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毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

日本統治論

2015-10-19 12:46:49 | 歴史

 天皇は日本人の精神を体現したもの御方である。だから権威の賦与者である。初期は天皇ご自身が部族の長であって、政治と軍事を司っていた時代があり、現在天皇の諡号がある御方にもそのような人物がいたのである。だが、生前のにおいて天皇と呼ばれるようになってからは、既に親政は行われず、前述のような権威の賦与者となっていたのであろう。例外のひとりは後醍醐天皇である。

 従って、天皇は国策の決定者ではない。大統領ではないのである。現実に日露戦争も大東亜戦争も、開戦は天皇の御意思に反していたと考えられている。ところで「明治維新という過ち」という本で、孝明天皇その人が討幕どころか、「尊王佐幕派」であったので、この人がいる限り武力討幕はできなくなる、として、薩長による天皇暗殺の可能性を示唆している。孝明天皇弑逆説は案外根強いのである。

 なるほど、孝明天皇が佐幕の意思を明確にしていて、それを実行しようとしていた、とするならば、天皇が邪魔である、という考えをするものがいても不思議ではない。だが、天皇ご自身が国策を実行する一種の親政は、後醍醐天皇のように例外であり、当時すでに天皇のあり方としてはおかしいのである。過去にも、平氏は安徳天皇を奉じていたが、源氏は後白河上皇に平家討伐の許可を得て、平家を滅ぼし、安徳天皇は入水して崩御された。

 この時本格的に武家政権が登場して、徳川幕府もその系譜に属する。孝明天皇のご意思に反する薩長の討幕が正統性を欠く、というなら、それ以前に武家政権は出発の鎌倉幕府で既に正統性を欠いていることになる。やはり天皇は政策に関与しない、というのが明治以前でも日本の憲政(明文化はされていないが)の常道となっていたというべきである。

 開戦の決定は国策だから、天皇が御決定になることではなかった。しかし、終戦時点においては、日本民族が滅びるか否かの状況に追い込まれていた。日本民族は滅びてはならないという、日本人の精神を体現した天皇が、敗戦を受け入れる決定をした、ということは究極的には、国策の決定ではないと言っていい。二二六事件の討伐の指示については、昭和天皇ご自身が政治に関与したことを悔いておられる。それと反乱軍討伐の判断が正しかった、ということとは別なのである。

 二二六事件の首謀者は君側の奸排除などと、天皇親政のごときことをも言ってはいるが、結局は親政の具体的アイデアがあったわけではなく、政党や財閥の腐敗を正し、農民など庶民の貧窮を助けることができる内閣を求めていただけであろうと思う。

 天皇や皇室というのは誠に微妙なシステムであり、時の政権に権威を賦与する、と言ってもその方法や決定には難しいものがある。実際の政治は幕府に任せたはずなのに、開国の勅許がない、といって井伊直弼は非難されたし、源氏は天皇を擁する平氏を攻めたのである。結局天皇は政権奪取というような政治には関与せず、成立した政権に正統性を与えるだけであった。天皇陛下の御希望は、国家国民の安寧というより他ない。そのようなことができる政権を正統と認めるのである。政治は結果論である。

 前出の「明治維新という過ち」では、幕府の改革によって、スイスやスェーデンのような良い国家になる可能性があり、薩長閥に支配された明治政府とその後継者は、吉田松陰の語る侵略戦争に邁進する、という間違いを犯した、というのであるが、このことについては、それ以上書かれていないので具体的に評価できない。

 一般論として言えるのは、明治から昭和まで戦争に明け暮れた日本は、侵略戦争をしたのではない。それは大東亜戦争肯定論や、西尾幹二氏の説のとおりである。また、アジア諸地域を欧米の植民地として残して、日本だけが安泰な国家として生きながらえられるとも思えないし、その道を目指すのが正しいとも思えないのである。これについては別に論ずる。

 

 


現代アフリカの悲惨を招来したものは誰か?

2015-08-16 18:20:14 | 歴史

長谷川三千子氏の「『国際社会』の国際化のために」と言う中公文庫に収められた文章で、アフリカの悲惨な現実が、いかに生じたか、ということの大枠を知り得た。本全体の書評は後日紹介するとして、ここではまずそのことだけを紹介したい。日本語の国際化に対応するはずの、英語のinternationalizeというのは他動詞で、英英辞典で引くと「(国、領土等を)二ヶ国以上の共同統治又は保護のもとに置くこと(P195)」とあるという。日本人なら、これは特殊な用法だと思うであろうが、この言葉が十九世紀後半に初めて使われるようになったとき、この意味であったし、主たる用法は今も同じである、という。

西洋人の言う国際化、とは日本語のそれと全く違い、いかに苛酷なものであるか。例としてコンゴの国際化をあげる。コンゴの例とは、当時、コンゴがベルギー一国の領土になりそうな趨勢であったので、コンゴと言う地域をベルギーには独占させないようにする、というのが国際化の目的なのである。

コンゴをまともな国ではなく、単に植民地の対象としてしか見ていないから、コンゴをどうするか、と言う場合に、コンゴに住む人々は交渉の対象とはならないのである。これは、九ヶ国条約で欧米が支那に取った態度とよく似ている。実体として存在もしない「中華民国」というものを勝手に認めて、これを維持すべきだ、というのだが、その結果もたらされたのは、各国に支援された乱立する軍閥による、支那の混乱と支那住民の窮乏であった。

さて氏の説明に戻ろう。「・・・当時のコンゴはそんなものだったのではないか、と言う方があるかもしれません。それから百年近く経って独立した後でさえもが、あのていたらくだったのではないか、と。しかし・・・コンゴをはじめとするアフリカの各地域とも、少なくとも十五、六世紀の頃までは、決してそんな風だった訳ではない・・・その形態は近代欧米諸国とは異なれ、さまざまの王国が栄え、すでに高度な文明が各地で発達をとげていた。それを決定的に破壊したのは他ならぬ白人達であります。三百年にわたる奴隷のつみ出しと、それに伴う諸部族の抗争と扇動によって、いわば内と外の両側から、アフリカ大陸の「文明」を崩壊させていった(P199)」というのである。

例えれば、原野を開墾する場合、現に青々と茂っている草木を根こそぎにするようなものだと。だからコンゴの国際化が言われていた1883年には、コンゴには国と称するに足るものがなかったのではなく、破壊しつくされてなくされていた

この説明で思い出すのは、テレビで、ユニセフが行っているコマーシャルである。アフリカの栄養失調や病気で死にそうな子供を映して、この子たちをあなたの僅かな寄付で助けましょう、と募金を呼び掛けているのを最近よく目にする。小生はこれを見るたびに不快になる。確かにアフリカの子供たちの人道支援は現時点での状況下では、必要であり尊ぶべきことである。

しかし、西洋人が長谷川氏の言うように、健全な王国であったところを三百年に渡って破壊しつくしたから、外部から援助しなければ、子供すら育てられないような地域の状態になったのである。西洋人が来なかったら、アフリカは、子供たちすら自ら育てられないような国々ではなかったのである。子供たちもまともに育てられないような状態にした、当の西洋人が作った、ユニセフなる国際組織が子供の悲惨な状態を助けて、人道支援しましょうと呼びかけているのである。

マッチポンプと皮肉を言うことすらはばかられるような、悲惨な状態を招来したのは、人道支援しようと言っている人たちの父祖であり、そのことに人道支援の名のもとに責任を取るには、ことは重大過ぎる。いや彼らには責任を取るなどという殊勝な意識はない。

そもそも彼等は父祖のしてきたことを棚に上げて、本気で善意にあふれて真剣に振る舞っているのだ。そう思うと、単に一度戦争に負けただけで、おわびだ反省だと騒いでいる、日本の政治家、学者、マスコミ、大衆の政治的成熟度の程度は絶望的に低い。


書評・嘘だらけの日露近現代史・倉山満・扶桑社新書

2015-04-22 19:18:25 | 歴史

 例によって冒頭からロシアの法則をぶち上げる。

一、何があっても外交で生き残る

二、とにかく自分を強く大きく見せる

三、絶対に(大国相手)の二正面作戦はしない

四、戦争の財源はどうにかしてひねりだす

五、弱いヤツはつぶす

六、受けた恩は必ず仇で返す

七、約束を破ったときこそ自己正当化する

八、どうにもならなくなったらキレイごとでごまかす

 

というのである。確かに日独との2正面作戦は避けたし、日本が敗戦確実になって突如攻め込んで、日ソ中立条約を破った時、かつての日本の関特演を持ちだして正当化し、日本にもその支持者すらいる。倉山氏の慧眼はロシア人は国際法に無知だから国際法を破るのではなく、深く理解しているから破るのだと喝破した。

 日本が幕末にうまく立ち回れたのは付け焼刃ではなく、江戸幕府の二人の政治家のおかげであるという。一人は徳川吉宗で、キリスト教と関係のない洋書の輸入を解禁したのが、1720年で、これにより洋学が急速に進歩した。キリスト教と関係のない西洋の書物はほとんどないから、この条件はあってなきが如しであった。

清朝でも同時期に乾隆帝が似たような策を実行するが続かなかったのが、日清の運命の差を決めたのである。もう一人は田沼意次である。田沼はロシアが日本の脅威であると明確に認識し、公儀隠密を蝦夷地に派遣し、報告書を書かせている。択捉や得撫島の探索も行わせる。(P65)日本が明治維新に成功したのも長年の情報の蓄積があったのも事実であるが、これを可能にしたのは日本人の生来の好奇心であろう。

侵略という概念を考えた時、国際法上の意味について考える必要がある。国際法すなわち「外交のルールはウェストファリア体制です。三十年戦争の講和条約である一六四八年のウェストファリア条約は、近代国家社会のルールを形づくりました。・・・ウェストファリア体制の肝は『戦争とは国家と国家の決闘である。』という考えです。」

ところが「・・・ヴェルサイユ体制でルールそのものが変わったと説明されます。・・・目的を達成したら戦いをやめる決闘から、相手を抹殺するまでやめない総力戦への変更です。」(P166)というのだが、パリ不戦条約はその結実である。侵略戦争の禁止である。だから米国は日独に対して、無条件降伏を要求した。

かつての国際法のように勝敗の見通しがついたら、講和するというのではなく、相手の政府そのものを倒すまで戦うというのである。現にドイツはベルリンまで攻め込まれて政府が崩壊した。しかし、日本はポツダム宣言という条件付き降伏をしたから、サンフランシスコ講和条約を締結した。

この意味で日本はウェストファリア体制に基づいて戦争を終えたのであって、大東亜戦争が終えたのは、国際法上はサンフランシスコ講和条約が発効した、昭和27年ということになる。国際法上の終戦が昭和27年であるというのは、常識であるといっていい。朝鮮戦争は終結したのではなく、休戦中である、という論理と同じである。

現在は、と言えば国連憲章は不戦条約を継承していると考えられるが、第二次大戦後の戦争の状況を考えると、ウェストファリア体制は消え去ったとも言えず、かといってヴェルサイユ体制に移行したとも言えず、中途半端な状態が続いている。この意味で戦争の国際法上の地位が不安定になり、強い者勝ちという国際法の本質がむき出しになった、不幸な状態ともいえる。大規模なテロの横行がこれに拍車をかけている。

面白いのは「・・・北一輝は当時から右翼思想家として知られ、とくに陸軍の青年将校に影響力を持ちました。狂信的までに、反英米を煽ります。・・・研究が進むにつれ、北がソ連に奉仕していたことがどんどん明らかになってきて」いるし、ソ連のスパイだったと断言する人さえいる(P171)というのである。

北の「国体論と純正社会主義」を読んだことがあるが、天皇は「国民の天皇」であり、私有財産の限度額を設ける、というものである。ソ連のでは貧乏人ですら実態として個人資産がない、などということはあり得ず、党幹部に至っては国家資産を私有化している、という無理かつインチキな社会主義で、私有財産の全面否定などはあり得なかったから、北が「純正」社会主義を標榜したのは、実現可能という意味で正しい。

北の国民の天皇などというのは、天皇を否定する訳にはいかないための方便とも言える。天皇の権威と天皇に対する畏敬を本質的に否定しているからである。当局が発禁にするのも、当時としては当然であった。ソ満国境で日ソが衝突しているにも関わらず、ソ連に対する危機意識を言わず、反英米だけを言うのは、明らかにソ連を利するものである。ソ連スパイ説があっても不思議ではない。

日本政府や軍の中枢にソ連シンパやスパイがいた、という事自体はゾルゲ事件でもはっきりしているが、全貌は分からない。しかしノモンハン事変の「・・・第二十三師団を率いた小松原道太郎中将は、ハニートラップにかかっていたことが、日露の研究者により指摘されています。」(P201)というのには呆れる他ない。ただ倉山氏の本全般に言えるのだが、出典を明記しないことが多いのは少々困る。

P220に「韓国人の研究者が発見した資料でわかったのですが、スターリンはわざと国連総会を欠席して、アメリカが提案した国連軍を組織することを邪魔しませんでした。」というのも、なるほどと思うだけ、出典を知りたいのである。

ファシズムとは、党が国家の上位にある体制のことです。」(P227)という定義は明快で、巷間言われるように、全体主義だとか、軍国主義だとかいうのは定義になっていない。ナチスドイツもソ連も中共も、確かに党が国家を支配しているからファシズムであり、日本は大政翼賛会の時代ですら、政府が最上位にあった。ポツダム宣言受諾は軍や政党が決定したのではなく、日本政府が御前会議で決定したのである。

すると「ソ連はロシア帝国を乗っ取って成立した国家です。」(P243)という言辞も理解できる。だからゴルバチョフがソ連共産党書記長になってその立場で大統領に就任したとき事実上、ファシズム体制が崩壊したから最終的にソ連帝国が崩壊したというのも納得できる。

読後感であるが、相変わらず知らされることが多いと感じた次第である。


韓国の先祖還り

2014-09-02 11:43:39 | 歴史

 平成26年、韓国において、船舶事故や地下鉄の事故など、信じられないような事故があり、外国のみならず、韓国自体からも憂慮する声が上がっている。これは事故に限ったことではなく、戦前の対日協力者を処罰する法律を制定するなど、ここ10数年の韓国は、近代国家とは思われない行動を官民ともにとって、日本の保守知識人をあきれさせている。

 漢江の奇跡、といわれた経済成長をとげたとき、それまで北朝鮮を持ち上げていた左翼知識人たちに対して、韓国が近代国家になったと保守知識人は言っていたのだから、状況は著しく変わった。この落差について、きちんと説明してくれる人はいない。昔、韓国を北朝鮮と比べて褒めちぎっていた同一の保守系ジャーナリスト自身が、今では口を極めての韓国批判である。

 それでは韓国は変わったのだろうか。変わったのである。漢江の奇跡と呼ばれた経済成長を支えた人たちは、日本統治時代の世代、それも子供のころから日本の教育を受けた人たちである。つまり日本人の影響を強く持ち、日本的考え方を持つ人たちである。彼らが社会の中心であった時代には、日本の援助はあったにせよ、日本と似ていると言われた、高度成長があった。

しかし、その時代は長く続かない。日本的メンタリティーを持つ人たちが少数派になると、本来の朝鮮人の民族的個性が表に現れる。すなわち李氏朝鮮で長い間育まれた民族性である。その結果が現在の状況である。そう説明すれば納得できる。だが漢江の奇跡と言われていた時代も、問題を腹蔵していた。多くの人は、それを知りながら目をつむっていたのである。

例えば技術である。造船は、日本が韓国に技術を輸出して奪われた結果、シェアまで奪われたと言われている。しかし、日本の技術者は知っている。韓国で作っているものは、基礎技術の比較的浅い船体だけである。機関や電装品は日本製だったのである。例え日本でリタイヤした技術者が韓国に行って技術を伝授した結果、日本の技術が奪われたと日本で騒いだが、皮相なものでしかない。

政治的マインドと言ったものについては、前述のように結局、日本育ちの個人にしか定着せず、伝統として定着しなかった。結局あらゆる分野で先祖還りを起こしたのである。しかし、日本の努力は全く無駄ではなかったろうと思う。李氏朝鮮の時代とは、確かに一線を画している。それを時間をかけて、広がりと深まりのある、確固としたものにするには、日本の支援が必要である。

だが、日本の支援を拒否する動機の一部は日本人自身が作り出している。いわゆる従軍慰安婦の問題も、日本の自虐史観の持ち主が、敢えて持ち出して韓国人が日本を非難せざるを得ない状況を作り出している。現在の韓国発の対日国際非難の元は、全て日本人によるものである。

その証拠に、例え反日教育が営々と行われていても、戦後最近まで韓国が「従軍慰安婦」なるものを持ち出して、非難することは長いことなかった。韓国の元大統領自身が、韓国が日本を非難せざるを得ないようにしたのは、他ならぬ日本人だと語っている。自虐的日本人が韓国の対日批判を唆しているのは、北朝鮮の対韓工作の結果である。当の日本人は自覚してはいまいが、事実としてはそうである。韓国と日本を分断して、韓国を併呑する目的のために、日韓に亀裂を入れると同時に、韓国の社会を近代社会から劣化させるためである。自虐的日本人は日本が嫌いだから、日本が韓国を近代化した功績を認めないばかりか、その延長で韓国を支援することを妨害しているのである。

 


皇紀とは

2014-06-28 12:55:38 | 歴史

 戦前の日本政府は、昭和十五年を皇紀二千六百年と定めた。現在ではこのことは、国粋主義に基づく軽率な行為だと批判されている。確かに長い間使われてきた従来の年号に比べれば、軽率の誹りを免れない。しかし、年号と皇紀とは共通点がある。共に、日本より優れていると考えられていた文明のやり方を日本風に取り入れたのである。

 元号は支那の王朝の真似で、皇紀は西暦の真似である。支那大陸の元号は、多くの場合、何かの区切りをつけるために改元していたから、それを真似たのである。朝鮮は大陸の王朝の元号をそのまま採用していた場合が多かったから、固有の元号を制定した日本の独自性がある。

 元号は明治維新から、一世一元に改められて、それまでのように頻繁に変えられないにしても、西暦は一貫しているから、経過年数の計算などに便利に感じられたのであろう。それでも、そのまま採用せずに、天皇を起源としたところに工夫がある。しかし、元号を廃止しなかったから、結局は廃れることになった。日本が戦争に勝ったとしても、元号は廃止されることはなかっただろう。

 結局皇紀は、高揚した日本の気分の象徴となった。都内の神社巡りをすると、多くの神社の陸海軍軍人が神社の名前を揮毫した、石碑が見られる。その年号はほとんどが皇紀二千六百年と記されていて、それ以前のものは見られない。正に時代の反映である。しかし、ある神社では石碑の表の社名だけはそのままなのに、裏の揮毫の部分を削ってコンクリートで埋められていたのは、卑屈としかいいようがない。皇紀を使ったのが軽率ならば、戦争に負けたからと言って、隠してしまうのも同様に時代に迎合した軽率さの現れである。削らずに残している神社の方を範としたい。欲を言えば揮毫の由来などの説明文があれば申し分ない。


書評・高橋是清伝・津本陽・幻冬舎

2014-05-24 14:21:00 | 歴史

 今の僕らの常識から考えたらすさまじい人生である。宮澤元総理が総理大臣になりながら、大蔵大臣にカムバックしたことをもって、平成の高橋是清と自称したが、優等生で平穏に過ごした宮澤にはふさわしくない。ぜんぜん似ていないのである。

 アメリカに語学留学したつもりが、いつの間にか奴隷に売られていた。憤然と相手の不正を正し、何とか切り抜けて日本に帰ってくると、英語優秀ということで、わずか十六歳で大学南校の教授手伝いとなる。正規の語学留学者よりも英語優秀であったというが、ものすごい努力をしたのであろうが、この点が一切書かれていないのが残念。この時代の人は豪放磊落の一面もあるが、努力は尋常ではない。命をかけているというに等しい。

 ところが遊びたい生徒にだまされて大学からカネを持ち出して、一緒に遊ぶうちに芸者遊びに熱中する。これがばれると敢然辞職するが、同情した芸者に囲われて吐血するまで飲み続ける。一晩3升飲むというからすごい。「日露戦争物語」というコミックに、是清が芸者の襦袢を羽織って、昼間から飲んだくれている描写があったが、本当の話だったのだ。

 ところでビッグコミックスピリッツに連載された、このコミック、いつの間にか連載が消えてしまった。中国人、朝鮮人の敗北を描くので、その筋からの抗議で小学館が連載を打ち切ったのだろう。今の出版社は根性なしである。この漫画、明治の偉人をけっこうリアルに描きバンカラな風潮を良く表現していて秀逸だったのに残念。日本の国もだめになったものである。予言する。日本は滅びる。

 閑話休題。そこで友人に同情されて、株屋、牧場経営など点々とする。みな頼まれると断れないので、せっかく財産や地位を築いても簡単に職を変えてしまうのである。ペルーの鉱山経営に行ったときは、ろくに調査もせずにインチキ鉱山をつかまされてしまう。すると連れてきた鉱夫たちを救うために、相手をだまし返して損害を最小にして逃げ帰るのだが膨大な借金をする。これも自宅を全て売り払って返済に充て、借家住まいになってしまう。

 高橋のすごいのは、転職したり遊んだりするのに多額の借金を繰り返すが、きちんと自分の責任で返済していくことにある。その後日銀副総裁から総理大臣に登りつめるのは有名な話だが、その間信念に合わなければ簡単に辞表を書いてしまう。しかし、ただ逃げるのではなく、後に問題なきよう処置していくからたいしたものである。最後に大蔵大臣となったとき、経済政策のために軍人に嫌われてテロに倒れるのは周知のことだが、これは時代のなせる業でしかない。かつて緒方竹虎が喝破したように、政府部内の軍人はサラリーマンに過ぎない。政府の軍人が予算獲得で頑張れば、それに対して予算削減で対抗するのは、当時の風潮では当然のことである。


書評・未完のファシズム・片山杜秀

2014-02-22 14:23:11 | 歴史

未完のファシズム・片山杜秀

 昭和の陸軍軍人たちは必ずしも今考えられているように、武器の質や量より精神主義を重視したわけではない、ということを立証している、という書評につられて読んだが、期待は裏切られなかった。

 第一次大戦の青島攻略は一般に、弱い防備のドイツ軍に勝った、と信じられているが、そう単純ではないというのである。(P52)そして指揮官の神尾将軍は、「慎重将軍」と呼ばれ、弱敵の攻略に時間をかけ過ぎたと言われるが、そのゆえんは、総攻撃前に徹底的に砲撃し、ほとんどかたをつけてから歩兵を突入させる、という近代戦を先取りする攻撃をしてみせた、というのである。

 その反対に第一次大戦前の独仏両軍、特にフランス軍に甚だしかったのが、歩兵による突撃主義であった。(P86)その原因は何と日露戦争での日本軍の戦い方であった。つまり日本軍歩兵の勇敢な肉弾攻撃に幻惑されたというのである。その逆に第一次大戦を観察した日本軍参謀本部はその戦訓として書いた書物で、「火力対肉弾の戦法は、今日より見る時は其不合理なること、敢て喋々を要せずと雖、大戦前に於ては之を不合理と認めざりき」(P87・カタカナを平仮名に変換)と断じているほどの合理的精神であった。

 そしてこの精神は本質的には昭和の陸軍にも共有されていた、というのである。著者は、この事実を認めた上で、その対応は3派に分かれたいったと分析しているようである。その3派に共通する認識は、青島攻略は小規模な戦闘であったから充分な大砲と弾丸を存分に使えたのであって、ソ連や欧米のように圧倒的な国力差がある国との戦いには通用しない、ということである。この点でも日本陸軍は今考えられているような不合理な夜郎自大な軍隊ではなかったのである。

そこで第一のパターンの典型は小畑敏四郎らの皇道派である。小畑は表向きは、即戦即決で小兵力でドイツ軍が勝った、タンネンベルグの戦いを範として、外交など顧慮せずに将帥の独断専行によって短期戦で勝つべきである、と主張し(P123)がこれが「統帥綱領」となった。ところが小畑ら皇道派の本音は、「持たざる国」日本は、精神力と奇策で勝てる弱い敵としか戦うべきではない、というのであった(P140)。さらに「勝てる筈のない米国に宣戦布告するなど、小畑将軍の眼から見れば、まさに「狂気の沙汰」であった(P151)。

第二の主張は石原莞爾その人である。石原は有名な「世界最終論」を講演した(P193)。実は戦争は第一次大戦に見られるように、軍需産業ばかりではなく民間の経済力や生産力がいざ戦争という時には、軍事力に転換する。だから日本自体が持たざる国から持てる国に進歩しなければならない。それには数十年の時間がかかり、その基礎は満洲にある、というので満洲事変を起こしたと言うのである。小畑らの合理性は、日本が経済発展しているのならその間に「持てる国」も経済発展するから追いつけない、と考えた所にもある。(P250)これに対して石原は持てる国にしようと言うのである。

第三が中柴末純というあまり有名ではない軍人である(P247)。陸士出身の工兵出身者である。第一次大戦の観察から、近代戦は物量戦であると書いた本を出版している理性がある(P248)ところが中柴は、小畑も石原も、戦いを選んだり、国策に口をはさんだりする思想の人物で「政治に容喙するとは、天皇大権を干犯し、国体を破壊し、軍人の本分を滅却する」者たちで断じて許されない、と考えるのである(P251)。これは正論であろう。軍人が政治に干渉するのを反対すると言う点で、シビリアンコントロールに近いとも言える。軍事の輔弼は軍部が行い、政治の輔弼は政治家が行うのである。

総力戦を知りぬいているにも拘わらず、中柴は、結局戦えと命じられれば、今の兵力で戦わなければならない、として精神力を最大限に発揮すべきである、という結論に至る。その思想は仔細に論じられているがここでは省略する。結局は全滅するまで戦う、つまり玉砕の思想に到達した。

しかし、著者はアッツ島などで現実に日米戦で玉砕が行われたとき「本当におののいてしまったのは・・・中柴本人だったのでしょう」(P293)。と書くのは中柴の合理的精神を理解しているからであろう。ただし、中柴が戦陣訓作成にかかわったことを持って日本兵が玉砕していった(P276)と書くのはどうだろうか。玉砕は戦陣訓のゆえんではない。紙に書かれたもので人が死ぬと考えるのは浅薄である。日本兵が国を故郷を家族を思い、火器兵力の圧倒的な差の中で必死に闘った敢闘の結果が玉砕である。また、別項でも述べたが米軍、特に海兵隊は日本兵の捕虜をとるのを嫌い、傷病兵を殺戮した結果も玉砕を生んだ。いくら銃弾の雨の中を突撃しても、多くの兵士は怪我をおい人事不省に陥ったはずである。九分九厘の兵士が死亡するはずはないのである。米兵は、死体の山の中で生存していた日本兵にとどめを刺していったのである。

あらゆる日本の矛盾を承知で戦い、戦死した象徴が東條英機であり、大西瀧治郎である。もちろんそのもとには、数百万の素晴らしい日本人が闘っていた。曾祖父母、祖父母、父母の時代の日本人は、世界史に冠たる人たちであった。その意味で私は東條英機を昭和史で、昭和天皇に次いで尊敬する人物と言うことを躊躇しない。東條英機を単なる思想なき優良な官僚という歴史家の気が知れない。小生は、東條英機の百分の一の見識と胆力を持たない人間であることを百も承知しているからである。 

戦前戦中の陸軍軍人が、軍事的合理性を百も承知の上で、精神主義を鼓吹しなければならなかった苦衷を詳述した好著である。戦前戦中の日本人の置かれた世界に冠たる、孤独な地位も証明している。


書評・日中戦争・戦争を望んだ中国 望まなかった日本・北村稔・林思雲

2013-11-02 12:30:30 | 歴史

 本書は中国人の林氏が中国軍が青年を拉致して兵士を調達することを書いている、と紹介されているから読んだのである。小生は太平洋戦争と書くものを信用しない。太平洋戦争はアメリカ側の呼称であり、アメリカの作った史観を受け入れている証拠だからである。ところが本書では一貫して「太平洋戦争(大東亜戦争)」と書く。確かに内容は中途半端なのである。例えば鉄道王ハリマンが日本との共同経営を提案したのを、一旦は受け入れたのを破棄した。もし、この時受け入れていれば、アメリカが蒋介石をコントロールして満州開発しただろうから、日中戦争は起こらず、日米戦争もなく中共の支配もなかっただろう(P54)と書く。

 だがアメリカは一貫して満洲の経済支配をねらっていた。日本の大陸権益は早期にアメリカに奪われていたのに違いない。筆者はアメリカの支配欲に鈍感過ぎる。ただ、捏造された「南京大虐殺」という項(P39)を設けているように、南京大虐殺は、ナチスのホロコーストと対比するために連合国がでっち上げたと語るのだが、戦闘に伴う民間人の被害を誇大にとりあげた、としているのは感心しない。南京での民間の被害はほとんど全部が支那軍人の掠奪、殺人、放火などによるものであり、味方の軍人さえ殺している。

せっかく、南京市内で日本軍が米と小麦を支給している時期を、東京裁判の判決では「南京大虐殺」の最中であったとされている(P37)と書いているのにである。平和的人道的とされる米軍の日本占領でさえ、東京、神奈川では初期の一年に何万あるいは何十万という婦女子が強姦され、多数の殺人も行われた。その実態は分からないのである。日本軍の南京占領は、これに比べてはるかに平和的なものだったのである。

1900年代初めにの満洲の人口の9割以上が漢人種だから、五族共和を唱えて満洲人の皇帝を立てるという論理は根拠が薄弱となる(P56)という意見は首肯しかねる。シンガポールがその見本であるが、これは力の論理であって、領有権の主張の正当性があるわけではない。固有の領土であったものを異民族が押し掛けて多数になったからといって、固有の領土という主張が根拠薄弱になるわけではない。戦乱に明け暮れた支那本土とは別に、満洲族の故地に五族協和の国を作るというのは、日本人が初めて考えた壮大な理想であった。

 清国滅亡当時の支那は、国際的には中華民国と呼ばれているが、一つの政府により統一されていたわけではないことが書かれている(P58)。袁世凱が大統領となった中華民国を本書では中華民国北京政府と呼ぶ。蒋介石が率いる国民党は南京を首都として中華民国国民政府と呼ぶ。その後北京には張作霖による中華民国軍政府が立てられる。(P60)その間も実態として支那全土は軍閥の割拠する世界であり、統一政権など無い。辛亥革命以後の支那を、蒋介石の国民党と毛沢東の共産党の対立だけと見るのは、単純化などというものではなく、実態を全く反映していない。

 「満洲事変後の一九三一年十一月に、中国共産党は江西省の瑞金で中華ソビエト共和国の成立を宣言し、ソビエト共和国政府の名義で日本に宣戦布告した(P85)」というのだから、もし支那事変を抗日戦争として一貫して中共が戦ったと言うなら、支那事変を開始したのは中共であった、ということになる。日本では盧溝橋事件が中共の仕業だとか、盧溝橋事件開始直後に毛沢東が全国に抗日を宣言したことが計画的であった状況証拠にしているが、国際法上は1931年に支那事変は中共により開始され、盧溝橋では軍事衝突がスタートしたのに過ぎない。この間の戦闘なき空白の期間は、朝鮮戦争が国際法上は終わっておらず、休戦状態であるのに類似している。

 支那事変は、陸軍が事態を拡大したという軽薄な定説があるが、トラウトマン工作で、中国側の煮え切らない回答で、交渉打ち切りを主張したのは政府であり、陸海軍は反対した。特に陸軍は参謀次長が安易に長期戦に移行することの危険を力説し、政府を追及した。これが大本営による政府不信任の表明だという議論にまで発展した(P109)和平追求が逆に批難されたのである。結局譲歩ぜざるを得なくなったのは大本営であったというのだから、どこが軍部の横暴だというのだろうか。陸軍における不拡大派と拡大派との対立というのは、慎重に対応すべきか一挙に大兵力で決着をつけるかの相違である。事変の長期化を望む陸軍軍人はいなかったのである。

 父は大東亜戦争中、北支に出征した。村民は日本軍が来ると日の丸を掲げて歓迎し、国民党軍が来ると、国民党政府の旗を掲げて実にいい加減なもので、日本軍を外国の軍隊と思っていなかったのではないか、と言った。本書にも「農民の中には、日本軍は何処かのく先発の軍隊だろうと思う者までおり、ある地方では日本軍は東北(満洲)の張作霖の軍隊の一部だと思われていた。(P131)」というのだから、父の直感は正しかったのである。漢民族同志ですら言語が通じないのだから、言葉が通じないと言って外国人だとは思わなくても不思議ではない。

 さて四章は、期待の林氏が担当している。「ナチスの悲惨を極める状況が伝わってきたころ、中国では徴兵がクライマックスに達していた。当時、徴兵された壮丁たちを収容する施設である、成都の壮丁営に勤務していた医者たちは、ドイツでの恐ろしいやり方に驚くどころか、「ナチスの強制収容所の様子は、我々の所と全く同じである」と語っていた。成都のすぐ近くにあった壮丁営の一つでは、四万人を収容して兵士にする訓練をほどこすはずであったが、多くの人間が連れて来られる途中で死んでしまい、生きて訓練を受けたのは八千人であった。」(P139)その後の本書には、いかに兵士にするために拉致された若者が悲惨な待遇を受け、同胞に殺されていくか延々と書かれている。何も毛沢東だけが残忍な殺人鬼なのではない。

 林氏は、劉震雲の小説を引用にして国民党のやり方を非難している(P156)が、日本軍をも批難している。それでも、河南省が干ばつで五百万人が被災し、三百万人以上が餓死したと言われるが、国民党は納税と軍用食糧の負担は変えなかった。この頃河南省に進出した日本軍は軍用食糧を放出し、多くの人が餓死を免れたというのだから、何をかいわんやである。劉は共産党を持ち上げているが、これは現代作家の建前で仕方なかろう。それでも日本軍の人道的措置は書かざるを得ないのである。林氏は中国の色々な小説や資料をチェックした結論として「・・・日本軍占領下の大都市で餓死者が発生したことを示す資料はない。」と断言している。

 袁世凱の系統の中華民国北京政府は、蒋介石に滅ぼされた。これを林氏は旧北洋政客という。林氏に言わせると、満洲人、蒙古人と旧北洋政客たちは、「中国近代史上全ての厄災は孫文の三民主義が作りだしたのであった。中国共産党の誕生であり、蒋介石政権の樹立であり、欧米の利益に屈して抗日を行うなど、これらの根源は全て三民主義にあった。」と考えている(P167)。三民主義にそんな威力があったとは思われないが、欧米に利用されたのは確かである。それにこれらの三つは中国近代史上の厄災であることも事実である。ただひとつ蒋介石政権は、大陸から逃亡することによって、蒋経国と李登輝を経て民主義国家になったかに見える。適正規模であれば、漢民族も国民を幸福にできる国家を作れる可能性があるという証明である。ただし金美齢氏が台湾に絶望したように、台湾の民主化の成功はまだ歴史の検証を経ていない。


書評・天皇と原爆・西尾幹二・新潮社

2013-10-05 13:53:40 | 歴史

 今まで読んだ西尾氏の本とかなり重複している。同じ傾向の本を選択して読んでいるのだからそうなっても仕方ないだろう。ただ、要約されて総花的になっているような気がするので、頭を整理するにはいいのかも知れない。できるだけ重複しないものをピックアップしてみようと思う。

 サモアの分割、という話がある(P47)。19世紀後半にアメリカとイギリスが、南太平洋のサモアの領土保全を協定する。ところがドイツがサモア王にドイツの主権を認めさせたので、米英独が争った後にベルリンで話し合いサモアの独立を宣言する。ところが内乱が起こると、米英独が対立競争をするのだが、競争から英国が逃げると、米独で分割統治する。この事件は米西戦争、ハワイ併合のわずか二年後である。西尾氏は、これを太平洋における領土拡張の始まりの象徴である。と書く。米西戦争は一気に太平洋を越えてフィリピンまで行ったが、ハワイ、サモアと着々と太平洋の領土を拡大しているのだ。ドイツ領は第一次大戦に負けたため、信託統治領を経て、第二次大戦後独立をしているが、東サモアはいまだにアメリカ領である。この頃のアメリカは英国と同じく典型的な力による帝国主義の膨張国家である。

 豊臣秀吉や江戸幕府のキリシタン弾圧は今では非難を込めて語られる。長崎には日本二十六聖人殉教の地というのがある。しかし西尾氏が書くように西欧のキリスト教宣教師は海外の侵略の手先であったのが事実である。例えば中国では日中の離間を謀るために、宣教師は反日スパイの役割を演じていた(P54)。経費からすれば「アメリカがキリスト教伝道に使った額は全体投資額の四分の一というほどの巨額です。」と言うのだからすさまじい。

 ついでに最近のアフガニスタンへの介入やイラク戦争も、アメリカの西進の一環であると断定する(P55)。多くの保守論客が日米同盟のゆえにこれらの介入を支持し、反対するのは左翼である。しかし西尾氏のこのような観点は、一方で常に考えおかなければならない。知っていて同盟するのはいいが、盲従するのは政治家のすることではない。また、政治家なら日米同盟と言う現実的妥協の理由はあるが、思想家だけの立場なら別である。アメリカの「闇の宗教」(P74)という項はこの本の重要なテーマである。本書では繰り返し、日本と米国はともに神の国であり、それゆえ衝突したのは必然であるということを論じているからである。

 アメリカには、ヨーロッパ以上に強固な宗教的土壌が根強く存在します。ヨーロッパで弾圧された清教徒の一団がメイフラワー号に乗って新天地をめざしたという建国のいきさつからみても、それはあきらかです。・・・非常に宗教的な土壌から、「きれいごと」が生まれてくるのではないというのではないかというのが、私の仮説なのです。アメリカの唱える人権思想や「正義派」ぶりっこは、非理性的である。(P75)

アメリカ人のやることは非常に乱暴であるが、言葉は実に綺麗事に満ちている、というのは多くの体験で分かるはずである。日本国憲法からして、よく読めば論理的には日本は禁治産者だから軍備を持ってはいけない、ということを言っているのだが「諸国民の正義」とか綺麗な言葉が並べられている。それはアメリカ国内でも同様である。西尾氏は言う。占領政策で日本に持ち込まれた、グレース・ケリー主演の「上流社会」という映画は金持ちのアメリカ人の優雅な生活を紹介して、復興しかけの日本人を圧倒した。しかし、同時にインディアンへの無法や黒人へのリンチは公然と行われていた、ということは戦前には日本ではよく知られていたのである(P80)。

 ヨーロッパの魔女裁判は有名であるが、アメリカでも1692年にマサチューセッツ州でも行われている。これは硬直した宗教思想が欧米人にあり、異なった宗教や意見を許さないのである。アメリカの信教の自由と言っても、それは聖書に基づく宗教の範囲に限定されている。これに比べ日本は思想にも宗教にも一般的には寛容である。キリシタン弾圧は、キリスト教宣教師が侵略の尖兵であったためであり、防衛問題であるから宗教弾圧ではない。幕府の教学は朱子学であったが、それに反対意見を述べた荻生徂徠は罪に問われることもなかった。本居宣長は朱子学も幕府が保護していた仏教も排撃したが問題にされなかった。十八世紀のヨーロッパでは、キリスト教の神の絶対性にカントやフィヒテがほんの少し疑義を提出し、人間の立場を主張しただけで、大学の先生を辞めさせられたりするなどされた。(P81)日本には思想の自由がなく、欧米とは違う、というのも戦後吹き込まれた幻想である。

 アメリカが宗教に立脚した国であるということは、大統領が就任の宣誓をするときに、聖書に手を置くことでも分かる。そればかりではない。レーガン大統領は就任演説で「われわれは神のもとなる国家である。これから後も、大統領就任式の日が、祈りの日となることは、適切で良きことであろう」という一句があった。ところが演説を細大漏らさず翻訳した朝日新聞の記事には、この一句だけがすっぽり抜けていた。(P118)西尾氏は意図的だろうと考えながらも、宗教の事は個人的なものであり、枝葉だから省略したとして好意的に解釈している。森首相が『日本は神の国』と発言して問題にされたのは、この演説のよほど後だから、関連はないのだが、朝日新聞は、戦前、神国日本などと言っていたと批判しているのだから、アメリカ大統領が、公然と米国は神の国だと言っているのは都合が悪いから意図的に削除したのである。

 戦時に神国日本を強調した急先鋒は朝日新聞である。朝日新聞のコラムは戦前から「天声人語」である。ところが、昭和17年の1月から、昭和20年の9月まで、何と「神風賦」となっている。戦争が始まった翌月から「神風」と煽り、戦争に負けた翌月、すまして元に戻しているのである。変わり身の早さは見事である。

 森首相を批判したのは、神国という軍国主義を思い出させる、という理由の他に政教分離、という憲法の原則を持ち出している。ところが西尾氏によれば、国により政教分離の意味は欧米でも国によりかなり異なる。(P138)ヨーロッパでは、教会による政治に対する圧力が強過ぎた経験から、宗教権力から国家を守る、法王庁から近代市民社会の自由を守る、という意味である。信仰は個人の内面にとどめ、信仰が異なる人々の間でも政治の話が出来るようにする、という意味である。アメリカでは、建国の経過から聖書に依拠した宗教ならばどの教会派も平等である、という意味である。ところが、唯一日本のように厳格な政教分離を行っているのはフランスであるのだという。それは革命国家だからであり、学校にキリストの絵を飾ってもいけないし、教室で聖書を朗読することも禁止されている。

 西尾氏は日本がフランスのように厳格に政教分離を行っているのが問題である、とするのだが小生に言わせれば、実は日本でも厳格に政教分離が行われている訳ではない。日本でも比叡山など、宗教が政治力を持って騒乱を招いた時代があるから、むしろ宗教が国家に干渉することを防ぐ歴史的必要性はある。ところが、公明党が支持母体の創価学会という宗教団体に操られていることは問題にされてはいない。問題にされているのは、玉串料を自治体が払ったなどということである。つまり政教分離を口実に神道だけが排撃されているのである。家を建てるとき地鎮祭をするように、神道は深層で日本人の生活に密着しているから、神道の行事に自治体が費用を負担するということが起きるのである。日本の左翼は可哀そうに、GHQに国家神道が軍国主義の支柱であり侵略戦争を起こした、などと吹き込まれて、忠犬のように従っているのである。彼等は日本人としての心の根幹を破壊されたのである。

 大統領の宣誓に見られるように、アメリカが政治に及ぼす宗教の影響が大きいのは、アメリカ社会が、ヨーロッパの十九世紀や江戸時代の日本のように、脱宗教の洗礼を受けていないからだ(P140)と言われると納得する。同じイギリス出身でもヨーロッパ人とアメリカ人がかなり異質な理由はこれで納得できる。アメリカの移民が始まってから、ヨーロッパとは歴史的に分離されたのである。アングロサクソン中心で純粋培養されたアメリカ。一方で多数の国民国家が競い合い、それにローマ法王庁が絡み合う、という複雑な歴史が妥協的な社会を作っていったのである。それはアメリカ建国後のことだから、アメリカは取り残されている。それでも、西洋人は一般的に日本人より原理主義的な傾向があることは否めない。

 同様に日本の政教分離は、歴史的には日本は独自の観念を持っているのだという。心や魂の問題は仏教に頼り、国家をどう考えるかという公的な面は天皇の問題になる、というのである。日本は江戸時代から迷信が乏しい国で、西欧の魔女裁判は元禄時代までも行われており、その時代に日本では現世を謳歌していた(P141)。日本人は現実的なのであり、だからこそ、万能の神があらゆるものを創ったなどという夢物語を信じられないのである。

 皇室への恐怖と原爆投下(P187)という項は、本のタイトルのゆえんであろう。アメリカにとって日本は「神の国」に反抗した悪魔だから原爆投下をやってのけた。天皇の名の下に頑強に抵抗した日本に畏怖を感じたのである。その後、意識が変化して原爆投下に対して罪の意識を感じるようになってきた。日本の統治に利用するために、天皇を残したというのは間違いで、天皇を倒すことはできないことがアメリカ人にはわかってきたのである。それで長期的に皇室を弱体化し失くす方法を講じてきた。ひとつの方法は皇室の財産を全部なくし、皇族を減らして皇室を孤立させた。もうひとつは教育である。今上天皇陛下の皇太子当時にクエーカー教徒の家庭教師をつけ、今の皇太子殿下にはイギリスに留学させた。(P191)頭脳を西洋人に改造しよう、というのである。

 さらに、皇太子妃殿下はカトリック系の学校出身で、現地体験から欧米趣味をもっておられ、洋風ではない皇室の生活がストレスになっている、というのだが、妃殿下との結婚までアメリカの陰謀だというのは出来過ぎた話のように思われる。ただ、西尾氏は雅子妃殿下について厳しい論調で批判している論文を世に出している。大日本史や、新井白石、福田恆存、会田雄次、三島由紀夫などの例をひいているが、元々民とて皇室は批判すべきことはきちんと批判すべきという考え方の持ち主(P231)なのである。

いずれにしてもイギリスが建国の英雄の娘であるアウンサン・スー・チーを長く英国で暮らさせて英国人と結婚させ、ソフトの力でミャンマーを支配しようとしているのと同類の高等戦術を使っている。(P190)西尾氏はそれでも日本は必要に迫られれば「神の国」が激しくよみがえる可能性がある(P192)と希望をつないでいる。

 和辻哲郎は高名な倫理学者であるが、昭和18年に「アメリカの国民性」という貴重な論文を書いている。(P211)その書でバーナード・ショウの英国人の国民性についての風刺を引用している。「イギリス人は生まれつき世界の主人たるべき不思議な力を持っている・・・彼の欲しいものを征服することが彼の道徳的宗教的義務であるといふ燃えるような確信が・・・彼の心に生じてくる・・・貴族のやうに好き勝手に振る舞ひ、欲しいものは何でも掴む・・・」のだという。これがアメリカに渡った英国人の基本的性格なのである。ショウは皮肉めかしているが内容は事実である。

 和辻によるイギリス人のやり方はこうである。土人の村に酒を持ち込んで、さんざん酔っぱらわせ、土人の酋長たちに契約書に署名させる。酔っぱらった酋長は彼らに森で狩りをする権利を与えたのだと勝手に解釈するのだが、契約書にはイギリス人が土人の森の地主だと書いてある。酔いが覚めた土人は怒りイギリス人を殺すと、契約を守らなかったと復讐し、土地を手に入れる。こうして世界中で平和条約や和親条約を使って領土を拡大する。(P217)和辻はこの説明をするのにベンジャミン・フランクリンを引用している。

そしてインディアンの文明は秩序だっており、イギリスからやってきた文明人と称する人たちのやりかたのほうか、むしろ奴隷的で卑しいものだと、インディアンたちは考えていたであろうと、フランクリンは気付いていた、というのである。これは西郷隆盛が西洋人は野蛮である、と断定したのと共通するものであろう。ところがフランクリンは、そう考えながらも、気の毒ながらインディアンには滅びてもらわなければならない、(P219)と考えたというから西洋人というのは怖しい。和辻に言わせると、フランクリンは良識的なのだそうだ。

 和辻氏は別のエピソードも紹介する。あるスウェーデンの牧師が、聖書についてアダムとイブの話からキリスト受難の聖書の話を土人の酋長たちにした。非常に貴重なあなた方の言い伝えを聞かせてくれた、お礼にと言って酋長が、トウモロコシとインゲン豆の起源についての神話を話すと牧師は怒りだす。「私の話したのは神聖なる神の業なんだ。しかし君のは作り話に過ぎない。」というのだ。土人も怒って、我々は礼儀を心得ているから、あなたの話を本当だと思って聞いたのに、あなた方は礼儀作法を教わらなかったようだから、我々の話を本当だと思って聞けないのだ、というのである。これは西洋人の独善をついた貴重なエピソードである。この性格の基本は今でも変わらないことをわれわれは心するべきである。

 そして和親条約を締結してからが、アングロサクソンの侵略の始まりである、ということは日本にも適用されていると和辻氏はいうのだ(P252)。ペリーは大砲で威嚇しながら和親条約の締結を迫ったが、拒めば平和の提議に応じなかったとして武力で侵略するつもりであった。対支二十一箇条の条約は、武力の威嚇の下になされたとして、欧米に批難された。不戦条約を作り一方で自衛か否かは自国が決める、と言っておきながら、満洲事変以後の日本を不戦条約違反であるとした。

 しかもこの身勝手な欧米人の行為を正当化したのがトーマス・ホッブスの人権平等説であるというのだ。ホッブスの人権平等説とは、あらゆる人間は自然、つまり戦いの状態に置いて平等に作られているというのである。簡単に言えば強い者は弱い者を叩いてもいい、という平等なのである。もちろん、インディアンや原住民にした行為が「正義」や「平和」のもとに行われることの矛盾は、欧米人も承知している。だが、原住民からあらゆるものを奪い取ることの欲求を抑えることが出来ないから、こんな理屈をこねるのである。

 荻生徂徠が「・・・『古文辞学』と言って、前漢より以前の古文書にのみ真実を求め、後漢以後の本は読まないと豪語し、ずっとくだった南宋の時代の朱子学の硬直を叩きました。」(P233)というのであるが、小生はこの言葉を西尾氏とは別の意味に受け取った。本来の漢民族は、漢王朝が崩壊すると同時に滅亡した。古代ローマ人が現代イタリア人とは民族も文明も断絶しているのと同じ意味で、秦漢王朝の漢民族と現代中国の自称漢民族は文明的にも民族のDNAも断絶している。儒学などの支那の古典は漢王朝までに完成したものである。それを異民族が勝手にひねくり回した南宋の朱子学などというものは偽物だと思うのである。徂徠は内容から、後漢以後のものはだめだと判断したのだろうが、小生は歴史的に判断したのである。


石原莞爾・備忘録ノート・早瀬利之・光人社

2013-02-23 11:56:32 | 歴史

 石原の名前とタイトルに興味を以て読んだが、私としては外れでした。石原が活躍した満洲事変と支那事変の頃の日記は何故か欠落しているが、代わりに備忘録があり、それを解説したものである。ところが小生の分かる知識の範囲でさえ疑義のあるものがあるから、残りは推して知るべしだと思うのである。

 例えば「戦闘機、五万メートル、現地にて」とあるのを、「朝鮮海峡では五万メートル飛べる長距離の戦闘機を現地で製作したい。なお、内地では、長野県の松本航空基地で、「双発の長距離戦闘機83」が、昭和十六年に試作された。」(P40)とある。

 これはでたらめに近い。明治の飛行機ならともかく、航続距離が50kmでは長距離も何も話にはならない。航続距離の数字が二桁も相場と違う。83とあるのは、キ-83であるのはいいとして、キ-83は三菱の名古屋の工場で製作され、1号機が松本飛行場に空輸されてテスト中であった。昭和16年に試作された、というのも試作指示が昭和16年で完成したのは昭和19年である、というのはけちのつけすぎだろう。ちなみにキ-83の航続距離は約2000kmである。

 我国にてオクタン価一〇〇のものを用い、一馬力一六〇gまで出せり(P48)とあるのをそのまま、100オクタンの燃料160gで1馬力が出せる、と書くのだがとんでもない話である。馬力は単位時間当たりのエネルギー量だから、時間の次元があるが、ガソリンの重量はエネルギーの量を表しているだけであるから、両方が比較できるはずがない。  

そもそもオクタン価が高かろうと低かろうと単位重量当たりに持つガソリンのエネルギーは同一である。効率が同じならば、1リットルのガソリンを短時間で消費するエンジンは、長時間で消費するエンジンより高い馬力を出すことができる。ただし、高オクタンのガソリンの使用を前提にすれば同じ馬力でも、より小型軽量のエンジンが作れると言うだけのことである。石原が間違っていなければ別の解釈があるはずである。

 石原が飛行機の操縦ができたとか、エンジン通だった(P49)と持ち上げるなら、もっとよく調べるべきなのである。私は著者が知識が不足している事を言っているのではない。調べれば分かることを調べていない節があることを言っている。以上指摘したことは、調べるなり、専門家にちょっと聞くだけで分かる程度のことだからである。