射出用のカタパルトと変わりはない。どうやって車輪式の艦上機を射出するのか長い間疑問に思っていたが、回答を与えてくれる本を手に入れた。模型店で入手した簡易製本の「航空戦艦伊勢・増補改訂版」という本である。機種ごとに専用の台車(滑走車)に艦上機をセットして、軌条でカタパルトまで運び、射出するのである。この場合艦上機は脚を飛行甲板に着けられないので、軌条の上しか移動できないという不便なようだが飛行甲板自体が狭いから、かえって車輪で走行するよりは都合がよかろう。市販の伊勢型戦艦の記述がある書籍には、この点を記述したものを見たことがなかったから、小生には貴重な本である。滑走車自体は使い捨てではなく、射出されて機体と分離したら回収されるのだそうである。この本の彗星を載せた滑走車の図をまねて書いたものが添付の図である。粗雑で、かの本のように立派な図ではないが、イメージだけはつかめると思う。

 それでもまだ疑問がある。機体が3点静止姿勢に近い角度で機首が前上方を向いて滑走車に傾斜して載せられている点である。滑走車はカタパルト先端で停止し、機体だけが滑走車から離れて空中に飛び出す、と読めるように同書には記載されている。すると滑走車がカタパルト先端に到達する前に、機体が滑走車から充分浮き上がることができなければ、滑走車がカタパルト先端に到達した瞬間に機体は滑走車に押し付けられて、空中に飛び出すことはできない。

 それどころではない。滑走車を射出せずにカタパルト先端で止めるためには、機体を滑走車に固定するロックをカタパルト先端で自動的に解除しなければならない。すると、図に示したように、滑走車前端の最上部より機体の重心位置(図のG.C.)は高いから、転倒モーメントが働き、機体は前転して放り出されて海中に落ちる。いずれにしても、機体を水平にして射出しない限り、滑走車をカタパルト上に残しておく方法は小生には考えられない。確かに水上機ではカタパルト上で機体は水平に保持されている。

結局は、滑走車は機体と共にカタパルトから射出されて、空中で分離して落下するしかない。回収するには滑走車にワイヤロープを取りつけるなり、方法は考えられるが面倒そうである。いずれにしても滑走車に3点姿勢で取り付けられている限り、一旦は滑走車はカタパルトから射出しなければならないと考えられる。水上機の場合、フロートによってカタパルト上面とプロペラのクリアランスが確保されているから、機体を水平に保持しても、プロペラがカタパルト上面に当たることはないから、滑走車はかなり小さくて済む。艦上機の場合には機体を水平にして、カタパルト上面とプロペラのクリアランスを確保するには、滑走車全体の背が高くなり大型化する。それを防ぐため、せめて尾輪高さを下げて3点姿勢にしたのだろうか。本当のところは分からない。


レーダー射撃の怪

2013-07-15 12:09:55 | 軍事技術

この記事に興味がある方は、ここをクリックして、小生のホームページもご覧下さい。

 大東亜戦争の第三次ソロモン海戦の第二回の会戦の夜も月のない夜だった。戦艦霧島とサウスダコタは6,000mの至近距離から打ちあった。この時日本艦隊に気付かれずにサウスダコタの後方にいたワシントンが、8,000mの距離から、探照灯を照らすことなくレーダーの測的だけで射撃して次々と40cm砲弾を命中させた。この結果翌日霧島は沈没した。これが、「太平洋戦争 海戦ガイド」による記述である。

 これは一種のレーダー神話である。同書には「霧島にとって不幸だったのは、リー少将がレーダー射撃の専門家だった、ということである。」とまで書いている。果たしてワシントンはレーダー照準によって射撃していたのであろうか。当時のレーダー照準については、雑誌「丸」平成25年8月号に記述がある。モリソン戦史がスリガオ海峡夜戦について日本海海戦のT字戦法の再現であると絶賛するのに対して「残念ながら、当時のレーダー及び射撃指揮装置の能力からして、戦艦及び巡洋艦の砲撃は全くと言ってよいほどに成果を上げられなかったのである。」と断定する。

また「当時の射撃用レーダーは新型のMk-8をもってしても今日のようなペンシルビームではないため、捜索用レーダーよりは精密に距離測定ができるものの、目標照準の機能・能力は有していない。したがって正確な射撃のためには光学照準が必要であり、これは夜間では顕著な明かりがあるか、照射・照明でもされていない限りほぼ不可能である。」筆者は元海将補である。大東亜戦争で米軍が多用したレーダー付きの射撃指揮装置は戦後海自にも供給されているから、筆者の知識に間違いはない。ワシントンはレーダーの補助のもと、探照灯を使用して射撃していた霧島が放つ光で照準したのである。

この時の射撃距離は日本海海戦時代並みに近い。ワシントンは多くの命中弾を得たのは間違いない。第二次大戦当時、米軍のレーダーは捜索用として大きな威力を発揮したが、照準用としては補助的にしか使えなかったのが事実である。第二次大戦の米海軍のレーダー射撃は戦後日本では過大評価されている。サウスダコタは大破したが、霧島が発射したものの多くが三式普通弾であって、徹甲弾ではないから致命傷が与えられるはずもない。飛行場攻撃用に三式弾を優先的に発射する状態であったのには違いないが、徹甲弾を優先できなかった理由は後日考えたい。

ついでに、先に紹介した雑誌「丸」には射撃指揮装置についての専門家らしい記述がある。「当時のジャイロコンパスの性能からして変針後最低1分は直進しないと射撃に利用しうるまでには安定しないことに加え、最低三分間は自艦及び目標が共に直進の状態で測的を行なわないと正確な運動解析結果が得られないのである。」という。このため、米戦艦も山城も途中で変針していた結果、平均射距離2万~2万2千mで6隻が279発撃ちわずか2発(命中率0.72%)の命中弾しかなかった。山城を撃沈したのは、駆逐艦などの魚雷であった。

 


最低の英艦上機

2013-05-18 14:56:16 | 軍事技術

最低の英艦上機

 英海軍は空母の先駆者であるにも拘わらず、第二次大戦当時の艦上機に関しては日米海軍に比べると、お寒い状況であった。中でも時代遅れで有名なのは、複葉の雷撃機のソードフィッシュとアルバコアである。第二次大戦中にも最前線で使われていたソードフィッシュは開発年次が古いから仕方ないとしても、後継機のアルバコアなどは、なんと低翼単葉引込脚の九七艦攻が採用されたのと同じ、昭和十二年の仕様で開発が始まったのに、複葉固定脚のアナクロなのである。逆に、でかくて複葉で、最大速度が220km/hという超のろまのソードフィッシュを撃退できなかった、ビスマルクなどのドイツ艦隊の防空能力はどうなっていたのであろう。

 たが英海軍の錯誤はそれに止まらない。それは艦上戦闘機である。艦戦のブラックバーン・ロックはなんと艦爆のスキュアから開発したものである。複座でしかも後部には巨大な銃筒までが設けられている。これでは、米海軍のドーントレス艦爆にさえ空中戦では負ける。フェアリー・フルマー艦戦は陸軍の軽爆撃機から開発したもので、全幅は14m以上と馬鹿でかい。艦戦と艦爆の両用に使うはずのものであったが、戦闘機としてまともに使えるはずはない。その後継機のフェアリー・ファイアフライは艦戦専用ということになったが、複座である。英海軍が艦戦の複座にこだわったのは、洋上航法のための航法士を乗せるためであったが対戦闘機戦闘には不利であるし、日米の艦戦は単座で任務を果たしている。しかし対戦闘機戦闘には不利で、搭載量が大きいと言うことが取り柄で、結局艦爆や雷撃機代わりに使われることが多かった。

 ブラックバーン・ファイアブランドに至っては、自重が5tを超え、2,500馬力の巨大なエンジンを積んでも最大速度は560km/hしか出ないありさまで、唯一の取り得の搭載量の大きさから、雷撃機兼用になってしまった。しかも雷撃機なのにこちらは単座である。米海軍も、雷撃と爆撃が可能な巨大な単座の長距離艦上戦闘機XF8Bを試作した。ファイアブランドより重量もエンジンも大きいが速度性能ははるかに優れ、航続距離は4倍近く、搭載量も3倍と、大きくしただけのカタログデータ上の効果はあった。まあ、まともな対戦闘機戦は望めなかったろうが。そもそもファイアブランドがこれだけ大きな機体になったのは、性能から考えると不可解としか言いようがない。要するに発注者の仕様に問題があったのである。

 このように、第二次大戦に向けて英海軍が開発した艦上機にはまともなものが皆無に等しいのである。その多くの原因は戦闘機に雷撃や爆撃などの能力を持たせようとしたことや、複座の艦戦にこだわったことにある。英空母は重装甲としたために極端に搭載機数が少ないことが一因であろうが、それだけでは説明できない。しかもその結果虻蜂取らずの見本で、全ての用途に使い道が無くなっている。唯一陸上戦闘機と対等に戦えたのが、シーファイアなのだが、戦闘での損害よりも、着艦事故の方がはるかに大きいと言う無様な結果となっている。それを補って余りがあったのが、援英機などとして導入された、ヘルキャットやアベンジャーなどの米海軍の制式艦上機であった。

 確かに日米海軍共に複座や双発の戦闘機といった一種の無駄な戦闘機開発も行ってはいる。しかしそれは、まともな艦上戦闘機があっての無駄だから、本来の用途について不足をきたすことはなかった。だが、英海軍はまともな艦上戦闘機も作らずに、遊びとしか思われないような複座の艦上戦闘爆撃機のような使い物にならないものばかり開発したのが問題なのである。あげくが、艦上機としての適性が最悪のスピットファイアを使うはめになった。

 一般的には飛行機のエンジンは後方から見ると時計回りに回る。最近気付いたのだが、なぜか英国製のエンジンには、この反対のエンジンもかなり存在する。艦上機が発艦しようとすると、エンジントルクのため、左舷方向に行きやすい傾向があるから、ほとんどの空母の艦橋はそれを避けて右舷に置かれている。ロールスロイス・マーリンエンジンでは問題ないのだが、後継のグリフォンは回転方向が逆な上に大馬力なものだから、これを装備した後期のシーファイアは発艦作業が大変であったろう。そこで途中から二重反転プロペラをつけるようになった。シーファングも量産機は同様にする予定であったから、影響は大きかったのである。何とかまともに戦えるシーファイアでさえこんな重大な欠陥も抱えていたのである。

 英海軍の艦上機開発の失態が露呈しなかったのは、独伊の海軍力が潜水艦を除いてあまりにも貧弱だったためである。結局英海軍は航空母艦の先駆者でありながら、運用や艦上機の開発には失敗した。第二次大戦の海軍で、航空母艦の運用と艦上機の開発運用に、バランスが取れた成果をあげたのは、日米海軍しかなかったのである。ファントムやトムキャットなどの米海軍の艦上戦闘機に誇らしげに旭日旗が描かれているのは、強い日本海軍航空隊に勝ったと言う誇りを示しているのである。

 


戦闘機「隼」の3本桁神話

2012-08-19 16:14:27 | 軍事技術

 旧陸海軍の日本機には神話と言うべき不可解なものが航空関係誌などに流布されている。そのひとつが1式戦闘機隼の3本桁である。隼は当初より胴体機銃しか装備していなかった。後年武装強化しようとしたが、主翼が3本桁構造であるため、主翼内機銃の装備をあきらめたというのだ。私にはこの説明はどうしても理解不能なのだ。桁に機銃の機関部や銃身を貫通させる穴を開けなければならない、と言うのならどの翼内機銃装備の場合でも行っていることである。それが3本桁だとどうして不可能になるのか分からないのである。雷電などは単桁構造なので21型以降では、片方の主桁に2つの機関砲が装備されていて機関部が主桁を貫通している。しかも雷電の20mm機関砲に対して、12.7mm機銃ないし20mm機関砲で同じか小型であり、雷電は高速を狙った薄翼である。主桁の断面性能に対する影響は大きい。

単桁で1本しかない桁に大きな穴を開けるのに比べれば3本に分散されるだけ各々の桁への負担は少ない。もちろん当初なかったものを装備するのだから、補強や骨組構造の一部の変更はあり、重量は増加するであろう。私には設計変更の手間と、生産に一時支障きたすのを嫌ったのだとしかか考えられない。設計変更の手間ばかりでなく、製作治具の変更は案外嫌われるのである。

 そもそも機銃が貫通するために桁の断面を切断するから改造できないというのなら、艦上機の折りたたみ式の主翼は完全に主翼全部が切断されている。それでも翼を展張した時には翼をピンやボルトで結合すれば済んでいるのである。もちろん切断部を補強するから重量はかなり増加する。しかしそれでもグラマンの戦闘機などは折りたたんだ状態をコンパクトにするために翼付け根近くで折りたたんでいる。日本海軍機は重量の増加を嫌ってできるだけ翼端の近くで折りたたむ。それだけの事なのである。

陸軍では三式、四式、五式戦と比較的順調に後継機を開発できたため、いまさら隼に手間をかけ、生産に支障が出るのは困る、というのは妥当な判断であると思う。零戦が後継機がなかなか得られずに武装強化を繰り返し、金星エンジンへの換装も行ったのに対して、隼が金星系エンジンへの換装計画を放棄したのも同じ事情であろう。

 それでなくても戦前戦中に限らず日本の兵器は大きな改造をして性能向上するよりも、新規設計することを好む傾向が強い。彗星や五式戦が空冷エンジンに換装したのは大改造ではあるが、性能向上のためではなく、エンジンの信頼性や量産のとどこおりのためである。余談であるが、五式戦への改造は新規製造でなく既に完成しているエンジンなしの機体に空冷エンジンを搭載する、という芸当が他にあまり例をみない困難なものであった。土井武夫技師が堀越技師について、昭和十七年の時点で金星への改造打診を断ったことを批判しているのは、自分がそれより余程困難な事をやってのけた自負もあったのだと思う。

 日本製の兵器はぎりぎりに設計されているので設計変更の余地が無い、と言う風説はとんでもない間違いである。改造して性能向上する合理性に対する決断が無いのである。意志が無いのである。ドイツのMe109はわずか600馬力のエンジンで小型軽量でぎりぎりに設計された機体であるが、終戦まで二千馬力クラスのエンジンまで搭載して性能向上を続けた。スピットフアイヤも同様である。両機の登場は九六式艦戦や九七戦と大して変わらないのである。自衛隊の九〇式戦車はレオバルトⅡ戦車よりずっと遅く作られたのに、レオバルトⅡが未だに性能向上を続けているのに対して、もはや一〇式戦車に変わろうとしている。「日本の兵器ゆとりのない」論者の意見と異なり、九〇式戦車は大柄で改造のゆとりがあるはずなのに何故か改造を放棄して一〇式戦車を開発した。一〇式戦車は九〇式より小型軽量なのである。

 九〇式戦車は大型で北海道でしか使えない、などと言う説があるようで、これに某雑誌が反論したが正しいのであろう。そもそもこのような説は素人の私にさえ理解不可解である。本州では九〇式より小型の戦車しか使えないのなら、日本に上陸して戦おうとする軍隊は、九〇式より小型の戦車しか持ってこられないという奇妙な事になるのではないか。このように日本の兵器には、合理性のない神話がまことしやかにまかり通っている。


日米対空戦の謎

2011-06-25 23:21:57 | 軍事技術

日米対空戦の謎

 多くの大東亜戦記を読んだが、ひとつ大きな疑問があった。それは対艦船への航空機による攻撃の記述である。それは、日本のパイロットが米海軍の軍艦を攻撃する際は、対空砲火が激しくて生還は奇蹟にひとしいと書かれているのに対して、軍艦の乗組員は米軍の航空攻撃が激しくて、容易に雷爆撃されていると言う事である。対空火器を大量に装備しているはずの戦艦ですら、戦闘機の機銃掃射にさらされてもほとんどなすすべもない。これに対して日本の軍用機が米艦船をゆうゆうと銃撃したなどという記録にはお目にかかれないのである。これは輪形陣など多数の艦艇が対空砲火網をひいて待ちかまえているためではない。単独航行している場合も同様だからである。

第一、艦船攻撃の場合に、接近した航空機を40mm以下の口径の火器で攻撃する場合は、射程の面でも同志討ちを避ける面でも他の艦艇の火器の支援を受けるわけにはいかないのである。また、爆弾を水面に落下させて水切り遊びの石のように、水面を跳ねさせて艦艇に命中させる、反跳爆撃を米軍が多用して戦果を上げたので、日本軍も研究したが爆弾の性能の問題の他にも、攻撃時に艦船のかなり近くまで直線飛行するので、確実に撃墜されてしまうというので止めたという経緯がある。

反跳爆撃のコースに乗った日本の爆撃機の対空砲火の最後の相手は、高角砲ではなく、20mmないし40mm機銃だけであり、攻撃される艦船は付近の艦船の支援は受けられない。つまり日米艦船と攻撃機の条件は同一なはずである。それにもかかわらず米機は爆撃機正面に装備した機銃で対空砲火を制圧して爆撃した。これも日米の対空火器の効果の差を如実に表している。それでは多くの図書は日米の差を何と説明しているか。大抵は近接信管(VTヒューズ)とレーダー射撃の存在に帰している。

例えば、失敗の本質-日本軍の組織論的研究(ダイヤモンド社)では2章の失敗の本質で、日米の技術力の差を総括して

対空兵器もレーダーの研究開発に立ち遅れたため射撃精度は必ずしも高くなかった。また対空砲弾も米軍が開発したVT信管ではなく、在来型の信管のため効果が十分にあがらないことが多かった。

数人の共著による大作が日米の対空兵器の差をレーダーとVT信管の有無だけに帰しているのだ。しかし、これは秘密兵器好みの説明で実態を充分に説明はしていない。以下にその差異を検証したい。

当時の米国の艦船の対空火器のほとんどは、5インチ両用砲、40mm機銃、20mm機銃の組み合わせであった。当然このうちでVT信管を使えたのは5インチ砲だけである。レーダーを備えていたのは5インチ砲用の射撃式装置のMk37だけで機銃用の近接対空用のMk51にはレーダーはない。つまりこれらの秘密兵器が使われたのは、5インチ砲だけであったから、日本機に接近されたらこれらの秘密兵器は使えず、条件は日本艦艇と同様になるのである。つまり世間に流布されている説は極めて局部的なものに過ぎないのである。

 日米の差には3つの原因がある。対空火器の種類の選択の相違、対空火器の性能の相違、射撃指揮装置の相違である。日本の戦艦や空母などの場合には、12.5cm高角砲と25mm機銃の組み合わせであり、米国の艦船の対空火器のほとんどは、5インチ両用砲、40mm機銃、20mm機銃の組み合わせである。対空射撃は有効射程より遠ければ効果はないが、近過ぎても効果はない。日本海軍の場合には、12.5cm高角砲の砲火を突破した敵機が25mm機銃の有効射程に入るまで艦船は無防備になる。米軍の場合にはそこに40mm機銃が待ち構えている。つまり日本機はほぼ隙間なく対空砲火に晒されているわけである。これが第一である。

 米国のほとんどの駆逐艦の場合には、1930年代の艦隊型になった時代から主砲を日本の高角砲より、初速、毎分の発射速度、最大射高のいずれも優れた性能を持つ両用砲を装備している。これより優れた性能を持つのは防空駆逐艦を自称した、秋月型の10cm高角砲だけである。また日本の駆逐艦で12.5cm高角砲を持つのは大戦末期の松型だけであった。大多数の駆逐艦は高角砲ではなく対水上艦艇用の12.5cm主砲であった。一部の駆逐艦の主砲は仰角を増やして対空射撃機能を持たせているが、実質的にはほとんど役には立たない、高角砲もどきであった。だから戦艦や空母を守るはずの日本の駆逐艦は、25mm機銃以外ほとんど防空援護能力がなきにひとしかったが、25mm機銃の有効射程の外にあるから、空母や戦艦の防空支援はできない。

 戦艦や空母の持つ高角砲ですら上述のように、米駆逐艦の主砲にすら劣るのである。25mm機銃と20mm機銃の相違であるが、有効射程は当然25mm機銃の方が大きいが実戦ではカタログ値の半分以下でなければ命中しても撃墜できないとされているが、これは米機の防弾装備の良さによるものもあろう。口径が小さいだけ発射速度も弾倉1セット当たりの装備弾数20mm機銃の方がずっと多い。25mm機銃は映画のように連続射撃できるものではないとされているのに対して、40mm機銃ですら、4発入りのクリップを補給してやれば間断なく射撃できるとされている。以上のように25mm機銃は近接防空には大型過ぎるのであろうが高角砲との中間口径の機銃を持たない日本海軍としてはやむをえなかったのであろう。米軍が20mm砲の威力に格段の不満を持たなかったのに対して、25mm機銃に対する不満は大きかったとされるが、これは射撃式装置など他の要因も総合したものであろう。

 ここで言う射撃指揮装置とはFCS(Fire Control System)のことを言い、火器管制装置などとも言われる。FCSとは「目標の情報を入手し、それを捕捉追尾し所要のデータを得て、砲・発射機に必要な諸元を算出し伝達する装置である(世界の艦船No.493による)。第二次大戦当時の米海軍の射撃指揮の主力は5インチ砲ではMk37、40mm機銃ではMK51であった。これに対応する日本海軍のFCSは九四式高射装置と九五式機銃射撃装置であった。日本海軍のFCSの評価はどちらも芳しいものではない。日本海軍にいて戦後海上自衛隊員として、米国のFCSを用いて射撃練習をしたところ、飛行するドローンに最初から命中弾を与え、操作も簡単であったと述懐したものを読んだことがある。

軍艦マニアでは、世界一の戦艦大和と、アメリカのNo.1の戦艦アイオワと戦えばどちらが勝つかと言う話が出る。答えはまちまちで大和やや有利とアイオワやや有利が数の上では拮抗しているように思われる。これらのほとんどは射撃速度や装甲貫徹威力や装甲厚などのカタログデータを用いて論じたものである。しかし雑誌『世界の艦船」に元自衛隊の射撃の専門家が、FCSも含めた射撃指揮装置の能力の差からアイオワの勝ちであるとごく明快に論じている。これほど日米の射撃指揮装置とマン・マシンシステムの能力には差があるのである。しかも日本海軍の駆逐艦で、主砲の仰角を上げたものですら、九四式高射装置すら装備していない。僅かに秋月型が装備しているだけである。これらを総合すると、防空駆逐艦の秋月は戦時に大量生産された艦隊型のフレッチャー級駆逐艦にすら防空能力は劣ると断じざるを得ない。

日米海軍の防空能力の差は断じてVT信管やレーダーなどの「秘密兵器」の有無の差ではない。最大の要因は射撃指揮装置と言う地味な兵器の能力の差と装備した火器の差によるものである。VT信管といえども、航空機の近くを砲弾が通過しなければ爆発しないと喝破した識者がいたがその通りである。五インチ砲は15m以内を通過しなければVT信管は作動しない。ミサイルのように敵機を追尾してくれるわけではないのである。当時のレーダーは米軍のものさえ、現在のように完全に照準してくれるものとは格段の差がある。

ただ日本海軍の名誉のために言うと、マレー沖海戦で、鈍重で大型、しかも防弾装置もほとんどない陸攻を2隻の戦艦と護衛艦で3機しか撃墜できなかった英海軍の防空能力は、大戦初期とはいえ冴えない。何機か撃墜したとはいえ、何と鈍足の複葉機を撃退できず被雷したビスマルクの防空能力も知れたものであろう。戦艦ティルピッツも数十機の英航空機に襲われて、撃墜したのはわずか2機だった。日英独海軍ともに駆逐艦用の両用砲を実用化できなかったからこの点では一人米海軍が優れていた。つまり日本は悪い相手と戦ったのかも知れない、という思いもする。


再び零戦設計者について

2009-08-30 11:12:45 | 軍事技術

http://www.ac.cyberhome.ne.jp/~k-serizawa/ 零戦の堀越二郎技師は有名な、共著「零戦」を書いている。そこには有名な米空軍のP-51ムスタング戦闘機との生産工数の比較が記されている。生産工数とは、物を作る時にかかる時間を言う。例えば100人・時と言った時、一人で働けば100時間を必要とし、5人で働けば20時間を必要とする、という事になる。

 同書によればほぼ同時期の零戦は、構造重量950kgに対して工数が10,000人・時、P-51は2110kgと2,700人・時である。構造重量とはエンジンなどを除いた純粋に機体本体の重量で、工数の対象である。生産工数は10,000÷2,700で零戦は3.7倍にもなる。実際には重量の差があるから、その開きはもっと多いが。単純に考えれば零戦はムスタングの3.7倍の価格と言うことになるが、そうではない。ドルのレートで換算するとP-51は零戦の2倍の価格だと言うのだ。

 この事について堀越技師は淡々と述べているだけであるが、軍事上は重大な問題を抱えている。結果的に零戦が安いのは給与水準が米国より遥かに安かったからである。現在の日本が中国で安い製品を作っているのと同じである。しかし戦時の事だから、P-51も零戦も同じ自国内で生産するしかないのだから、互いの国の給与水準の相違には何の意味もなく、工数の差だけが問題になる。

 限られた人的資源でどのくらい少ない人数で武器を製造できるか、という事は重大な事である。確かに零戦の設計時点では、零戦がこれほどの大量生産をしなければならないとは想定されていないから、優秀な機体を作るためには工数がいくらかかっても仕方ないとは言えるであろう。しかし「零戦」が書かれたのは戦後である。

 零戦が1万機以上生産され、戦争の帰趨を制するには大量の武器を必要とし、そのためには生産工数が少ない方が良かったという反省ができる時期であった。当時の日本人は米国の物量に負けたと言っていたからである。つまり零戦より高性能のP-51が零戦のなんと3.7分の1の労力で作られていたというのは大いに反省してしかるべきである。しかも人口は日本は半分で、工場で働く工員ははるかに少なかったのである。

 それなのに堀越技師は平然と、米国は機械作業が多く日本は手作業が多いから、生産数が少ない時は日本の方が安く、多くなると米国が有利になると、淡々と述べているだけである。堀越技師には反省はないのである。さらにP-51はその後価格も工数も大幅に低減していると述べている。これは単に前述の多量生産の効果によるものだけではなく、工数低減のための設計変更の努力がなされた事を意味している。

 ところが零戦はその後も工数がほとんど変わらない、と書いている。つまり生産性向上の努力がなされていない、という事である。これは自社でできる努力だから、さすがの堀越技師も海軍の批判はしていない。批判しないのは工数低減の重要性に気付いていなかったからである。だから「日本の航空を顧みて」という項で日本の航空技術の短所について、無線機などの機能部品が劣っていた事や防弾対策の遅れを指摘しているだけであって生産性が遥かに悪かった事については言及しない。やはり堀越技師は優秀な設計職人であって技術者ではないと断ぜざるを得ない。